本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回と前々回を通して、うけいで生まれた女神、そして男神たちについてお話をしました。今回から、スサノヲが高天原で大暴れをするシーンの解説に入りたいと思います。
まずはいつものように、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。
原文/読み下し文/現代語訳
尒速須佐之男命 白于二天照大御神我心淸 故我所生子 得手弱女 因此言者 自我勝云而 於勝佐備 離天照大御神之營田之阿 埋其溝 亦其於聞看大嘗之殿 屎麻理散
尒して速すさの男命、天照大御神に白ししく、「我が心清く明し。故我が生める子、手弱女を得つ。これによりて言さば、自ら我勝ちぬ」と云して、勝さびに、天照大御神の営田のあを離ち、その溝を埋め、またその大嘗を聞こしめす殿に屎まり散らしき。
そこで須佐の男命は天照大御神に、「私の心は清らかです。なぜなら、私が生んだ子はたおやかな女だからです。この結果で言えば、当然私の勝ちです」と言って勝ち誇り、天照大御神が所有する田畑の畔を壊して、その溝を埋め、また新穀を召し上がる御殿に糞を撒き散らした。
故雖然爲 天照大御神者 登賀米受而告 如屎 醉而吐散登許曾 我那勢之命 爲如此 又離田之阿 埋溝者 地矣阿多良斯登許曾 我那勢之命 爲如此登詔雖直 猶其惡態不止而轉
故然為れども天照大御神はとがめずて告りたまひしく、「屎の如きは、酔ひて吐き散らすとこそ、我がなせの命、この如く為む。また田のあを離ち、溝を埋むるは、地をあたらしとこそ、我がなせの命、この如く為む」と詔り直したまへども、なほその悪しき態止まずて轉ありき。
しかし天照大御神は咎めず、「糞のようなものは、酔って吐き散らそうとして、我が弟はこのようにしたのでしょう。また田畑の畔を離して溝を埋めたのは、土地がもったいないと思ったから、我が弟はこのようにしたのでしょう」と仰って擁護されたが、その悪行はますます酷くなっていった。
これが今日取り上げるシーンです。
解説
今日のテーマ
さて、今日お話する内容なんですが、神話はただ読み進めるだけでは物事の本質を掴めないので、まずは古事記がここで語ろうとしているテーマを明確にしてから、物語の細部に踏み込んでいきたいと思います。
前時代において、イザナキとイザナミの創造行為によって自然が形成され、二神の離別をきっかけに文化の萌芽が生まれました。そして、子どもの時代に場面が移ると、今度はその文化の萌芽が花開いていくことになります。それが高天原で起こる一連の出来事に象徴されているので、このシーンのテーマはずばり「自然からどのように日本文化が生まれ、花開いていったか」です。
しかし、古事記いわく、自然から文化が支障なく生まれたのではなく、そこにはいろんな問題や葛藤、対立もあったとのこと。その「自然 VS 文化」という二項対立がスサノヲとアマテラスの間で繰り広げられていきます。それでは、テーマが明確になったところで、早速今回のシーンを見ていきましょう。
なぜスサノヲはうけいを勝負事にしたのか?
まずは、うけいの結果から。スサノヲは「私の子どもはたおやかな女なので、私の清き心は証明されました」と言って勝ち誇り、アマテラスが所有する田畑の畔を壊したり、屋敷でうんちをしたりと、好き放題暴れました。
この場面で疑問に思うのは、うけいは心のあり方を可視化させる占いのようなものなので、勝ち負けは関係ないということ。でも、スサノヲは「私が勝った」と言って、勝者の権利として田畑で好き放題暴れました。
なぜ、急にスサノヲはうけいを勝負事にしたのでしょうか?その理由は、アマテラスの左みづらから生まれた正勝吾勝勝速日天の忍穂耳命が関係しているからだと思います。この神の「正勝吾勝」を「正しく勝った、私は勝った」と読めば、これはスサノヲの態度そのものになるからです。
つまりはこういうことです。アマテラスの持ち物から生まれた五柱の男神は、アマテラスの子どもでもあると同時に、これからのシーンのシナリオにもなっているのではないだろうかということ。試しに右みづらから生まれた天の菩卑能命も見てみたら、この神も何やらスサノヲの暴挙によって天岩屋戸に隠れてしまうアマテラスの心情を指し示していることが見えてきました。
天の菩卑能命については、天岩屋戸まで解説が進んだときに詳しくお話しますので、とりあえず今はオシホミミに限って言うと、スサノヲがうけいを急に勝負事にしたのは、正勝吾勝勝速日天の忍穂耳命が物語のシナリオの一つとして誕生し、それをスサノヲが体現したからではないかなと思います。
創造と破壊の誓約
さて、勝者の権利として大暴れするスサノヲに対してアマテラスは、「糞のようなものは、酔って吐き散らそうとしたから。田畑を壊すのは土地がもったいないから、そうしているのでしょう」と、意味不明な理由でスサノヲの行動を擁護します。
これはとても奇妙な話で、なぜアマテラスはスサノヲの行動を咎めなかったのでしょうか?この件について、先ほどお話した自然と文化という二項対立の視点を導入すると、あることが見えてきます。
少し遠回りな話から始めますが、スサノヲの暴挙をアマテラスが咎めなかった背景には、黄泉国でのイザナキとイザナミが別れ際に交わした誓約が関係していると思われます。黄泉国において、両親であるイザナキとイザナミが事度を渡して別れたとき、生と死が生まれました。これは「生きるためには必ず死ななければならない」という、生と死の誓約です。そして、この場面を繰り返す形で、アマテラスとスサノヲの間でもうけいを通して何らかの誓約が交わされたと思われます。
では、アマテラスとスサノヲはどんな誓約を交わしたのでしょうか?それは、創造と破壊の誓約だと考えます。なぜなら、このシーン全体を通して、田畑を営んでいくことや、そこで収穫したものをいただくという、文化的な営みが感じ取れるからです。しかし、文化的な営みは永久には続きません。どこかで破壊が行われてこそ、新しい秩序、新しい創造性が生まれ、文化は刷新されていきます。つまり、代謝ですね。
両親が生と死の誓約を交わし、子どもたちは創造と破壊の誓約を交わして、生と死の中で絶えず繰り返される代謝のサイクルを生み出した。ということは、アマテラスは文化を象徴した神、反対にスサノヲは自然、もしくは自然が持つ破壊的な力を象徴した神だと言えます。その頭で今回のシーンを見てみると、アマテラスが所有する文化の領域に、スサノヲが持つ自然の暴力的かつ破壊的な力が介入していると読むことができます。
自然の破壊的な力の介入二つ
自然災害
破壊的な力が介入したとき、そこにはカオスが生じます。カオスを引き起こす自然の力にはどんなものがあるかを考えてみると、二点ほど挙げられます。
一つは自然災害。これは、スサノヲが高天原に上ってくるとき、大地が激しく揺れ動いたという点から読み取ることができます。災害によってこれまであった秩序が破壊され、復興に向けて歩みを進めるとき、自然災害とこれからどう向き合っていけばいいかという、新しい視点をもって国の未来像を考えていかなければいけないというのは、災害の多い日本に住む私たちにとってはみんなが納得できる話だと思います。新しい秩序の創造ですね。
毒
もう一つは毒。毒といえば、スサノヲは金属でいえば猛毒な水銀の性質を持った神様でもあります。しかし、今回のシーンはその水銀が田畑にばらまかれている話ということではなく、スサノヲの暴挙を通して毒が持つ強烈な力が表現されているのだと思います。
また、毒は命を奪いますが、ときに薬となって命を救います。アマテラスが言った「土地がもったいないから~」という言葉からも、スサノヲが何かを変えようと大きな力をふるっていると読めます。ですから、今回のスサノヲの暴挙は、文化に対する自然の破壊的な力の介入ではあるけれど、薬のように田畑を良くしようと思って行われたものではないかなと私は考えました。
まあ、かなり大暴れをしていることから考えるに、劇薬的であることは否めませんけどね(笑)
さらに、毒はお酒や麻薬とも似ていて、それらは接種した人を強烈に酔わせたり、ときにトランス状態を引き起こしたりもします。そのような毒の力を「糞のようなものは、酔って吐き散らそうとしたから」という言葉が意味しているのではないでしょうか。スサノヲが毒の力を持っていることがわかると、アマテラスの言葉の意味が何となくわかってきますね。
アマテラスとスサノヲが結んだ協定
さて、スサノヲが田畑をどう変えようとしているのかについては、次回お話するとして。ここからは今日最後のお話として、うけい前と後のアマテラスとスサノヲの関係性の変化についてお話をして、今日の解説を終えたいと思います。
私が考えるに、うけい前と後では、アマテラスとスサノヲの関係性は大きく変わったと思います。どう変わったかというと、二神は信頼関係で結ばれたと思います。文化に対する自然の介入というのは、普通に考えれば恐ろしい出来事です。しかし、アマテラスがスサノヲの暴挙を穏やかに見届けている理由は、彼に邪心がないとわかっているからです。その清い心を証明したのがうけいであり、そこで信頼関係が結ばれた。
それは言い換えれば、紳士協定が結ばれたとも言えるかもしれません。紳士協定というのは、互いに相手を信頼して取り決める約束のことで、それで言えば、スサノヲとアマテラスという関係から、破壊と創造がタッグを組んだとも言えます。アマテラスは、スサノヲの破壊活動には邪心がなく、清い心をもって新たな創造のために大きな力をふるってくれていると理解している。だから、彼女はスサノヲの行為を咎めなかったのだと思います。
古事記において、破壊は信頼関係の下で行われているということ。このような解釈を導入してみると、これまで持っていたスサノヲに対する悪い印象がガラリと変わると思います。彼はただ単に暴力的な神ではなく、大きな力を創造のために使う、真面目で律儀な破壊の神様なのだと私は思います。
というわけで、今日は創造と破壊、そして文化と自然の対立についてのお話でした。次回は、スサノヲがアマテラスが営む田畑をどう変えようとしているのかについて、彼の生物学的側面からお話したいと思います。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!