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日本の性愛の歴史①~ハレとケ~

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natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

今日から、日本の性愛の歴史についてお話します。

▼ 参考文献 ▼

▼ 参考文献 ▼

ヨーロッパでは古代ギリシャ・ローマの時代と、キリスト教が影響力を持った時代とでは、性愛のあり方が大きく変化します。

しかし日本では、明治政府が西洋の知識を輸入し、西洋を見習って性を厳しく規制するまで、驚くほどおおらかな性文化を持っていました。

日本の性愛の歴史とはいっても、長々と歴史をふり返るのではなく、大まかに把握すべきところだけをピックアップしてお話したいと思います。

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ハレ(聖なる時間)とケ(俗なる時間)

社会学者の宮台真司さんによると、人間は原初的社会(部族段階)では、ハレ(聖なる時間)ケ(俗なる時間)が交替していたと話します。

人類が狩猟生活から大規模定住に切り替えて約一万年弱。

農作物を栽培するために定住するようになったわけですが、そこでは人々の協力なしには生活は営めません。

稲

近代化が進むまで、農作業というのは大変な重労働でした。

これまでの狩猟生活にはなかった、他者との連携が必要になるのです。

そのため、人間はルールを作り、それを守ることで人々が協力し、農作業を確実に遂行できるように考えたのです。

しかし、本来人間はルール(後の社会)の外で生きていた存在であるため、ルールの中だけでは生きていけません。

それはあくまでも、農作業をするための縛りだからです。

そこで、ハレ(聖なる時間)ケ(俗なる時間)という二つの時間制が設けられました。

  • ルール内(社会の中)での時間をケ(俗なる時間)
  • ルール外(社会の外)の時間をハレ(聖なる時間)

ハレとケとは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。

民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。

ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。

Wikipediaより

Wikipediaにもあるように、具体的なハレの内容は、「儀礼」「祝祭」などです。

儀礼や祝祭を通して人間は歌ったり踊ったりして、神との繋がりを思い出したり、変性意識状態になることで本来の人間性を思い出していたようです。

その祝祭の中に「性行為」が含まれています。

ルールを守るためにも、あえてルール外(社会の外)に定期的に戻って、本来の自分たちを思い出すということをしていたそうです。

また、その祝祭の中で、人々の心を繋ぎ、一致団結するという共通感覚も取り戻していたようです。

祭りの存在意義

現代人にとってもお祭りといえば、独特の空気感を大好きだと感じる人も多いことでしょう。

祭り

日常から離れた特殊な空気感、そして特殊な意識状態。

現代のお祭りは神様をたたえたり、五穀豊穣を願ったり、町の繁栄を願ったりと、あまり個人に直結するような点は見られないかもしれません。

しかし、昔の祭りとは人々に直結するものであり、社会の外に出て本来の人間性を取り戻すためのものだったのです。

こういった行いは、日本に限らず、全世界で見られるものです。

しかし、キリスト教が世界中に広まる中、祝祭に含まれる「性」が厳しく規制されていきます。

その中で、日本だけは大正時代、場所によっては昭和初期まで「性」を含む祝祭はずっと残りつづけました。

女性による享楽の提供

そして奈良時代に入ると、村全体で行う祝祭以外にも、宴会という場において人々は享楽を楽しむようになります。

そのとき活躍したのが、宴会をもり立てる遊行女婦(あそびめ)と呼ばれる芸能専門集団の女性たちです。

あそびめ
画像:日本服飾史より拝借

あそびめ、またはうかれめともいわれ、古い頃の巫女が神性、司祭性を失ってから流浪性、遊行性、娼婦性を発展させたのが奈良時代の遊行女婦であって、平安時代以降はそれをちぢめて遊女と表現された。

平安時代の遊女は教養もあり、彼女らの和歌が勅撰歌集に入っているものもある。

遊び女|日本服飾史

彼女たちは一箇所に定住せず、移動しながら招きに応じてやってきて、しばらく滞在し宴会の手伝いをしてくれる専門業者です。

歌や舞だけでなく、性の提供も含まれています。

吉原の誕生

そしてさらに時代は進み、江戸時代に入ると、これまで定期的に運ばれてきた性を含む享楽を、「そこに行けば芝居や色事が楽しめる」という場として、吉原に代表される遊郭を江戸幕府が設けました。

吉原

社会学者の宮台さんによると、このように定期的に運ばれてくる性を含む享楽は<時間性>を伴っており、江戸幕府が行った遊郭建設は、その<時間性>を<空間性>に置き換えたと表現しています。

つまり、昔の日本はヨーロッパとは違い、性を排除する方向に動いたのではなく、性の場をしっかり確保したということ。

それくらい日本人にとって性は、なくてはならない文化だったということです。

宮台さんは、「社会システムの計算可能性を増やし、より複雑な統治を可能にするための、見事な戦略」と称しています。

社会としてはうまく性を取り込んだようですが、実際のところはやはりいろいろ問題があるわけで…。

ちなみに、男性にとって遊女との色恋が、現代でいう恋愛に該当するようで、一般女性(地女)は子を産み育てる存在という位置づけだったともいわれています。

この場合、今でいう都心の男性の恋愛対象者は遊女であり、村内における男女は自由恋愛だったそうです。

15世紀以前の遊女は個人経営者だった

先程お話した遊行女婦(あそびめ)ですが、彼女たちは個人経営者として「遊女の家」を女系で継承しつつ、遊女の集団を形成していったそうです。

遊女たちは社会の一員として、差別を受けることなく、様々な階層の人々と関係を結びながら生活していました。

それが15~16世紀には「遊女の家」の経営権がしだいに失われ、今度は男性たちが女性を売買するようになります。

そこから、貧しい家の娘を買ったりと、遊女は奴隷的な従属を強いられることになります。

ここで興味深いことは、遊女ビジネスは女性からはじまり、その当時、彼女たちは差別を受けることがなかったということ。

そのビジネスが男性たちの手に渡ることで、女性の地位が落ちていったようです。

母系社会から父系社会への変遷と似たような形ですね。

ここもフラクタル構造の現れなのかもしれませんね。

それでは次回は、日本の一般庶民における性文化についてお話したいと思います。

次回もお楽しみに♪

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