私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日も前回に引きつづき、日本の性愛の歴史についてお話します。
◎前回までのお話はこちら↓
参考書籍「夜這いの民俗学」
今日は、民俗学や考古学を研究されていた、赤松啓介(あかまつけいすけ)さんの書籍『夜這いの民俗学・夜這いの性愛学』を参考にして、日本の性文化についてお話したいと思います。
▼ 参考文献 ▼
このお話は、赤松さんご本人が自転車で行商をしながら各地を回る中で、子供の頃から好きだった民俗学と考古学を主とした郷土研究のための調査をするようになったことから話がはじまります。
行った先の村で商売をしながら話を聞き、相手が警戒すると困るからと、メモは一切とらず調査を行っていたそうです。
商売も取材も最初は行きあたりばったりだったそうですが、やがて親しくなってくると、<夜這い>の話も耳に入ってきたそうな。
赤松さんご本人も、そういった経験はあったそうですが、実際にやってみないとわからないこともあるとして、行商しながらの郷土研究も、話を聞く一方で、<夜這い>もするという実践にも出たそうです。
村の人々にとって、性民俗についてタブーがないため、自転車の行商人である赤松さんに対しても、警戒することはなかったそうです。
当時の日本の一般庶民の結婚観と性愛観
さて、当時の日本の一般庶民にとっての結婚観や性とはどんなものだったのか。
まず結婚観について、明治から大正、昭和初期にかけて生きた女性の大半は、町なら幕末、村なら村落共同体の思考・感覚でしか生きていませんでした。
明治天皇が下した教育勅語は、実際のところ、さほど一般庶民に広がっていなかったそうです。
そのため、尋常小学校(修業年限:4年)を出ていないような人に、家父長制や一夫一婦制といった思考がなじまないのは当たり前です。
<夜這い>についてもわいせつなものとして感じておらず、お互いに性の解放があって当然だと考えていました。
逆に、女学校やキリスト教的な教育を受けた女性たちとの落差は大きく、村では中等教育以上を受けた女性は、だいたい「スソナガ」「スソヒキ」と呼ばれて、孤立していたそうです。
夜這いは結婚相手を見つけるための大切な文化
田舎の村では、地主、酒造はごく一部、小作、日雇いが大半の人口を占めていました。
時代が古いほど村内婚が多く、明治以降はむりやり入籍結婚にされてしまったそうですが、それまでは<夜這い>の延長みたいなもので、同棲したからといって必ずしも双方が、相手を性的に独占したわけでも、できたわけでもありませんでした。
別れるのも簡単で、女性が家を出るといっても、風呂敷包み一つで済む場合が多かったのです。
離婚のなんのと騒ぐこともなかったため、古い記録を見ると、三婚、四婚もめずらしくありません。
記録にならない別れや出会いは、じつにたくさんあったことでしょう。
つまり、村人にとって<夜這い>とは、結婚相手を見つけるための大切な文化でもあったようです。
夜這い文化が生まれた時代背景
そして<夜這い>について、なぜそのような文化がはじまったのか、赤松さんはこのように考察しています。
<夜這い>の成立は、中世の戦乱の様相と展開とに密接な関わりがある。
戦国時代、村に他から軍が攻めてくる、ときには奇襲などで突如襲われる場合もある。
村の人々はある程度までは防衛し、女子供を隠し、砦などに逃げさせる。
しかし残った男どもは軍夫、足軽などに徴用されたり、そのために負傷したり、戦死したり、殺害されたり、いろいろと不幸があったにちがいない。
したがって、男と女の生存、その対応がかなり崩れたのも多かったにちがいない。
だいたい男に対して女の方が多かったのではないかと思われるが、このアンバランスを阻止しようとして、男の<夜這い>が始まったのではないだろうか。
また、平時でも山村などでは、母子、父娘その他のいわゆる近親性交、近親結婚が多いといわれていたため、そうした突発的な障害に対して、新しい性民俗が普及したのは当然だろう。
赤松さんは、戦国乱世社会が近世の<夜這い>民俗に大きく影響していると見ているそうです。
性文化を学ぶ上での注意点
こういった時代背景を知らずして、「日本はおおらかな性文化を持っていた」と安易に考えるのは危険です。
性文化の発展は、その背景に社会と個人の意識の在り方が密接に関わっています。
ですので、今日押さえておきたいポイントは下記の通りです。
- 当時の人々の意識が、個人ではなく、村意識にあった
- 村を存続させるために<夜這い>文化が生まれた
- 村を存続させることが何よりも優先される
それでは次回は、より詳しく一般庶民の性文化についてお話したいと思います。
次回もお楽しみに♪