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【チベット密教】性と解脱の関係について~究極の智恵と究極の快楽~

蓮の花コスモ・ライフォロジー
natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

今日は、チベット密教における、性と解脱の関係についてお話したいと思います。

▼ 参考文献 ▼

◎前回までのお話はこちら↓

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四つの密教

チベット仏教界では、大学僧プトゥン(1290~1364年)によって密教が4つに区分されました。

彼は密教を、その発展段階に応じて、

  1. 所作
  2. ヨーガ
  3. 無上ヨーガ

の4タントラに区分しました。

この分類法は、無上ヨーガタントラを最上とするチベット仏教会の共通認識にもとづいています。

タントラとは?

「タントラ」とは「縦糸」を意味するサンスクリットから生まれ、やがて「連続・相続」を意味するようになったとされる言葉で、仏教経典を意味する「スートラ」の密教版と考えてよい。

厳密にいえば、性的ヨーガを解脱のための修行法として導入した密教、すなわち無上ヨーガタントラ段階の教えを説く経典だけがタントラと呼ばれていたが、やがて密教経典全体をタントラと呼ぶようになったと推測されている。

なお、タントラに「教え」を意味する「イズム」をつけ加えたタントリズムという言葉は、欧米の研究者がタントラという言葉から派生させた造語であり、今ではインド系の性行為を修行に導入した宗教全般に対して用いられている。

チベット密教界と日本密教界

現在の日本の密教界では、密教を歴史的に、

  1. 前期
  2. 中期
  3. 後期

の3つに分けて理解します。

本格的な密教経典の誕生をもって中期とし、それ以前を前期、密教の最終的な形態をもって後期とする分類法です。

チベット密教界と日本密教界の分類法を組み合わせると、こうなります↓

チベット密教の分類

仏教とヒンドゥー教との戦い

ブッダが仏教を創始して約1000年。

ブッダ

5世紀以降のインド宗教界では、長らく続いてきた仏教とヒンドゥー教の拮抗状態が破れ、ヒンドゥー教の優勢が明らかになりつつありました。

その中で、インド仏教はヒンドゥー教の優位をくつがえす方法を模索します。

一つは、ヒンドゥー教の成功にならって、その方策に学ぶこと。

もう一つは、ヒンドゥー教がいまだ手を伸ばしていない領域に、先んじて触手を伸ばすことでした。

そして考えだされたのは、他者救済という高尚な理念ばかりが先行して、いささか頭でっかちとなり、肝心の理念を実践するにたりる心身の開発を怠ってきた、大乗仏教の刷新でした。

密教の芽吹き

もとよりブッダ以来、仏教は「行(修行)」の宗教として発展を続けてきた伝統があります。

その行の中核は、すなわちヨーガ

呼吸抑制やイメージ操作など、各種の身体技法を駆使する瞑想法において、仏教が求める理想の心身は成就できない。

ヨーガ

折しも5世紀に入り、インドのヨーガは大きな転換点を迎えていました。

性欲に代表される生命エネルギーを抑制して、寂静たる解脱の境地をめざす旧来の「寂静の道」から、むしろ生命エネルギーを活性化し、さらにそのエネルギーを浄化することで解脱にいたろうとする「増進の道」へ向かおうとしていました。

この事態を受けて、一部の先鋭な仏教者たちは、霊(精神)と肉(身体)の関係の再構築を企図しました。

それは、霊の変革は霊のみによっては不可能であり、肉の変革こそが霊の変革を可能にするという結論を導きだしました。

こうして大乗仏教の中から、密教が芽吹きました。

密教が発見した「性」という領域

さらに、ヒンドゥー教がいまだ手を着けていない領域を模索する中で、密教が発見したのは

「性」という領域

でした。

それでなくても、霊と肉の関係を突き詰めていけば、必然的に性の問題に立ち入らざるを得ません。

コスモ・ライフォロジーもここにぶち当たりました。

しかし性は、あらゆる時代のあらゆる宗教にとって、封印された領域でした。

ヒンドゥー教は、たとえばシヴァ神に対する信仰などで、性器崇拝が顕著な点などから見ると、やや意外な感じはしますが、元来、性を解脱のための修行と結びつけることに関しては消極的な態度をとっていました。

そんな性を修行に導入しようと試み、現実に実践したのは仏教密教の徒でした。

彼らは、ヒンドゥー教が忌避してきた領域にあえて踏み込むことで、仏教の劣勢を回復しようとしたと思われます。

究極の智恵と究極の快楽

この途方もない試みは、この世のありとあらゆる存在も現象も、本質的には清浄であって、人間のもろもろの行為もまた本来、清浄なのだという大乗仏教に特有の考え方にもとづいています。

この考え方は、最古の大乗仏典とされる般若経に源があり、7世紀に成立した理趣経では、

人間の煩悩はもとより、性行為もその快楽も菩薩の境地にほかならない

と高らかに宣言されています。

巻物

もともとインドには、

究極の智恵は究極の快楽と不可分の関係にある

という認識が存在していました。

したがって、理想のヨーガには、最高の快楽がともなうはずなのです。

生命エネルギーを活性化することで解脱にいたろうとする試みは、会陰部に潜む性的なエネルギー(シャクティ=クンダリーニ)を特殊な身体技法を用いて、霊的な方向へ目覚めさせることから始まります。

そのうえで、身体の中心線上に存在するというチャクラと脈管(ナーディ)と呼ばれる霊的な器官の中を上昇させていけば、性的なエネルギーは次第に霊的なエネルギーに変換され、ついに頭頂のチャクラに到達したとき、修行者は絶大な快楽のうちに、最高の智恵を獲得して、解脱を遂げるとみなされました。

チャクラ

そしてもう一つ、8世紀以降の密教の母胎であった大乗仏教が、理論面からも性的ヨーガが解脱のためには不可欠という結論に達した理由もあげておきます。

大乗仏教にとって最も重要なコンセプトは、

空性(くうしょう)

です。

その「空性」を、性の快楽として把握する見解が登場したのです。

それを、

大楽思想

といいます。

「聖なるもの」と「俗なるもの」

また、「聖なるもの」は「俗なるもの」と不可分の関係にあり、「聖なるもの」と「俗なるもの」とは逆転しうる。

さらには、「俗なるもの」の極みにこそ「聖なるもの」が顕現するという見解も、「空性」をめぐる考察から登場しました。

考えてみれば、「空性」を快楽として把握することと、「聖なるもの」は「俗なるもの」と不可分の関係にあるとみなすことは、相通じています。

両者を総合すれば、

「聖なるもの」の極みとしての「空性」は、「俗なるもの」の極みとしての性の快楽によって把握できる

という、いわば霊的方程式が導きだされるからです。

性行為は、人間にとって一番の根源的であり、誰しも避けては通れないものであるにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、世界中のあらゆる宗教が忌避してきたものです。

誰の眼にも、俗の中の俗と映る行為。

それのみが人間を、わけても末世の人間を解脱という聖の極みへと、いわばジャンプアップさせる唯一の方法なのだと後期密教仏典は説きました。

まとめ

ここまでお話を進めてきて、男女の意識の分断が起こり、感情の劣化が起こっている現代において、この考え方は不思議とものすごい説得力があると感じてしまう私。

そして、「聖なるもの」は「俗なるもの」と不可分の関係にあり、「聖なるもの」と「俗なるもの」とは逆転しうる。

ヌーソロジーの反転構造にも合致しますね。

「俗なるもの」をどうやって「聖なるもの」に反転させるのか。

ここを思考し実践していくことは、人間の知性と理性を本当の意味で活かすことになるのではないだろうか。

次回も引きつづき、チベット密教のお話をしていきます。

次回もお楽しみに♪

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