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チベット密教における悟り~双入(すんじゅく)~

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natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

今日は、チベット密教が考える「悟り」についてお話したいと思います。

▼ 参考文献 ▼

◎前回までのお話はこちら↓

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秘密集会タントラの二つの実践法

ゲルク派の宗祖であり、ブッダ以来、2500年におよぶ仏教の歴史における最後の巨人であったツォンカパ(1357~1419年)は、『秘密集会(ひみつしゅうえ)タントラ』が究極の仏教なのだと主張しました。

ツォンカパ

『秘密集会タントラ』とは、「あらゆる秘密の真理が集められた密教経典」を意味します。

この「秘密集会タントラ』を典拠とする実践法に、

  • ジュニャーナパーダ流
  • 聖者流

の二つの流派が存在しました。

ツォンカパは聖者流を選択し、修行に励みました。

聖者流の本尊「秘密集会」

聖者流の本尊は、その名を

秘密集会

といいます。

サンスクリットでは「グヒヤサマージャ」、チベット語では「サンワ・デュパ」といいます。

「グヒヤ」や「サンワ」は「秘密」を、「サマージャ」と「デュパ」は「集まり」をそれぞれ意味します。

そのため、本尊の名を日本語訳すれば秘密集会という、奇妙な名前になってしまうのです。

本尊の身体の色は青。

三つの顔を持ち、正面は青く、右は白、左は赤い。

腕は六本あり、右の三体の腕には金剛杵・輪・蓮華を、左の三本の腕には鈴・宝・剣をそれぞれ持っています。

まばゆい光明を発する輪に囲まれるなど、ホトケの三十二相と八十随好(ずいごう)を備えていて、とても美しく、さまざまな宝物で造られた装飾を身につけ、いろいろな絹で織られた衣をまとっています。

そして、同じような姿の触金剛女(しょくこんごうにょ)に抱擁されています。

つまり、性的ヨーガを行じているのです。

すなわち、チベット語でいうヤブユム(父母仏=男女合体尊)の形をとります。

ヤブユム

ゲルク派における二つの密教修行

ゲルク派の密教修行では、

  • 生起次第(しようきしだい)/キェーリム=生成プロセス
  • 究竟次第(くきようしだい)/ゾクリム=完成のプロセス

の二つの段階が設定されています。

生起次第

生起次第とは、簡単にいえば、私たちの世界を構成する森羅万象が、じつは究極の存在であるホトケたちの顕現にほかならないことを感得するための修行です。

あらゆる物質世界はホトケたちが参集するマンダラであり、そこに輪廻する生きとし生けるものすべてがマンダラを形づくる上で不可欠の聖なる存在、つまりホトケであることを、観想(瞑想)して心身に浸透させることです。

こうすることで、日常性の固い殻を破砕し、日常性を絶対化し、執着しがちな私たちの意識構造を根底から揺るがし、ホトケの正しい教えを授かる準備ができあがります。

究竟次第

究竟次第とは、後期密教が究極の修行法として開発した、快楽と叡智の究極の関係にもとづく修行法、すなわち、

性的ヨーガ(性瑜伽・せいゆが)

にまつわる修行法のことです。

「瑜伽」とはヨーガの音訳で、身体技法をともなう瞑想法です。

その言葉の頭に性行為を意味する「性」という単語が冠せられていることからわかるように、「性的ヨーガ」とは男女の性行為を導入した瞑想法にほかなりません。

究竟次第はその名の示すとおり、究極の修行法なるがゆえに、きわめて秘匿性が高く、ほんのわずかな者にしか伝授されてきませんでした。

ツォンカパによる生起次第と究竟次第の統合

最近の研究成果によると、生起次第と究竟次第は、インドでそれぞれまったく別のいきさつを経て成立し、チベットに流伝したらしいのです。

したがって、チベットでもいずれか一方のみを選んで行じていたようですが、宗教界全体の傾向として、劇的な内容をもつ究竟次第に対する関心が強く、ともすると生起次第は軽んじられていたといわれています。

その生起次第に密教修行にとって不可欠の価値を見出し、しかも究竟次第と有機的に結びつけて統合し、いわばセットにして行ずるように規定したのが、ほかならぬツォンカパでした。

チベット密教における悟り

そもそも、仏教が規定する最高の叡智たる「悟り」とは、簡単に即答できるものではありませんが、ツォンカパやチベット密教が考える「悟り」とはどういった状態になるのかは答えられるかもしれません。

結論としてはこうです。

ツォンカパは秘密集会聖者流を修行することで、「幻身(虹の身体)」「本当の光明」を同時に成就させたときに、人間は至高至上の叡智を獲得して、生きたままホトケになる、つまり解脱すると信じていました。

ゲルク派の考え方では、「幻身」は物質性「本当の光明」は精神性をもちます。

そして、意識が風という乗り物を駆って移動するのと同様に、「本当の光明」は「幻身」という乗り物を駆って出現するといわれています。

この両者が同時に成就することを、チベット密教では

双入(スンジュク=双運)

と呼びます。

つまり「双入」こそが、チベット密教の求めてやまない究極の状態なのであり、これを越える叡智は存在しません。

そんなツォンカパ自身の解脱はどう訪れたかというと…

ツォンカパは当時63歳。

究竟次第の根幹をなす性的ヨーガは、性欲を完全に滅却したのち、はじめて行ずるべきものでした。

ツォンカパ自身は、すでにその段階に到達していましたが、未熟な弟子たちが師にならうあまり、性的ヨーガを行じて、堕地獄の危険をおかすことを懸念して、生前は行事なかったそうです。

そして中有(人が死んでから、次の生を受けるまでの間)の状態で、性的パートナーを顕現させて性的ヨーガを行じ、「光明」の境地を得て、ついに解脱を遂げたといわれています。

ツォンカパは性行為をしなかった?

ツォンカパ自身がチベット密教を大きく発展させたとはいえ、彼さえも仏教の戒律を守って性的ヨーガを生前は行ってこなかったというのはなんとも意外です。

さらに、解脱の際の性的ヨーガも、「性的パートナーを顕現させて…」なので、パートナーとなる相手は生身の人間ではなく、霊的なものだったようです。

最近の研究によれば、8~12世紀頃のインドでは、実際に行における性行為が実践されていたといわれています。

しかし、その行為は戒律をおかすことから、問題も多かったようです。

この問題に対する解決法は、宗派によって異なるものの、ゲルク派では以下のような扱いがされてきました。

すなわち、性欲を完全に克服できる段階に達しているのなら、現実の女性パートナーを相手に性的ヨーガを実践してもかまわない。

しかし、その段階に達していないのであれば、観想(瞑想)した女性パートナーを相手に、つまりあくまで瞑想の中の行為として、性的ヨーガを営むべきである。

もしこの原則をおかすなら、堕地獄の業苦が待っている。

ほとんどの人は性欲をコントロールできないので、瞑想で行うしかないと思いますが、これは自慰行為とは違うものでしょう。

霊的で超高度なテクニックを必要とするものでしょう。

それでは次回は、いよいよ性的ヨーガがどういった行なのか、詳しくお話していきたいと思います。

次回もお楽しみに♪

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