私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日はチベット密教における修行段階の一つ、「生起次第(しようきしだい)」で重要となる「空性の智」と、その修行法についてお話していきたいと思います。
今日のお話は難しい内容になりますが、ヌーシストにとってはすごく勉強になるお話になっているので、あえて取り上げてみたいと思います。
そして、ヌーシストならなんとか理解できるかもしれない!ということで、ヌーシストのみなさんはヌーソロジーの知識を総動員して読みすすめてみてください。
▼ 参考文献 ▼
◎前回までのお話はこちら↓
生起次第の修行内容~全49プロセス~
密教修行の第一段階である「生起次第(しようきしだい)」は、全49の修行プロセスからなります。
マンダラを生成したり、瞑想において性的ヨーガを実践したり、性的ヨーガによってマンダラを自在に大きくしたり小さくしたり、増殖させたり。
なんだか人間離れした修行ですね。
生起次第の典拠となった『吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第』の中に、「成就法」という文言があります。
成就法は、サンスクリットの「サーダナ」という語に対してあてられた訳語であり、「観想法」と呼ばれる場合もあります。
それは、「あらかじめ選ばれ、眼前に顕現したホトケと一体になる行法」を意味します。
生起次第の目的は、日常性の固い殻を破砕し、日常性を絶対化し、執着しがちな私たちの意識構造を根底から揺るがし、ホトケの正しい教えを授かる準備をすることです。
修行者は何を見ても「それらがホトケたちの顕現なのだ」と、自然に意識できるようになります。
空性(くうしょう)の智
成就法は、インドのヒンドゥー教や仏教の伝統に育まれてきた瞑想法として知られる、ヨーガのカテゴリーに入ります。
ヨーガは、いわゆる
空性(くうしょう)の智
もしくは、「空性の智」に類似する心作用を中核として行じられます。
その際、心作用が止滅する側面を強調し、その彼方に空性の智が措定されるのが古典ヨーガであり、日本の禅などがこの伝統に属します。
一方、空性の智が獲得されたのちに、さらに心的エネルギーを活性化させる側面が強調されるのが密教的ヨーガであり、成就法はこの密教的ヨーガに属します。
「空性」とは一体何なのか?
そもそも、「空性の智」の「空性」とは一体何なのか?
偉大なる巨人ツォンカパの空性理解の特徴は下記の通りです。
森羅万象が存在するのは、森羅万象が空、つまり実体をもたないがゆえである。
しかも、森羅万象は空、つまり実体をもたないがゆえに、無ではない(存在しないのではない)。
したがって、空性は原因でもあれば、結果でもある。
これを少し噛み砕いて説明すると…
この世の森羅万象は、つねに変転して止みません。
このことは、現実を観察してみれば容易に理解できることです。
とすれば、森羅万象が存在するのは、森羅万象が実体をもたないがゆえに、縁起によって集合離散し、いまお話したような存在の様態を形成するからなのです。
しかも、森羅万象が実体をもたないからといって、森羅万象が存在しないのではありません。
逆に、実体をもたないゆえにこそ、縁起によって集合離散し、存在の様態を形成するからです。
この見解に立つことによって、ツォンカパは実在論を切って捨て、返す刀で虚無論をも切り捨てます。
それは、実在しない事物に執着して、道を誤る人々を正しい道にみちびくためのものであり、同時に底なしのニヒリズムに人々が落ち込むことを回避するものでもありました。
修行で必須とされる「空性の智」の体験
さて、成就法を実践するとき、まず必須とされるのは「空性の智」の体験です。
この体験こそ成就法の基礎にほかならず、空性の智を何らかのかたちで体験しないことには、成就法ははじまりません。
もっとも、空性の智の体験とは一体何なのかを、私たちは容易に知りえません。
ただ、大乗仏教がいうところの空性にまつわる思想が、下記のように主張してきた点は認識しておきましょう。
諸法(あらゆるもの)は恒久不変の実体を欠き、空性の智を体験した瞬間には「主観(見るもの)」と「客観(見られるもの)」の区別がない。
とりわけ成就法にとって、後者が重要です。
つまり、
主観と客観の区別がない瞬間があるがゆえに、人は神となりホトケなりと一体になれる
という点です。
うんうん、これはヌーソロジーでいうψ5の領域のお話っぽいですね。
「空性の智の体験を必須とする」とあるので、まさに密教修行は主客一致を実際に体験することを目的としているんですね。
仏教における顕教は座学、密教は実技。
ヌーソロジーでいうところの持続空間の顕在化が、密教修行なのかもしれませんね。
というわけで、ちょっと難しいお話が多かったかと思いますが、ヌーソロジーを勉強していれば何となく理解できるお話ではないかなと思います(^^)
それでは次回もお楽しみに♪