私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日からいよいよ、日本の歴史における結婚観と性観念についてお話していきます。
▼ 参考文献 ▼
古代日本
時は弥生時代。
これといった争いの形跡のない縄文期が終わると、農業の導入によって生活様式の大きな変化と、人口増加が生じ、かなり頻繁に戦争が行われるようになりました。
戦乱期においては、男性が戦争でなくなり、多数の寡婦(後家・未亡人)が生じてしまうことで、男性が少なく女性が多くなる状況をつくります。
しかし、女性や子供の集団は自力では安全を維持できません。
集団は強力な男性の庇護を受けなければならず、自ずと一夫多妻制に近いような社会を形成することになります。
ここでの一夫多妻制は、「性的な乱脈」といった見方とは関係がなく、戦闘が常態である社会における一つの安全保障のための仕組みだったと見るべきでしょう。
日本ではこの時期、女性の祈祷師を宗教的首長とし、その血縁者であり、かつ実務的な首長である男性が補佐する
姫彦制(ひめひこせい)
が一般的であったようです。
卑弥呼をイメージするといいですね。
これは女性を尊重し、神秘的なものとしてみていた古代の宗教と、戦闘が頻発する社会における軍事(政治)が結びついた権力のあり方だといえます。
平安時代
その後、中央集権の仕組みが整い、戦乱が収まります。
平安時代に入ると、財産のある家の娘に、男性が通うという
という結婚のあり方が誕生します。(見方としては、ある意味母系社会。)
書籍『性表現規制の文化史』を書かれている著者によると、この通い婚こそもっとも合理的な結婚のあり方だと考えを述べています。
母親が産む子供が、母親の子であることは自明であり、この仕組には何らかの制度的な正当化を導入する必要がないから、とのこと。
上記は貴族のお話ですが、このころまでの庶民の性生活の様子は、乱婚状態だったと推測されます。
好きになれば同棲し性交し、嫌いになれば離れるという単純な仕組みです。
仮に夫婦関係が成立していても、さまざまな宗教的儀礼に付随して、他の異性と性行為を持つことは頻繁にあり、とくに問題だと考えられていませんでした。
もちろん、性的な純潔という発想などあろうはずがありません。
日本の誕生は神々の性行為ではじまった
日本の誕生は、神々の性行為からはじまったといわれています。
日本では、神々の性行為を隠すことなく、性はしっかりと神話の段階から語られています。
この性に対するありのままの捉え方が、脈々と日本人の精神に受け継がれていったのかもしれません。
古代から日本では、生殖器官を男女とも「と」と呼んでいました。
古事記にイザナギとイザナミの二神が交わる場面で、「みとのまぐわいせむ」と記されており、その他の箇所でも性器は「みと」「ほと」として表現されています。
「み」や「ほ」は、美しく優れたものにつける接頭語であり、「と」が性器の呼称ということになります。
山の峰に挟まれた奥まった谷のことを「戸」と呼びますが、人体の足の間にある場所を「と」と呼ぶことには関連があるように思われます。
さらに、日本においては女性器のほうが尊重されていました。
女性器は「御秀処(みほと)」とも呼称されたのです。
そして、それは穢れ(けがれ)や不快などとは無縁の、神秘的な生産力の源泉とされました。
今とは大違いですね!
ちなみに、江戸時代に至るまで、性器それ自体を穢れや不快さと結びつける発想は存在しませんでした。
江戸時代には男性器を「陽根」、女性器は「玉門」と、とても美しい言葉で呼ばれていました。
次回は、仏教と儒教の影響によって男尊女卑の観念が生まれていった流れをお話したいと思います。
次回もお楽しみに♪