私の宇宙からこんにちは、natanです。
このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第6回放送時のトーク内容全文をご紹介します。
本日のトーク内容
さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
以前、双対構造を解説した回で、「陰と陽」や「裏と表」のように、宇宙のすべては双子で成り立っていて、それらは互いに支え合っているとお話しました。
その話の中で、この論理でいけば、「善と悪」もお互いを支え合っていると言えるのか?とお話しましたが、今日はその件について私なりの視点でお話してみたいと思います。
私が考える善悪について
善と悪の本当の姿
私たち人間が「善と悪」という言葉を聞くと、この世の二項対立をもっとも代表するものだという印象を持ちます。そして、人間は「善」を選び、「悪」を排除しようと試みます。人類の歴史は争いの歴史でもあります。ですから、人類はずっと「善と悪」で戦っていて、今現在も世界中で戦いは続いています。
ヌーソロジーの視点は二項対立を俯瞰した視点を持つため、「善と悪」を等しい視点で捉えます。ヌーソロジーの世界観は「善と悪」といったような二項対立を超越しています。
このような表現をすると、「人間は物事をどうしても二つに分けたがる。しかも最終的には一つの答えに絞ろうとする。いやいや、ヌーソロジーの視点はね、善も悪も同じ価値を持っている、そういう崇高な視点を持つのだよ。ふぉっふぉっふぉ。」という、上から目線な印象を与えてしまうかもしれません。
まあこれは私の話し方が悪いんですが(笑)
じつはそうじゃないんです。
「善と悪」が同じ価値を持っている、という部分に着目してみると、じつは悪だと思っていたものも、実際その中に入ってみると、「あれ?善だと思っていた方が悪に見えるぞ?」ということがよくあるのです。さらに「悪だと思っていた方にも、ちゃんと自分たちにとっての善があって、それを求めているんだ」と気づくのです。
つまり「善と悪」は、はたから見ると二項対立に見え、また、「善と悪」どちらかの領域に自分が関係を持っていると相手が悪に見えてしまうのです。
しかし、真実はその内部はどっちが善でどっちが悪なのかわからない、というのが正直なところなんです。したがって、人間は善しか求めないのではないだろうか、というのが私の考えです。
「真善美」について
古代ギリシアの哲学者プラトンのイデア論が出発点となった、「真善美」という考え方があります。のちにドイツの哲学者カントの影響によって、近代の哲学体系に「真善美」という三つの概念が区分されます。
「真善美」とは、人間が生きる上での理想の状態を三つの言葉で表したもので、人間としての最高の状態が「真と善と美」の樹立だと言われています。
「真善美」は精神の本質であるため、人間は無意識的にでも「真善美」を求めて動いてしまうようです。
たしかにそうです。誰でも本当のことが知りたい、正しいと思った方向に行きたい、自分の部屋を自ら汚すような人はいません。
他人から見て「君は間違ったことをしている」と言われてしまうことも、本人にとっては本当のことだと思っていたものがじつは嘘だったり、正しいと思った方向が間違いだったり、気づいたら自分の部屋がなぜか汚くなっていたり。
このように、知らない間に、気づかないうちに、そうなってしまっていることがほとんどだと思います。ですから、はたから見ると悪に見えるものも、悪の中に入ってみると、悪じゃないということもたくさんあると思います。だから、悪の定義を今一度考え直す必要があるのではないだろうか、と思うこともあります。
もちろん、人を騙そうとして悪事を働いている人はいますし、その人を擁護するつもりはまったくありません。ただ、その人にとって悪事を行っているというよりは、「歪んだ善」の方を持っているのではないかと考えます。悪ではない、歪んだ善です。歪みは、判断が難しい、微妙なラインですが、しかし歪みを持ちつつも善を求めている。
私の人生の中で起こっていることは、「歪んだ善」ではなく、「良かれと思って」というものが大半を占めます。親も職場も人間関係も恋愛、夫婦関係も、ほとんど「良かれと思って」。
善意なんですよね。
だからこれがわかると「アウチ!」って思うんです(笑)
確実に悪いことをやっているなら、思いっきり相手を糾弾することができますが、それが「良かれと思って」という善意だとわかると、悔しいかな、責められない。しかも、私も同じようなことをやっていると気づかされるのです。
時間軸でも変わる善悪
また、物事のある一部分だけを切り取ったとき、「こっちが善で、こっちが悪だ」と、一見それではっきりと正義と悪の所在がわかった気持ちになります。
しかし、国同士の争いを見ているとわかるように、争いごとは今この瞬間にはじめて生まれたものではなくて、必ず長い時間を有しています。国同士の争いは、人間一人の寿命よりはるかに長い時間軸を持っているため、ある一部分だけを切り取って「こっちが正しい、あっちは間違い」とは一概に言えないのです。
また、人間一人が行う一見悪事と思えることも、その人の人生の時間軸から世の中を見たとき、本人にとっては「そうゆうふうに考えるしかなかった」とか「それ以外の行動が思いつかなかった」とか、時間を含み持った状態で善悪を見てみると、それもやはりどちらが善でどちらが悪なのかわからなくなります。
もちろん、正しい善悪を知らない人には、それを教えなければいけません。だから教育は大切なのです。しかし、今の時代は正しい善というより、社会にとって善であるような、ある意味、強制的な道徳観念が植えつけられることが多いと感じます。
時代によっても正しいことって変わっていきますしね。
よって、人類が何千年も善悪で争っているように、やはり人間にとって正しい善悪の判断基準をごく自然に持てるようになるためには、人類全体が一丸となって考えていかなければいけない、取り組んでいかなければいけない最大の課題なのかもしれません。
そして、悪についての定義も、今一度考え直さないといけないと思います。
善悪の価値判断は自分が持っている
当チャンネルは心の世界に焦点を当てていくことをコンセプトにしていますので、善悪に関しても自分自身に焦点を当てて考えてみたいと思います。
私たちは外側の出来事に対して「良い」「悪い」の判断をしていますが、本当は、外側の出来事ではなくて、それを「良い」「悪い」と判断しているのは自分自身なんです。
そのため私は、ヌーソロジーの善悪を超越した視点を獲得するためには、善悪を俯瞰して見るのではなく、いっそのこと対立している内部に入って、両方の思いや言い分、考えを聞くことで、自分の固定的な善悪観念を壊していくことが、結果的にヌーソロジーと同じ視点に立てるのではないかと考えています。
自分の固定的な善悪観念が解体されると、何が正解で、何が間違いなのかがわからなくなります。すると、対立しているもの同士でも、じつはみな同じ善という方向を向いていた、ということに気づかされます。そのことによって、世界を二分割しているのは、外側の出来事ではなくて、自分の固定的な観念の方だ、ということをしっかり自覚できるようになります。
この善悪観念は、自分の身の回りのことから地球レベルまで、至るところにまんべんなくはびこっています。よって、ヌーソロジーは善と悪を超越していると言えども、そこに向かうまでの道のりはかなり遠いのです。
しかし、少しでもヌーソロジーの視点に近づくためには、自分が目の当たりにした問題、人間関係、親子関係、夫婦関係などジャンルを問わず、その問題から目をそらさず、実際の体験の中で自分の固定的な善悪観念を解体していく作業をしていかなければいけないと考えます。
これまで外側の出来事に対して、固定的な観念をベースに「良い」「悪い」のレッテルを貼り、それをさも自分の意思だと思って答えを選択して生きてきたと私たちは思っていますが、自分の固定的な善悪観念が解体されると、外側に何もレッテルが貼れなくなります。そのような状態になったとき、はじめて人は本当の意味で、自分自身に意識が向き始めるのではないかと思います。
これまでの自分は二項対立のどちらを選ぶか、「善の方を選ぼう」という視点だったのが、二項対立だと思っていたものは、どちらが善でどちらが悪なのかわからないとなったとき、最終的にはこう自分に問うしかありません。
「この問題を前にして、自分にできることはなんだろう?」
「自分はどっちを選ぶか」ではありません。選べなくなっているのだから、自分にできることを探すしかなくなるのです。
身近なところから世界に至るまで、いろいろな悲しい出来事や苦しい出来事を絶えず目にする昨今です。しかし、ただ単に悪に見える方を非難したり、ただその悲惨な状況を見て悲しむというのではなく、「この問題を前にして、自分にできることはなんだろう?」と考えて行動した方が、よほど生産的で、新たな創造をも生みだせると考えます。
私自身は、いつもそのように考えて行動してます。その行動が結果的には、自分の人生を能動的に生きるということに繋がっていきます。ですから、少しずつで構いませんので、固定的な善悪観念を解体していけるように前に進んでいきましょう。
私もまだまだ固定的な観念が多いので、努力します!
というわけで、「善と悪」に関するお話にはまだまだ奥深いものがあるので、次回も引き続きこのテーマでお話したいと思います。
このお話が、みなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!