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【ろじろじラジオ】※完全ネタバレ※第34回放送★母性原理で紐解く映画『ミッドサマー』~河合隼雄先生の教えを元に考察してみた!~ミッドサマー分析

ミッドサマーアイキャッチ ユング心理学
natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第34回放送時のトーク内容全文をご紹介します。

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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

今回は人生ではじめて、映画解説をしてみたいと思います。

natan
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ちょっとドキドキ。

どんな映画かというと、2019年公開、アリ・アスター監督が手掛けた『ミッドサマー』というホラー映画です。

今日の内容はネタバレしますので、まだ映画をご覧になっていない方は、ぜひ映画を一度見てからこのラジオを聞いていただけると嬉しいです。ちなみに、グロい系が苦手な方は見るのを控えてください。

映画『ミッドサマー』とは

それでは解説を始めます。今日は相関図を一枚だけ出します。

ミッドサマー相関図

このラジオをお聴きの皆さんは映画をもうご覧になっていること前提でお話しますので、あらすじについては省きます。

この映画は、ホラー映画やカルト映画のジャンルに入るようで、さまざまな方がいろんな角度から映画解説をされています。しかし、ほとんどの方は「よくわからない…」という感想のようです。

natan
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そして、アスター監督は恋愛映画だとおっしゃっているようですが、私としては「本当にそうですか?監督、なにか隠してませんか?」なんて思ったりするのです。

その理由は、私がこの映画を見たとき、真っ先に思ったことは、これは母性原理そして母権的意識がテーマの映画だと思ったからです。この映画は、最初から最後まで「母」というキーワードが通奏低音のようにずっと鳴り響いているからです。

母性原理ということは、この映画をユング派心理学者である河合隼雄先生の教えをベースに読み解けるんじゃないかなと思ったのです。

河合隼雄先生
河合隼雄先生

母性原理とは

母性原理については、過去のラジオでもお話していますが、その内容を簡単にお話すると、母性原理は人類の意識を育てるために存在する「大いなる母」の力であり、ユングはこれを「グレートマザー」と呼んでいます。グレートマザーは子どもを生み育てる側面と、子どもの自立を嫌い、子どもにしがみつき、最後には子どもを呑み込み、死に至らしめる側面を持ちます。死と再生を司るのがグレートマザーです。

そして、母性原理で人類の意識が育っていた時代はいつかと言うと、日本で言えば大体縄文時代、西洋においてはユダヤ教のような一神教が出てくる以前の世界だと推測されます。現在は父性原理によって人類の意識は育てられています。

母性原理の時代は太古の昔に終わってしまったイメージですが、じつは私たち日本人はまだまだ母権的意識が強いです。その詳細についても、前回のラジオをお聞きいただければと思います。

この母性原理そして母というキーワードが、映画の至る所で見受けられるんです。したがって、母性原理に着目して映画解説をしてみたいと思います。解説は四部構成でいきたいと思います。

  1. 現実からの離脱そして切断
  2. ホルガへの道
  3. ホルガでの祝祭
  4. 生贄の儀式

解説スタート

現実からの離脱そして切断

家族の無理心中

主人公のダニーは妹がいて、双極性障害を患っていて、さらにダニー自身も不安障害を抱えています。そして妹がお父さんとお母さんを道連れにして無理心中を図ってしまいます。

この無理心中ですが、これも母権的意識が強く働いている証拠だと考えます。河合先生いわく、西洋は自我が強固に確立しているため、自殺をするときはあまり周囲を巻き込んだりしないとお話されていました。しかし、母性社会である日本では自我があまり強くないため、心中を図るケースが多いのだそう。

natan
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映画の最初の舞台はアメリカなので、そこで心中事件が起こること自体、すごく奇妙なことだと思います。

ダニーとクリスチャンの関係

この事件が起こる前から、妹から不気味なメールをもらっていたダニーは、恋人であるクリスチャンにその件について相談していました。でもクリスチャンは冷たくてそっけないところがあり、ダニーの不安はますます膨れ上がっていきます。

クリスチャンの方は、ダニーと一年も前から別れたがっているのに別れられず、友達に「別れて後悔したらどうする?」と聞いてみたり、優柔不断で精神的に幼い部分が見えます。

ダニーはクリスチャンに対して、一緒にいても心から安心することができず苦しいのに、その半面、クリスチャンに対して母親のように寛大に振る舞ってみせます。クリスチャンもダニーの訴えに「ごめんなさい」と子どものように謝ってみては、気が利かない、ダニーを思いやらない、自分のことしか考えていないといった状態です。

natan
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ですから、ダニーとクリスチャンは依存関係にあるようなんですね。

冬という季節が意味するもの

そんな中、ダニーの家族が亡くなってしまうわけですが、そのときの季節は冬です。冬といえば母性原理の世界でそれは「死」を象徴するものです。そしてこのシーンは、深層心理の視点でいうと、ダニーの現実に対する死を意味すると考えます。

もともと不安障害を抱えていて、現実を生きることさえ苦しかったダニーにとって、家族の死は現実から離脱すること、そして現実から切断されることを意味すると考えます。この事件によって、ダニーはホルガというスウェーデンにある村に行くキッカケを掴むことになります。

ちなみに、ダニーの部屋にはいくつも絵画が飾ってあって、その一つは女性に子どもがしがみつく気持ち悪い絵があります。これはグレートマザーを象徴したものだと思います。このように監督は、映画の至る所で母性原理を匂わせています。

ペレという怪しい友人の存在

スウェーデンにあるホルガ村は友人ペレの故郷です。ペレの行動は二面性があり、最初から怪しさいっぱいでした。クリスチャンにはホルガに行ったらスウェーデン女とヤレるといったように性をちらつかせるのに、ダニーに対してはやたら家族のことに触れたり、他のメンバーはダニーが一緒にスウェーデンに来ることを嫌がっているのに、ペレだけ大歓迎だったり。

ペレはきっと、ダニーをホルガに連れて行きたかったのだと思います。そして、クリスチャンや男友達はホルガの捧げ物として連れて行こうと思っていたと思います。

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優しい顔の裏では恐ろしいペレという存在。

かなり怖い友達だと思います(笑)

そんなわけで、ダニーは家族の死と向き合えないまま、友人と一緒にペレの故郷であるホルガ村へ行くことになります。

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この時点で、私なりにこの映画は何を描いているのかお話すると、この映画はダニーの深層心理の世界の話だと考えます。それは自我意識の世界から無意識の世界へと戻っていく話です。何が戻っていくのか、それはこのラジオの最後にお話しますね。

ホルガへの道

上下反転するカメラワーク

ダニーたちは飛行機に乗り、さらに車でペレの故郷へ向かいます。車で走っているとき、カメラが反転するシーンがあります。グワーンと反転して、車が逆さまになって映ります。まるで緩やかなジェットコースターに乗っている感覚になります。

あの反転シーンは、父性原理の世界から母性原理の世界への移行、自我意識界から無意識界への移行を表現していると思います。

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ヌーソロジーを学ばれている方ならご存知のように、無意識の世界には反転を通して出ていきますからね。見事な描写です。

ドラッグの意味とは

車はある地点まで来ると停まります。原っぱが広がっている場所で、そこでペレと同じく外国に出ていた家族たちと合流します。白夜のせいで時間がわかりづらいですが、どうやら午後9時頃らしく、一泊するためにそこに車を停めたようです。

ここでダニーたちはドラッグを服用します。映画の中ではドラッグや変な飲み物など、意識がおかしくなるものが度々出てきます。このシーンを見て「この映画はドラッグ映画だ」とおっしゃっている方もいるようですが、これはドラッグに意味があるのではなく、ドラッグを服用したその先の世界に意味があると考えます。

ドラッグはシャーマンたちも変性意識状態になるために用いたりすると思いますが、この映画の中でも変性意識状態になったとき、世界と一体化するような描写がありますよね。ダニーの手から草が生えたり、木が呼吸していたり。

これは、世界はグレートマザーの子宮の中にあって、ダニーたちもグレートマザーの子どもとしての胎児の状態にあるという表現だと考えます。胎児はお母さんの子宮の中で、母と一体になっています。そこには世界との分離はありません。すべてが一体です。

先程もお話したように、この映画ではたびたび意識に変化を起こす飲み物などが出てきますが、映画の後半で、この飲み物について、「防衛する力を解いて、影響に対して心を開くもの」と説明されるシーンがあります。これは端的に言えば、ドラッグや変な飲み物によって自我を弱める、もしくは自我を外すことで、母性原理の力を流入させるということだと思います。自我意識は父性原理に属するものなので、それを外さないと母性原理の力が入ってこないからだと思います。

内的存在と葛藤するダニー

ダニーもドラッグによって世界との一体感を体験しますが、ふと誰かが言った「家族」という言葉を聞いて、一気に自我意識が戻ってきます。まだこの時点でダニーの自我は強く働いていて、ときどきダニーは自分自身の内的な存在と葛藤している場面もあります。

そして、今後のお話にもつながってくるのですが、ダニーの自我が強く働いているとき、ダニーは一生懸命自分の感情を抑え込もうとします。すごく苦しそうなシーンです。なので、ダニーは現実世界にいるときは、感情それ自体を押し殺して生きてきたので、ものすごく苦しい日々を過ごしていたんだと思います。ホルガ村で日々を過ごすうちに、どんどんダニーの意識にも変化が起こってきます。

ホルガ村での祝祭

ダニーたちがホルガ村に到着したのは、ダニーの誕生日。ホルガの入り口はまるで女性器や子宮口をイメージさせるようなゲートだと私は思いました。

ホルガの人によると、その村は人類の始祖である巨人ユミルを讃えていると話されていました。ここでも明らかなように、巨人ユミルは母性原理そしてグレートマザーの象徴です。

ホルガでの祝祭におけるシーンは、たくさん触れたい部分があるのですが、母性原理という視点で見たとき、ポイントだと思った部分を四つピックアップしてお話してみたいと思います。

アッテストゥパンという儀式

一つ目の注目ポイントは、アッテストゥパンという儀式です。この儀式は目を覆いたくなるものですが、72歳を過ぎた老人は、その身を自ら捧げることで次の再生へ向かうとのこと。

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この儀式は村人にとっては大いなる喜びだと説明されていましたが、死を迎える当の本人、とくに女性の方は涙目になってましたよね。本当に喜んでいるのかは疑問ですね。

この儀式を目撃する前まで、ダニーは自分の両親そして妹の死を受け入れていませんでした。しかし、儀式を目撃したとき、ダニーの様子が変わります。ダニーが頑なに拒否してきた死。それを目の前にして、ダニーの深層心理の部分で何かが芽生えたと私は感じました。

友人たちは、「この儀式は人道に反している」と猛抗議する中、神官であるシヴはダニーを見ながら「避けられぬ終焉を厭う死はよくない。精神を堕落させる」と意味深に話します。

父性原理の世界における死はダニーにとって耐えられないものだった。しかし、母性原理の世界における死は強烈なショックとともに、彼女に再生としての何かを思い出させたのだと考えることもできるなと思いました。

この儀式のあとに、ダニーは「こんな村にいたくない」と帰り支度をしますが、そこにペレが現れて彼女を説得します。その説得の内容がやはり奇妙で、彼はなぜか「クリスチャンは君を守ってくれているか」とか「本当の家族はここにいる」と言うんですよね。普通に考えて、彼女の幸せとホルガは関係ないはずなのに、なぜか彼女の幸せとホルガがイコールで話されているところに奇妙さを感じます。これは多分、ダニーの本当の願望をペレは知っているからだと思います。この件については、また後ほど触れたいと思います。

ぐるぐるダンスの意味

二つ目の注目ポイントは、ぐるぐるダンスです。ホルガの村人たちはぐるぐる輪になって踊りますよね。女王を決める儀式もぐるぐる回ります。輪になってぐるぐる踊ることは、母性原理の世界において、グレートマザーを讃えていることとして見ることができます。

このぐるぐるは、グレートマザーの「呑み込む」という特徴を象徴しているからです。

日本の縄文時代においても、土器などにぐるぐる模様が描かれていますが、それは母性原理の時代に母なる大地、大いなる母であるグレートマザーを讃えていた証拠だと河合先生はおっしゃっていました。

あと、現代においても、先住民族の方が輪になって踊ったり、ヘヴィメタルのライブ会場でお客さんがハイになったときサークルを作ってぐるぐる回ることがあるのですが、この現象が現れる理由も、自我の持つ理性が外れて、本源的な何かが彼らの中に立ち現れてくるからなのかもしれません。

聖娼という儀式

三つ目の注目ポイントは、クリスチャンとマヤによる摩訶不思議なセックスシーンです。あの儀式は、母性社会の時代に行われた「聖娼」と呼ばれる儀式だと思います。

聖娼の娼という呼び名は、河合先生いわく、おそらくシュメール文明の発掘調査などによって研究した後代の学者さんが命名したものだろうということで、その当時は「偉大なる女神の神殿に仕える巫女」として認識されていただろうとおっしゃっていました。

古代バビロニアでは、女性は結婚する前に女神の聖なる神殿に仕え、そこに来る外来の男性(異邦人)と性交をします。それは、女神との一体感の聖なる経験をするためであり、その後に女性は家に帰り、来るべき結婚の支度をしたそうです。このことによって、彼女たちの女性性は、より高い目的、すなわち女神との豊饒の力を人間の生のなかに効果的にもたらすという目的のために捧げられたのだそうです。

この儀式は女性のイニシエーションとして行われたようです。でも、この儀式は聖なる儀式として個人的なことを超越して行われるべきものなので、聖娼はベールによって顔を隠していることもあり、その女性と交わる男性は見知らぬ人でなければならず、以後は二度と会うことはないとのこと。すべては女神のために自分の身を捧げる儀式だそうです。

劇中では、マヤはほとんどクリスチャンを意識していません。周りに立っている女性を見たり、手を伸ばしたりしています。その手が差し伸べられた女性はマヤのお母さんなのかもしれませんが、このシーンはまさにマヤ自身が女神であるグレートマザーと一体になることを望んでいる、そんなシーンに見えました。

しかしマヤの顔にベールはなく、事が終わったあとも「赤ちゃんを感じる」などと話しているので、聖娼の儀式というよりは、日本の村社会でも見られた、外部の人の血を入れることで健全な村存続を図るのための儀式なのかなとも思いました。

村人の感情の伝播そして意識の共有

四つ目の注目ポイントは、村人の感情の伝播そして意識の共有です。聖娼の儀式でも見られたように、女性たちはみんな一緒に喘いでいましたよね。さらにそれを目撃したダニーも感情が爆発した際、周囲にいる女性たちとワーワー泣き叫びます。

これはまだ意識が個別化していない、母権的意識の強い古代人の意識状態と同じものだと推察されます。これはあくまで憶測ですが、当時は一つの思考、一つの感情を複数人が共有していたのかもしれません。つまり、古代において人々の意識は個性化しておらず、未分化の状態だったということ。

ホルガの村人まではいきませんが、日本の村社会でも、みなが村意識で生きていたと言われています。今の時代は個々の自我意識がありますが、西洋から近代自我が入ってくるまでは、日本人も集団意識の方が強かったようです。今でも集団意識が強い日本人ですが、この映画を見ると、私たち日本人の古代の姿を見ているような感じがしてきます。

そして、ダニーが女性たちとともにワーワー泣き叫ぶシーン。じつはこのシーンは私にとってめちゃくちゃサブイボなんです。

私はこのラジオで感情はしっかり発散させたほうがいいということで、感情のエネルギー浄化というものを推奨しています。まさにこのシーンは感情を発散させているシーンであり、今までダニーが押さえてきた感情を思いっきり爆発させているんですね。

ダニーと同じ女性として、「私もこうやって感情を出したい」という思いがあること、さらには感情を思いっきり出すことによって、自分自身の女性性の奥底にいるグレートマザー由来なのか、何なのかわかりませんが、その何かが自分の中に沸き起こってくるのを感じます。ですから、個人的にこのシーンを何度も見ると、何とも言えない”何か”を感じてしまいます。

生贄の儀式

心の浄化

映画の最後、すでに命を捧げた友人、そして村人数名、さらにクリスチャンの合計9名が生贄として捧げられます。クリスチャンに対して儀式を行う人が「もっとも罪深い感情を浄化する」と話します。そして三角の黄色い神殿に火がつけられます。

それを外で見ている村人たちは狂ったように叫び、そしてダニーもものすごく苦しそうなシーンが展開します。しかし、神殿が焼け落ちたとき、ダニーはニヤリと笑いますよね。

それもそのはず、この儀式はダニー自身の心の浄化を表すものだからです。なぜなら、そのときのダニーの衣装がそれを教えてくれています。すべて花で装飾されている、4本の角がついた冠と三角のドレス。これは燃え盛る神殿そのものであり、神殿とダニーが重なって映されているシーンで「あ、なるほど」と気づきました。

ダニーにとって最大の不安要素だったクリスチャンという存在。「もっとも罪深い感情を浄化する」という言葉にもあるように、その感情が浄化されることによって、ようやくダニーに心の平安が訪れたのだと思います。ダニーの再生ですね。だから、ホルガへ到着した日はダニーの誕生日だったのだと思います。

この映画の面白いオチ

最後にダニーがニヤッと笑った後、ビックリするほど明るいエンディング曲が流れますよね。私はこの展開に「あ、この映画はそういうオチでもあるのか」と笑ってしまいました。

なぜ笑ったかというと、ホルガへは夏休みを利用して訪れているわけですが、バケーションは、日頃のストレスから解放され、自分自身を癒やすためにありますよね。明るいエンディング曲がそのバケーションをイメージさせていて、私としてはホラー映画というより、女子大生のサマーバケーションの映画だと感じ、そのギャップに笑ってしまいました。

結論

私の結論として、この映画は何を描いているのかというと、それはダニーはユング心理学でいう「グレートマザーの娘」、私の言葉で言えば「永遠の少女」の元型を強く持っている女性だということ。映画『ミッドサマー』はそのダニーが自我世界から離れ、自分の本質に帰っていく物語であり、これはダニーのおとぎ話だということ。

最初は友人のペレが怪しさいっぱいで、なおかつ、ホルガ村の人たちが恐ろしい人たちとして見えるわけですが、全部ダニーの無意識が仕組んだことだと考えます。ダニーは深層心理の部分で、本質に帰りたかったんだと思います。その旅路を描いた映画だと思いました。

そして、さらにこれはダニーの背後に、アリ・アスター監督の願望が見えるような気がするのです。それは、アスター監督こそがユング心理学でいう「永遠の少年」の元型を強く持っている人で、ダニーという主人公を通して、自身の子宮回帰という無意識的な願いを表現したのではないかと思いました。

少し話が戻りますが、友人のジョシュが行方不明になると同時に、ホルガ村の聖典であるルビ・ラダーも紛失したという事件が発生しましたよね。そのとき、クリスチャンはシヴに対して「ジョシュがどこにいるのか知りません。母にかけて誓います」と話すシーンがあります。ここでも「母」というキーワードが出てきます。

そして、ダニーがその年の女王になったとき、みんなが喜んで迎えてくれる中で、死んだはずのダニーのお母さんが一瞬目の前を横切ります。どのシーンを見ても「母、母、母…」です。アスター監督の「母」に対する何かしら強い思いが感じ取れてなりません。これがもしかしたら母に対する愛としての恋愛映画なのかなとも思いました。

ルビンの正体

最後に、ユング心理学の元型(アーキタイプ)である「永遠の少年」の流れで言うと、劇中に出ていたルビンという障害を持った男の子。この子の正体ですが、これこそがグレートマザーの申し子、神の子である「永遠の少年」だと思いました。

父性原理の世界において、キリスト教の教義では三位一体として「父ー子ー精霊」という考え方がありますが、母性原理の世界においてそれは一体ではなく、まったく異なる三者として「老賢者ー若い女性ー幼い男児」という三つの意識段階があるそうです。そしてその三者は全員血縁者です。「おじいさん→その娘→その娘の息子」という構造で、この幼い男児をおじいさんである賢者は裏支えしているそうです。

ルビンも賢者だと紹介されていましたが、ユング心理学ではときに賢者は幼い子どもの姿をしていると語られています。さらにルビンは近親相姦によって意図的に生みだされているようなので、母性原理の世界における三者構造をルビンを通して見ることもできるなと思いました。

最後に

以上が私なりの映画『ミッドサマー』解説でした。まだまだ語り足りない部分はありますが、ひとまずこのような内容で解説を終えたいと思います。

母性原理という視点でこの映画を再度見てみると、キレイに映画の内容が一本の線で結ばれていることに気づくのではないかなと思います。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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