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【ろじろじラジオ】第13回放送★哲学とは①「考える」と「知識」について

No13:哲学①考えると知識アイキャッチ Youtube
natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第13回放送時のトーク内容全文をご紹介します。

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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

今日は哲学に関するお話をしたいと思います。

哲学はあらゆる学問の父

勉強

みなさんは「哲学」という言葉を聞いて、何をイメージしますか?

なんだか小難しい、哲学を持っている人はかっこいい、人生の役に立つもしくは役立たない、お金にならない、いろいろイメージが浮かんでくると思います。

私は、以前までは「哲学=男性」というイメージを持っていました。しかし、哲学を学ぶことで、女性哲学者も数多くいらっしゃることを知りました。

哲学とは、「知を愛する(知るを愛する)」という意味で、一般的な定義としては、「真理を探究する知的営み」のことを指すそうです。

人間にとって、「知りたい」という欲求にはすごいものがあります。「宇宙とは?神とは?自然とは?社会とは?心とは?」といったように、あらゆる疑問を人間は持ってきました。

哲学は徹底的に真理を追求し、それを論理的に考えるので、「宇宙とは?神とは?自然とは?」などといったさまざまな疑問も追求していった結果、自然科学から始まるさまざまな学問が生まれました。

よって哲学とは、すべての学問の土台になっているもので、学問の父のようなものでもあると考えます。

哲学とは①

「哲学する」という行為のこと

読書

現代では「○○哲学」と呼ばれるものがたくさんあり、自己啓発などで言われる「成功哲学」という言葉はよく耳にしますよ。哲学に詳しくない人は、そういったジャンルから哲学に触れていくこともあるのかもしれません。

でも、私はこう思います。

「成功哲学」と呼ばれるものは、ただ「こうすれば上手くいくよ」という、小手先のテクニックでしかないと思います。哲学の何たるかを知らずに、「哲学」と言っている。そういった言葉が、今の時代はあふれかえっていると感じます。

「知を愛する」ということは、「知らない情報」「新しい情報」「正しい○○のやり方」といった情報を手に入れること、それを愛することではありません。それはただの情報収集です。

哲学は、自分の目の前で今まさに起こっていることに対して、「これは何なんだ」「これはなぜ起こっているんだ」「なぜこうなっているんだ」と疑問を持って、その疑問の答えを自らの思考によって探し出していく作業を伴います。

ですから私としては、「哲学」は「哲学する」という行為のことだと考えています。

能動的思考活動のこと

考える

もちろん、哲学は普遍性や絶対性といった物事の本質を探究するものなので、誰もが受け入れられる共通理解にたどりつくために、学問としての哲学は必要だと思っています。

しかし、学問としての哲学が提示したものが答えなのではなくて、それをスタートにして自ら考えること。

そして「哲学で言われていることは、自分の場合はどう感じられるだろうか」と、哲学で学んだことを自分に接続させて考えること。この姿勢が大切だと思います。

また、「哲学とはこういうものだ」と、哲学の入り口まで案内してくれるものも大切だと思います。

私の好きな池田晶子さんという哲学者は、『14歳からの哲学』という本を書かれていて、それは学校の教科書として採用もされています。

14歳という自己の確立が進む時期に、哲学の基礎を学んでおくこと、そして哲学するとはどういうことなのかを学んでおくことは、本当に大切なことだと思います。

ですから、哲学は受動的に学ぶものではなく、自ら疑問を持ち、そして自らの力で考え抜いて答えを出す、というような能動的な思考活動なのです。

今回と次回の二回に分けて、哲学とは何かについて、基本的なことを私なりの視点でお話していきたいと思います。

今日は「考える」と「知識」について触れていきます。

「考える」と「知識」について

正しい「考える」について

考える2

私たちは、頭の中であれこれ思考していることを「考えている」と表現します。そして、外から得た「情報」を「知識」だと思っています。

しかし、先ほど触れた池田晶子さんは、本当の「考える」と「知識」についてこうお話されています。書籍『残酷人生論』からの抜粋です。

「知ってトクする○○情報」という言い方に端的なように、情報とは、つまり損得なのだ。

さて、生きることそのものの意味を知るための思考のあり方、これを「考える」と言う。そして、考えて知った事柄を「知識」と言う。したがって、情報と知識とは、人間の頭脳において対極の位置にあるわけで、情報は外から入手して知るものだが、知識は自ら考えて知る以外、入手する方法はない。

いえ、より正確に言いましょう。情報は、そも「知る」ものではない。情報を知ることを、「知る」とは言わない。あれは、取って付けて、受けて流すもので、サルにでもできる。

残酷人生論より
natan
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というね、池田さんのこの喝破する姿が好きで好きでたまらないのですが(笑)

「私はサルの群れにロゴスを投げ込んでいるー!」とか叫ぶ池田さんが大好きです(笑)

池田さんが指摘する通り、頭の中であれこれ考えていることは、じつは「考えている」とは言いません。

YouTubeでおなじみのオタキングこと岡田斗司夫さんも、頭の中で物事をあれこれグルグル回しているのが「考えている」ということではない、と指摘しています。

岡田さんいわく、本当の「考える」とは、頭の中にあるものを一度紙などに書きだして、それを俯瞰視して、今すぐ対策しなければいけないことは何か、そして、今すぐ対策しなくてもいいものは何か、を分けて、今やらなければいけないことだけを見つけて、それについてしっかり対策することだとおっしゃっていました。

哲学も同じです。たとえば「人間とは○○という性質を持つ」「世界の構造は○○である」などといったように、人間存在や世界の成り立ちについて、哲学的な答えというものがあります。

しかし、これをそのまま受け入れてしまうと、考える余地がなくなってしまいます。

ですから、正しい哲学的思考とは、外から得た情報で満足することではなく、「これは自分にとってはどういう意味を持つのだろう?」と情報を俯瞰視すること、さらに自分に接続させて考えていくこと、それが哲学的思考だと私は思います。

「情報」と「知識」の違いについて

そして、情報と知識は混同しやすいものです。

池田さんが指摘するように、情報とは取って付けて受けて流すもの、そして損得であり、「へえ、そうなんだ」と知るもの、もしくは一時的なブームに乗るためだけのものであり、時が過ぎてブームが終わると同時に消え去っていくものでもあります。絶対的なものではないのが情報です。

でも知識は違う。知識とは、得た情報を正しく使えることを意味します。たとえばお医者さんが、

医者
医者

私は医学の「情報」を持っています。

と言った場合、患者さんはその医者を信頼できますか?できませんよね。

信頼できるお医者さんは、持っている医学情報を正しく使える人、そしてちゃんと処置や手術ができる人のことを言います。これが本当の知識であり、それは絶対的なものです。

したがって知識を持っているとは、言い換えれば、情報を正しく使える技術を持っている、ということでもあります。

情報をたくさん持っていることは、安心感にも繋がります。「誰よりも自分は物事を知っているんだ!」という優越感も持てるからです。

しかしその情報を使えなかったら、ただのガラクタになってしまいます。または情報を実際使ってみたとき、「あ、この情報ガラクタだった…」と気づくこともあります。

ゴミ

だから、まずは一度自分が情報を使ってみないことには、ただ頭の容量を自分に関係ないもので埋め尽くしてしまって、本当に考えなければいけないものがわからなくなってしまいます。

さらには、根本的な「考える」というやり方をいつまでたっても知らない、わからない、できないという状態にも陥ります。

情報だけをたくさん持っていること、そのような存在はAIと何ら変わらないと私は思います。

正しい考え方を知らない、正しく考えられない、ということが結果的に、第7回でお話した第二次世界大戦においてユダヤ人絶滅計画の実行責任者だったアドルフ・アイヒマンに見られるような、「凡庸な悪」を生みだしてしまう危険性もあると考えます。

ですから私としては、このチャンネルで、哲学そして私が大事にしている心理学も情報で終わらせることなく、実践してどう変わったか、実践するためには何が必要か、という実技に関することをみなさんにお伝えしていきたいと思っています。

だから「哲学」というのは「哲学する」という行為、実践のことだと私は思っています。

というわけで、今日は哲学に関する本当の「考える」と「知識」についてのお話でした。次回も哲学に関するお話をしていきたいと思っています。

このお話が、みなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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