本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回は、禊において、イザナキが脱ぎ捨てた物から出現した神々についてのお話をしました。今回は、川に潜って身体をすすいだときに出現した神々について、私なりの考えをお話したいと思います。
まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。
原文/読み下し文/現代語訳
於是詔之 上瀬者瀬速 下瀬者瀬弱而 初於中瀬墮迦豆伎而滌時 所成坐神名 八十禍津日神 次大禍津日神
此二神者 所到其穢繁國之時 因汚垢而所成神之者也
次為直其禍而所成神名 神直毘神 次大直毘神 次伊豆能賣神 并三神也
ここに詔りたまひしく、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に墮ち潜きて滌ぐ時、成りませる神の名は、八十禍津日神。次に大禍津日神。この二神は、その穢繁國に到りし時の汚垢によりて成れる神なり。
次にその禍を直さむとして成れる神の名は、神直び神、次に大直び神、次にいづのめ神。并せて三柱の神なり。
伊邪那岐大神は、「上流は流れが速い。下流は流れが弱い」と仰って、初めて川の中流に崩れ落ちながら潜って身体をすすいだ。
そのとき出現した神の名は八十禍津日神、次に大禍津日神。この二柱の神は、黄泉の国に行ったときの汚れや垢によって出現した神である。
次に、その災いを直すために出現した神の名は、神直毘神、次に大直毘神、次に伊豆能賣神の、合わせて三柱の神である。
次於水底滌時 所成神名 底津綿上津見神 次底筒之男命
於中滌時 所成神名 中津綿上津見神 次中筒之男命
於水上滌時 所成神名 上津綿上津見神 次上筒之男命
次に水の底に滌ぐ時、成れる神の名は、底津綿津見神、次に底筒の男命。
中に滌ぐ時、成れる神の名は、中津綿津見神、次に中筒の男命。
水の上に滌ぐ時、成れる神の名は、上津綿津見神、次に上筒の男命。
次に水底ですすいだとき出現した神の名は、底津綿津見神、次に底筒の男命。
水の中ほどですすいだとき出現した神の名は、中津綿津見神、次に中筒の男命。
水の上ですすいだとき出現した神の名は、上津綿津見神、次に上筒の男命。
此三柱綿津見神者 阿曇連等之祖神以伊都久神也
故阿曇連等者 其綿津見神之子 宇都志日金拆命之子孫也
其底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命三柱神者 墨江之三前大神也
この三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神ともちいつく神なり。
故、阿曇連等はその綿津見神の子、うつし日金拆命の子孫なり。
その底筒の男命、中筒の男命、上筒の男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。
この三柱の綿津見神は、阿曇連たちが祖先神として祀る神である。
そして、阿曇連たちは、その綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫である。
その底筒の男命、中筒の男命、上筒の男命の三柱の神は、墨江の岬の大神である。
これが今日取り上げるシーンです。それでは解説に入ります。
解説
「墮ち潜きて」の意味
イザナキは、「上流は流れが速い。下流は流れが弱い」と言って、川の中流に墮ち潜きて身をすすいだと言われています。「墮ち潜きて」の「墮ち」は崩れ落ちること、「潜きて」は漢字そのままの場合は潜るの意。「かづく」であれば、意味は複数あり、一つは頭から水をかぶること、一つは損害や負担を引き受けることなどがあります。
前々回の解説で私は、イザナキはカグツチを斬り殺し、そしてイザナミとの約束も破るという罪を犯したため、最愛の妻と離別するというけじめをつけて、自らの行いを反省するべく禊をするのだとお話しました。
ここにある「かづく」も損害や負担を引き受けるという意味があるので、考察どおり、イザナキはけじめとして、涙を飲んで腹をくくる覚悟をしたと言えます。カグツチの首を斬って殺し、今度は自分の腹を切るということですね。
崩れ落ちながら禊をすることの意味
さて、ここで気になるのが「崩れ落ちながら」という表現です。崩れ落ちながら禊をするとは、一体どういう意味なのでしょうか?私は、それはイザナキが再生を果たすために一度解体したということではないかなと考えます。
たとえばそれは、物がリサイクルされるときの過程と似ているかもしれません。リサイクルするとき、一度すべてを解体し、汚れを取り除いてから再生させます。これと似た形で、イザナキも崩壊後、一度キレイに身体をすすいで再生へと向かったのだと考えます。
また、「崩れる」という言葉からふと連想されるのが、天皇が亡くなったときに用いられる「崩御」という言葉です。なぜ亡くなることが崩れることなのか。私は、「崩御」という言葉の起源は、イザナキの死と再生の仕方にあると考えています。もしかしたら、天皇が亡くなったときも、また再生するという意味を込めて「崩御」という言葉が用いられているのではないかなと考えます。
「上流は流れが速い、下流は流れが弱い」の意味
さて、お話戻りまして、イザナキは「上流は流れが速い、下流は流れが弱い」と言って、禊の場に川の中流を選んだようです。この判断が意味することは、彼は初めて物事の真ん中、中庸を選んだということだと思われます。
反対に、初めてということなので、上流と下流には以前行ったことがあるらしい…。でも、それは実際に行ったということではなく、物事の両面を体験したということだと思います。
過去の話を振り返ってみると、イザナキは妻と共に島や神をたくさん生みましたが、その中の一人の子供を殺してしまいました。また、妻が死んだとき、イザナキは彼女の枕元と足元で泣きました。さらに、彼がカグツチを斬り殺したとき、十拳劒の切っ先と根本に血がつきました。これらの出来事は両極端なことが起こったこと、物事の両面を体験したことを象徴的に表現したものではないかなと私は思うんです。その物事の両面のことを指して「上流」「下流」と言っているのではないかなと。
そして、剣の話でいえば、剣の中央には血がつかなかった。そこが川の中流。だから、その場所こそが禊にふさわしいと彼は判断したのだと思います。それが、物事の中庸を選んだということ。
災いの神とそれを治す神の登場
その中流でいよいよ禊が始まりました。川に入って身をすすいだとき、最初に災いをもたらす八十禍津日神と大禍津日神が出現しました。この神々は、黄泉の国に行ったときの汚れと垢から成った神々で、八十禍津日神の「八十」はたくさんという意味なので、たくさんの災いをもたらす神ということ。そして、大禍津日神は大きい災いをもたらす神ということだと思われます。
私が考えるに、この神々は、黄泉の国で登場した雷神の要素を継承しているのではないかなと思います。痛みを伴う災い、または病気を象徴しているかもしれないからです。その流れでいくと、雷神は黄泉比良坂の坂本になっていた桃で逃げ去っていったので、その桃を継承する神々が、神直毘神と大直毘神、伊豆能賣神の三柱として出現しているのだと思われます。
運河と川の登場
さて、イザナキは今度はドボンと川の中に潜ったようです。川底まで深く潜り、その後水面へ浮上していったとのこと。このとき出現したのが、底津綿津見神と底筒の男命、中津綿津見神と中筒の男命、上津綿津見神と上筒の男命。
この神々は、綿津見グループと筒の男命グループの二つに分けられると考えます。綿津見グループを見てみると、「綿津見」とは、もともとは海の神なのですが、今回は川として語られているようなので、川で考えてみると、海のように大きい川、つまり運河を象徴しているのかもしれません。ということは反対に、筒の男命グループは、運河より小さい通常タイプの川という感じでしょうか。
以上のように、今回のシーンは、川の水でイザナキが身体をすすいでいるという、シンプルな話ではあるのですが、ここも深堀って考えてみると、じつはかなり面白いことが読み取れるということがわかりました。
免疫機能をもった神々の登場
前回のシーンでは、イザナキが脱ぎ捨てたものからさまざまな神が出現しましたが、そこに描かれていたのは、妊婦大地母神の開墾でした。いろんな臓器、そして腹や子宮に住まう蟲なども登場しました。今回のシーンもそれと関連しているようで、今回はどうやら腸に関することを語っているようなんです。
先ほど触れた禍津日神たちとそれを直す神々は、免疫機能や解毒作用を象徴した神々として読むことができるからです。禍津日神が体内に侵入してきた細菌や毒で、それを直毘神たちが対応するという感じ。
「墮迦豆伎而」は「お近づきになって」と読むべし
黄泉の国では、桃によって雷神たちは逃げ去っていきましたが、今回のシーンでは、直毘神たちが禍津日神たちを逃さないようです。なぜそう言い切れるかというと、「墮迦豆伎而」という一文を別の読み方をすると、「逃さないぞ!」ということが読み取れてくるからです。
「墮迦豆伎而」は、現代語訳では「崩れ落ちながら潜って」と訳しています。しかしここは、音で訓むはずだと私は思うんです。原文には注釈がないんですけど、でも、たぶん「おちかづきて」は音で訓むはず。
ここを音で読んでみると、現代語訳が「お近づきになって」に変わるんですね。直前の言葉も合わせて読んでみると、「中つ瀬にお近づきになって滌いだとき」となります。どうでしょう?この読み方の方がスッキリしませんか?
また、「お近づきになって」と読むことで、先ほどもお話したように、禍津日神たちと直毘神たちが相まみえて、体内の調和を保つべく、直毘神たちが免疫細胞として戦う様子も感じ取れてきます。
さらに、「お近づきになって」を綿津見神や筒の男命たちにも適用すると、今回のシーンがとある重要な身体形成を語っているということもわかってきます。それは、川というのはところどころ蛇行してはいますが、全体としては果てしなく長い一本の管のようなものです。川はときに濁流となって大暴れします。大蛇が大暴れするように。
その川の上流と下流を中流に向かってギュッと近づけてみると、どうなるでしょうか?言っている意味がわからないかもしれませんが(笑)一本の長い川を上下から手のひらでギュッと挟むようなイメージをしてみてください。さて、何ができるでしょうか?
腹わたの形成
じつはこれ、人体の腸になるんです。上流と下流を近づけると、川が人体の中にキュッとコンパクトに収納されるんです。
そこから私は、綿津見神たちの名前にある「綿」は、もしかしたら「腹わた」のことかもしれないと思いました。現に、「綿」の漢字の意味を調べてみると、曲がりくねって入り込んだところという意味も持っているからです。綿津見神たちが運河的要素を持っているとするならば、それは大腸を象徴したものとして考えることができるかもしれません。うんちの河、運河ですね(笑)
反対に、筒の男命たちは小腸と考えてみても良いかもしれません。大腸よりは細いですし、「命」がついているのは、接種したものをしっかり消化吸収するという重要な役目を持っていると思うからです。
このように、「墮迦豆伎」を「お近づきになって」と読むことによって、このシーンが体内の川、腸の形成の話になり、それと同時に、禍津日神たちや直毘神たちが住む世界、腸内細菌の世界が誕生したシーンとしても読むことができると私は思いました。
「腹をくくる」の本当の意味
腸の形成だなんて、イザナキの禊とはまったく関係ないことだと思われるかもしれませんが、いえいえ、じつは禊ともしっかり関係しているんです。イザナキは自分の罪を自覚し、心にけじめをつけて禊をはじめました。けじめをつけること、覚悟をすること、これを別の言葉で表現すると何になるでしょうか?
もうすでに私は何度も何度もその言葉を使っているのですが、それは「腹をくくる」です。川の上流と下流を近づけて腹わたを作ったのも、腹わたである川を縛ったから、川をくくったからできたんです。どうやら古事記は、「腹をくくる」という言葉を通して、いろんなことを語っているようなんです。
うまいなあ。うますぎると思いませんか?これぞ古事記の神業ですよ(笑)
水引の起源説①「繰り返すことがないように」という願い
それだけでなく、冠婚葬祭の贈り物に欠かせない水引というものがありますが、その起源も今回のシーンに描かれているのではと私は思いました。「水」はイザナキが禊を行った川のことで、「引」は彼が腹をくくったこと、別の表現では一本の川を中流に向かって引き締めたということ。だから水引。
この解釈が合っているかどうかわかりませんが、水引の「結び切り」という結び方には、「今後同じことが起こりませんように」という願いが込められているそうです。この形は、結び目が固いので、一度結ぶと解けないそうです。だから「繰り返すことがないように」という願いを込めて、結婚式のお祝い、病気のお見舞い、お葬式の弔事などに用いられるんですね。
これは、イザナキの禊の心境にピッタリではないでしょうか?心理的に腹をくくることが、同時に身体の腹わた形成にも繋がっているだなんて。腸がなぜ体内にギュッとコンパクトに収納されているのか、その理由すら考えたことがなかったので、自分で言うのもなんですが、とっても面白い発想だなと思いました(笑)
水引の起源説②精神のへその緒を切る
また、水引関連でもう一つ。水引を「水を引き上げる」と読んでみると、深層心理学的にとあることが読み取れるんですね。それは、イザナキが自らの精神のへその緒を切ったということ。「精神のへその緒」だなんて聞いたことがない表現だと思いますが、深層心理学的には、精神的な幼さというのは、心がまだ精神的な母親とへその緒で繋がっている状態だと言えるんです。心の中では未だ母親に甘えているということ。イザナキが罪を犯したのも、彼の精神的な幼さゆえのことでした。
その精神的な幼さから脱却するためには、精神のへその緒を断ち切る必要があります。自ら働かなくても生きていける、悲しみも苦しみもない楽園のような母親の子宮から外に出る必要があるんです。旧約聖書ではそれを楽園追放として描いているようですが、古事記は違います。古事記は、出産という名の自立として語っています。生まれ出ることは、自立への第一歩なんです。
出産後、へその緒は必ず切らなければいけません。前回のシーンで、大地母神が妊婦だったということがわかり、また、道の長乳齒神というへその緒に関する神が登場しましたが、今回のシーンはいよいよ出産するよ、イザナキが再生を果たすよという場面でもあるのかもしれません。
今回のシーンは胎児が母親と繋がっていた最後の道、川、へその緒を土台ごと切り離すことを象徴的に描いていると私は考えます。母親からの水流を管ごと引き上げる、断ち切ること。それが水引、なのかもしれない。これがイザナキにとっての自立であり、覚悟をして腹をくくることの真意だと私は考えています。
Uターンして戻って来るというパターンの繰り返し
ということで、以上が川での禊についてのお話でした。突飛な発想でだいぶ驚かれた方もいらっしゃるかもしれませんが、考察はしっかりと古事記のルールに則っています。それは、古事記は同じことを二度繰り返すというルールです。
黄泉の国でイザナキは、死んだイザナミの口から体内に侵入し、腸内世界まで行って、Uターンして戻ってきました。今回のシーンも、場所は違えど、顔の領域である「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」から話がスタートしていて、次に上半身に身に着けているものを脱ぎ捨て、川に入って、川底まで潜って水面へ浮上しています。上から下、下から上へという動きは、黄泉の国と同じパターンの繰り返しです。そして、川底から浮上するとき、イザナキは腸を縛りあげながら浮上した。黄泉の国は臓器内の話でしたが、今回は臓器外の話になっていると考えます。
このように古事記は、身体宇宙論的な世界観をベースに話が展開しているので、この概念に馴染みがないと理解しづらい話かもしれません。しかし、今日抑えていただきたいポイントはこれとは別のことで、それは甘えの世界から自立の世界へ物語が一歩前に進んだということです。それさえ抑えていただければOKです。
伊豆能賣神とは
さて、ここからは今日最後のお話として、解説の中で触れていなかった伊豆能賣神についての話をして、今日の解説を終えたいと思います。
災いを直す神の三柱の一つ、伊豆能賣神。この神は何の役目を持っているのかを考えたとき、面白いことを発見しました。私がこの神を考えはじめたとき、前回出現した那藝佐毘古神や甲斐辨羅神などとの関連性も考える必要があるだろうと思ったので、これら神々も含めて思考をしていきました。
あれこれ考えているとき、「そういえば、私が住んでる山梨県って甲斐の国って言うんだよね。それはなぜなんだろう?」と、まったく別の疑問が湧いてきたんです。古事記では甲斐の国に似た音として甲斐辨羅が出ていて、これは茅葺屋根を整えるときに使う用具だそうです。
甲斐の国山梨と屋根を整える甲斐辨羅は、何か関係性を持っているのかもしれない。となると、伊豆能賣神も静岡県の伊豆と関係していたりしてと思ったんです。ですから、山梨、かいべら、屋根、静岡、伊豆というワードをもとに、いろいろ調べてみたら、あることがヒットしたんです。
それは、富士山に関することです。富士山は、伊豆半島が乗ったプレートが本州に衝突したとき、今のような美しい形になったそうです。それを知って伊豆半島を地図でよく見てみたら、あらビックリ!屋根を整えるかいべらの形にそっくりではないですか。「そういうことかあ!」とガッテンしました。
富士山は日本一の山、日本の屋根、もしくは傘で、甲斐は屋根や傘を指した言葉。それが甲斐の国と呼ばれる所以かもしれない。また、山梨県は周囲を山に囲まれているので、その山が貝の殻のように中を守っているという意味もあるのかもしれません。
そして伊豆半島は、富士山をキレイに成形してくれたかいべら。今回のシーンでお近づきになった直毘神たちがいたように、伊豆半島も富士山をキレイに成形するべく、本州に向かってお近づきになった存在。
それを元に伊豆能賣神の役割を考えてみると、たぶん、この神は禍津日神たちによって傷つけられた部分を修復する神ではないかなと私は思いました。直毘神たちは禍津日神たちを退治する神で、伊豆能賣神は傷を修復する神。
この結論に至ったとき、「そういえばオオクニヌシが八十神たちに殺されたとき、貝の女神たちが彼を治療し、生き返らせたなあ」ということを思い出したんです。甲斐辨羅神、伊豆能賣神、修復、うん!合っていそうですね!
ちなみに、この話の流れでいけば、那藝佐毘古神はもしかしたら静岡県に関する神様かもしれないなと思いました。この神は男神で、静岡側から見る富士山は男富士、山梨側から見るのは女富士と言われているので、そういったことからも那藝佐毘古神は静岡県に関係していそうだなと思いました。
でも、神話はあくまでも神話の中だけで考察するのがユング心理学の鉄則なので、各地域の話は古事記考察の参考資料という程度にとどめておきたいと思います。それでも、伊豆能賣神を考えていたら甲斐の国の名前の由来までわかったことは、私にとっては大収穫でした。
というわけで、以上で今日のお話は終了です。そうそう、今日触れられなかった阿曇連たちの解説は、アマテラスたちが誕生した後の方が説明しやすいので、後日触れたいと思います。次回は、いよいよアマテラスたちのご登場です!次回の解説もお楽しみに!
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!