
私の宇宙からこんにちは、natanです。
このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第14回放送時のトーク内容全文をご紹介します。
本日のトーク内容
さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回は、本当の「考える」と「知識」についてお話しました。今回も引き続き、哲学に関するお話として、哲学思考に必要な「感覚」についてお話したいと思います。
哲学に必要なのはセンス
「疑問を持つ」「驚く」という感覚

前回の繰り返しになりますが、「考える」とは、外から得た情報をただ鵜呑みにするのではなく、しっかり俯瞰視して、さらにはそれを自分に接続させて思考していくことだとお話しました。哲学をするにあたっても、その重要性は同じです。
そして哲学というのは、「疑問を持つ」「驚く」ということ、これがまずはできるかどうかが、哲学するという行為ができるかどうかの決め手だと私は思っています。
「疑問を持つ」ことは、何に対して疑問を持つかは人それぞれです。
ニュートンのように、「なんで木からリンゴが落ちるんだ?」と思って、結果として重力を発見するに至ったり、私は心の世界やヌーソロジーを学んでいるので、心の世界で起こっていること、そして目の前の空間で起こっていることに対して、「これはなんだ?」と疑問を持ったりします。

疑問の種類は無限にありますが、でも共通していることは下記の感覚です。
これが哲学するための重要ポイント、重要な感覚だと私は思っています。
哲学というのは新しいことを知っていくというよりは、新しくない、当たり前過ぎて気にもとめなかったものが、ある日「え!?」と思えること。これが哲学できるかどうかのセンスだと私は思います。
哲人たちの驚き
たとえば、オーストリア出身のウィトゲンシュタインという哲学者は『論理哲学論考』という書籍の中でこう語っています。

世界がどうであるかということが、神秘なのではない。
世界があるということが、神秘なのだ。
『論理哲学論考』6.44
つまり…

世界ってどうなってるんだろう、あれもこれも調べてみよう。
わあ、調べてみたらこうなってた、神秘だね♪
ではなくて

そもそも世界があること、あるって何?なんであるの?
それこそ神秘じゃない?
という、この感覚。
全然違いますよね。調べてみて神秘だと思うことと、調べる以前に世界があるということ、それ自体が神秘だということは。
だからニュートンも、物が下に落ちることを誰もが当たり前だと思って、誰も気にもとめなかったことを、彼は「なんで落ちるの!?」って思ったのです。落ちること、それ自体が不思議でならなかった。この感覚。
私の驚き

私もこういった感覚はあります。
私はこのチャンネルの第9回の放送で語ったように、「なんで今日も当たり前に私の隣でうちの人はいびきかいて寝てるの」いうことから始まります。
以下はヌーソロジーを学ばれている方向けの話になります。
ヌーソロジーでは、私たちが見ている空間は他者の空間だと言いますよね。秒速約30万キロメートルという他者の光、客体化して次元を一つ落とした光によって出現しているこの三次元空間。
普通はこのようなことを学んだら、「なるほど、そうなんだ」という構造上の理解、そして情報の取得だけで終わると思います。私もしばらくの間はそうでした。
でも、ある日のこと。私の日課として、夜お風呂からあがったら、寝る前にストレッチをする習慣があります。

間接照明の明かりだけが灯る薄暗い空間の中で、リラックスしながらストレッチをするのですが、その日はボーッと、なんとなく天井付近を見上げていたのです。
そうしたら、フッときたんです。

え?これが他者の光?え?これが他者の空間?
ええええ?そういうこと!?
そこではじめて、ヌーソロジーが言っている他者空間の意味がわかったのです。
この場合は最初にヌーソロジーでその情報を得て、のちに体感を通して理解したので、最初に自分の疑問があって、その先で見出したことかと言われれば、厳密にはそうではありません。
でも、この三次元空間は当たり前ではないことに気づいたのです。そこに驚いたのです。

ビックリして、なおかつ感動して、夜一人で小さな拍手をして喜びました。
すごい!すごい!この世界すごい!って。
その他、ヌーソロジーの構造論を自分なりに読み解いていたときに、思ったことがありました。
なんで人間はお互い向き合っているんだろう?
なんで向き合うことができるんだろう?
同じ方向を向くこともできる、手を握ることも、抱き合うことも、キスすることもできる。
なぜ言葉を交わせるんだろう?
なぜコミュニケーションが取れるんだろう?
これは当たり前なことなんかじゃない、とても素晴らしいこと。それ自体が神秘なのだと。

だから私は、ニュートンの気持ちがわかるんです。
「え!リンゴ落ちた!」というあの感覚。すごくよくわかる。
無意識化について
世界は無意識化している

当たり前のことに対して、これは当たり前じゃないと気づくことは、自分が無意識に思っていることや、無意識的に体験していることに気づくことなので、ある意味、無意識を意識化してるとも言えると思います。ですから無意識は、この当たり前に見ているこの世界の中にあります。
そして、世界のほとんどが無意識化してると言えるので、私たちはしっかり世界を見ているようでいて、じつは見ていないのです。無意識の世界の一点だけを見て、それで世界のすべてをわかった気になっているだけです。

でもそれは、本当に一点を見つめてるだけなんです。
ほとんどが無意識。
科学と哲学の問いに対する違いについて

たとえば今、目の前にコップがあると仮定します。このコップが今まさに存在していること、そのことにみなさんは驚くことはできますか?
「何に驚けばいいのかわからない」、それが正直な感想だと思います。そう、「ある」ということに驚く、ということです。驚けないということは、それは無意識化してるということでもあります。

何が無意識なの?
コップが見えているから無意識じゃないよ?
と思われるかもしれませんが、「見えているから意識化できている」とは言えないのです。
もちろん、人間世界において、第5回放送「心理学、哲学、ヌーソロジーの立ち位置」でお話しましたが、科学の領域では「見えている=意識化できている」と言えます。でも、一つ上にある哲学領域では「見えているから意識化できている」とは言いません。
哲学はこう問います、「なぜそれがあるの?」と。

「いや、光がコップに当たってそれが目に入って……」と、コップが見えている仕組みを説明するのが科学の視点です。科学はこの世界が「どのように」存在しているかを説明するだけであり、「なぜ」そのように存在しているかと問うことはしません。
第5回の放送で、哲学は科学の一つ上の領域から、世界が「私」からスタートしているという視点で捉えるとお話しました。
ですから、哲学の「なぜ」という問いは、科学のようにコップが「どのように」見えているのかではなく、「なぜコップが見えているの?」という問いに変わるのです。
「HOW」と「WHY」の違いです。
このように、科学はコップが存在する理由を外側に探し求めますが、哲学は外側ではなく、まさにここ。その問いを発した、まさにその場そのものを問うのです。その場とは「私」に他なりません。
「コップがあると認識してるのは私だ。じゃあ、その私って何?」と、「私そのもの」を問うのです。これがデカルトの言った「我思う故に我あり」という言葉の意味です。
世界のあれこれを探究する前に、その世界を問うている、その自分がいることだけは確かだとする言葉です。

この「私」を問うことは、言い換えれば、世界を問うことでもあります。「世界がある、あるって何?」と。
したがって、物質としてコップを捉える科学とは違い、物質と自分を接続させて考えていく、世界と自分を接続させて考えていくのが哲学です。
無意識化しているという言葉の意味を、人は「見えていないもの」「気づいていないもの」だと捉えている方が多いと思います。それもたしかに無意識化したものです。
そして、今日お話のように「ある、という、そのこと自体に驚けない」という感情体験も、無意識化している一つの例だと思っていただけると、無意識に対する理解がまた一つ深まると思います。
本当の自分を知ったとき、人は驚く

哲学において「疑問を持つ」という体験から始まる一連の思考作業は、名前やあらゆる肩書を持った自分ではなくて、その人生を生きているところのその「私」とは何なのかと、当たり前だと思っていたことを改めて問うことなのです。
そして、当たり前が当たり前ではなかったことに「驚く」こと、これが本当の私を知った瞬間であり、無意識の世界に触れることができたという体験なのです。
ですから哲学を語るときは、本当の自分を語るときでもあります。
哲学思考によって体験することは、自分だけの体験です。なぜなら、一人ひとり歩む人生が違うように、本当の自分という存在も一人ひとり違います。
でも人生の中で学ぶことや、そこにある本質をつかむことはみなが共通するように、本当の自分に触れたときもそれは同様です。
本当の自分に気づいて、驚いて、さらにその先を探究して「こうだった」と、哲人たちは語っています。でもそれは、一人ひとり表現が違っています。
言葉を超えた世界の体験を、それでもなんとか言葉でそれを表現しようと四苦八苦して、考えに考えに考え抜いて生まれるのが、「世界内存在」や「自同律の不快」などといった、あの難解な哲学用語たちなのです。
しかし、みなが同じ普遍性や絶対性、そして本質をつかんだということは共通しています。でも表現が一人ひとり違う、つまりオリジナルの表現だということ。ここに個性が出るので、それが哲学の面白さの一つでもあるなと私は思います。
哲学読みの哲学知らず

以上のように、本当の私という存在は哲学されていくわけですが、残念なことに、哲人たちが自ら体験し、自らの言葉で語ったことを、さも自分が体験したかのように語ってしまう人が多いのです。
くり返しになりますが、たしかに哲人たちはみなが本質を捉えているので、それは私たちにとっても共通性はあります。
しかし、哲学の何たるかを知らずに哲学を情報として取得して、情報としての哲学を語る人がとても多いという事実があります。
私はインスタグラムに哲学の名言を手書きでアップしています。その二つ目の投稿、これが名言に関する最初の投稿です。そこでこういった言葉をアップしました。
「哲学読みの哲学知らず こうならないように気をつけよう」
哲学に関する本を読み漁り、哲学の情報で頭をパンパンにして、自分は哲学のことは何でも知っていると言うけれど、哲学の何たるかはまったく知らない人、哲学ができない人、本当の「考える」を知らない人、本当の自分を知らない人、そうならないように気をつけましょうという内容です。
哲学が教えてくれる物事の本質は、自分が発した疑問や驚きをきっかけにして、自力でいろいろ思考して、そしてたどり着くものです。「哲人がこう言っていた、だから世界はこうなんだよ」と自慢気に話すのは、体験泥棒です。
前回もお話しましたが、情報を正しく使えないと知識とは言えないのです。ですから、「哲人がこう言っていた。さて、それは自分の世界にはどう現れているのだろうか」「どう感じられるのだろうか」と思考すること。そのように自分自身に置き換えて、さらに思考していくことが大切だと私は思います。
最後に
前回の放送で、哲学とは「知を愛すること」だと言いました。この言葉の本当の意味は、本当の自分を知っていくこと、思考していく作業のこと、それが本当の愛だということです。ヌーソロジーでは「思考としての愛」とも言われます。
だから、誰かにやってもらうことはできない、自分が自分自身を知っていく、そして自分の言葉でそれを語る、それが大切なのです。
現代科学がいろんな角度から、世界をさまざまに語っています。数式だったり、ときには記号だったり。それも空間側に存在している者を科学的言語を用いて語っているのです。科学が見出したことが世界の真実ではなくて、科学的言語を用いて存在を語っているだけなのです。
世界はそのように、私たちに語られることを望んでいるんです。ですから、みなさんもぜひオリジナルの言葉で、本当の自分を語ってください。自分だけの世界を語ってください。世界はみなさんに語られることを待っています。
そのためには、自らの力で考えること、これが哲学にとって大切な姿勢です。
このお話が、みなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!