私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、愛着障害を抱えた偉人たちをご紹介したいと思います。
▼ 参考文献 ▼
愛着障害を抱えた偉人たち
実際、愛着障害を抱えていた偉人のなかには、子どものころ問題児で、いまなら「発達障害」という診断をくだされたと思われるような人も少なくありません。
今日は一例として、太宰治をピックアップしてみたいと思います。
太宰治の人生
太宰 治は、日本の小説家。 本名、津島 修治。
左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。
主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。
没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。
戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。
Wikipediaより
太宰治については、あまりにも多くが語られてきました。
薬物依存症であったことや、心中未遂をくり返したことの背景に、どういう精神病理があったのか、ということで諸説が唱えられてきました。
昨今は、境界性パーソナリティ障害ということで、大方の意見が一致しています。
しかし、さらにその根底に何があったのかと考えたときに、愛着障害という答えに行きあたります。
太宰治もまた、愛着障害を抱えた人ゆえの苦しみを体験し、それを創作にぶつけましたが、ついに克服しきれなかったといえるでしょう。
愛着障害から境界性パーソナリティ障害へと移行していく場合、その人が何を体験するのか。
太宰のケースは、その精神内界のドラマを鮮やかに明かしてくれる、めずらしい一例でもあります。
太宰治の愛着障害の由来
『新樹の言葉』という小説から、太宰の愛着障害の由来を見てみましょう。
乳母を母として慕っていた
私は生まれ落ちるとすぐ、乳母にあずけられた。理由は、よくわからない。
母のからだが、弱かったからであろうか。
乳母の名は、つるといった。津軽半島の漁村の出である。未だ若い様であった。
夫と子供に相ついで死にわかれ、ひとりでいるのを、私の家で見つけて、傭ったのである。
この乳母は、終始、私を頑強に支持した。世界で一ばん偉いひとにならなければ、いけないと、そう言って教えた。
つるは、私の教育に専念していた。
私が、五歳、六歳になって、ほかの女中に甘えたりすると、まじめに心配して、あの女中は善い、あの女中は悪い、なぜ善いかというと、なぜ悪いかというと、と、いちいち私に大人の道徳を、きちんと坐って教えてくれたのを、私は、未だに忘れずに居る。
いろいろの本を読んで聞かせて、片時も、私を手放さなかった。
(中略)
私は、つるを母だと思っていた。
ほんとうの母を、ああ、このひとが母なのか、とはじめて知ったのは、それからずっと、あとのことである。
新樹の言葉
太宰のこの文章から、乳母に対する純粋な愛を感じます。
記憶から薄れかけていても、いったん思いがよみがえってくると、心の奥底にはっきりと存在していることを知る。
それが愛着というものです。
ひたむきな愛情をかけて育てられた子どもが、大人になって回想するとき、その言葉にあふれているのは、太宰が乳母について語るときのような、深い感謝と肯定感です。
それは、親が誰よりも自分を肯定し、支持してくれたというありがたい思いです。
乳母との突然の別れ
その後、太宰にとって不幸ともいうべき出来事が起こります。
愛着していた乳母と、ある日突然別れなければならなくなったのです。
一夜、つるがいなくなった。夢見ごこちで覚えている。
唇が、ひやと冷たく、目をさますと、つるが、枕もとに、しゃんと坐っていた。
ランプは、ほの暗く、けれどもつるは、光るように美しく白く着飾って、まるでよそのひとのように冷たく坐っていた。
『起きないか。』小声で、そう言った。
私は起きたいと努力してみたが、眠くて、どうにも、だめなのである。
つるは、そっと立って部屋を出ていった。
あくる朝、起きてみて、つるが家にいなくなっているのを知って、つるいない、つるいない、とずいぶん苦しく泣きころげた。
子供心ながらも、ずたずた断腸の思いであったのである。
あのとき、つるの言葉のままに起きてやったら、どんなことがあったのか、それを思うと、いまでも私は、悲しく、くやしい。
つるは、遠い、他国に嫁いだ。そのことは、ずっと、あとで聞いた。
実の母親同然に慕っていた女性がある日突然、自分を見捨てたのです。
事情はどうであれ、子どもにとっては、見捨てられたということに変わりありません。
愛着対象を突然奪われた子どもは、世界の土台を失うにも等しい打撃をうけます。
乳母との再会
太宰はその後、乳母に一度だけ会ったそうです。
私が小学校二、三年のころ、お盆のときに、つるが、私の家へ、いちど来た。
すっかり他人になっていた。
色の白い、小さい男の子を連れて来ていた。
台所の炉傍(ろばた)に、その男の子とふたり並んで坐って、お客さんのように澄ましていた。
私にむかっても、うやうやしくお辞儀をして、実によそよそしかった。
祖母が自慢げに、私の学校の成績を、つるに教えて、私は、思わずにやにやしたら、つるは、私に正面むいて、『田舎では一番でも、よそには、もっとできる子がたくさんいます。』と教えた。
私は、はっとなった。
愛着対象への思いと、その記憶を一緒に消し去るという、脱愛着のプロセスは確実に進んでいました。
乳母のよそよそしさは、太宰のよそよそしさでもあったのかもしれません。
しかし、乳母の一言によって太宰は、自分が消し去ろうとしてきたものの存在に気がつき、はっとなったのです。
乳母が自分に期待しているものの大きさを感じて、太宰は背筋を伸ばす思いだったのかもしれません。
その短いやり取りは、乳母の彼に対する愛情と期待が、けっして死に絶えたわけではないことを示しています。
脱愛着の進行
しかし、脱愛着のプロセスは進行しつづけました。
次第に乳母のことは太宰の記憶からも遠ざかっていきました。
私が高等学校にはいったとし、夏休みに帰郷して、つるが死んだことを家のひとたちから聞かされたけれど、別段、泣きもしなかった。
(中略)
十年はなれていたので、つるが死んでも生きても、私の実感として残っているのは、懸命に育ての親だった若いつるだけで、それを懐かしむ心はあっても、その他のつるは、全く他人で、つるが死んだと聞かされても、私は、あ、そうかと思っただけで、さして激動は受けないのである。
愛着していたころの自分を消し去ることで、子どもはのたうつような悲しみと苦しさから自分を守るしかないのです。
しかし、それで問題が片づいたわけでは決してありません。
愛着対象への思いを切断するという荒療治は、何か大切なものも一緒に切断してしまう副作用を伴います。
太宰がなぜ実の親に対して、素直な愛情を感じることができなかったのか。
親もまた太宰に対して、否定的な反応ばかりを返したのか。
太宰が抱えることになる生きることに対する違和感の根っこは、生裂きにされた愛着にあるように思えます。
その後の太宰は5回の自殺未遂(うち3回は心中を試みる)と、結婚、離婚、再婚をくり返し、さらに愛人ももうけ、39歳の若さで愛人と入水による心中を図り、亡くなります。
まとめ
太宰の症状については、境界性パーソナリティ障害や精神疾患を持っていたということがクローズアップされますが、その根底には脱愛着が起こっていたと知ると、胸が苦しくなりますね。
小さい太宰が乳母と別れ、そこからもがき苦しみながらなんとか生きた39年という生涯。
「それでもよく生きたね!」と私は思うのです。
愛着という人間の土台そのものが脆く崩れやすい状態は、生きるだけでも必死だと思います。
それでも、のちの世に残る作品をたくさん生みだした太宰治。
なぜ人は愛着障害を抱えているのに偉人にまで登りつめることができるのでしょうか?
次回はその点についてお話してみたいと思います。
▼ 参考文献 ▼