私の宇宙からこんにちは、natanです。
このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第43回放送時のトーク内容全文をご紹介します。
本日のトーク内容
はじめに
さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
今年の11/5に、書籍『感性で紐解くヌーソロジー』の出版を記念して、リアル会場とZOOMを使って、ワークショップを開催しました。初めてのワークショップでしたが、たくさんの方にご参加いただきました。本当にありがとうございました。
ワークショップでは、本をテキストにして、ヌーソロジーの宇宙観、そして、私なりの幾何学の考え方、さらには、正しい空間認識についてお話をさせていただきました。ワークショップ動画は、動画配信サイトVimeoで販売しています。ヌーソロジーを基礎から学びたい方は、ぜひご利用ください。
ヌーソロジーとノンデュアリティの比較
さて、今日は、ヌーソロジーとノンデュアリティの比較、そして、ノンデュアリティに感じる個人的な違和感についてお話したいと思います。
私はヌーソロジーをまったく知らない方や、ヌーソロジーを学びはじめたばかりの方を対象に解説をしているのですが、その方たちからよくいただく感想があります。それは「ヌーソロジーはノンデュアリティと似ていますね」という感想です。
ヌーソロジーはノンデュアリティと似ていますね!
ノンデュアリティについて
ノンデュアリティとは、非二元論の思想を指す言葉で、この世界はすべてがひとつのエネルギー体で構成されていること、そして、個人がある事象に対して感じる感情は幻想であること、さらには、ノンデュアリティの思想の根底には「分離することは悪」という考え方があるようです。
ノンデュアリティの思想は2016年頃からブームになったようですが、この思想のルーツは紀元前7世紀頃の古代インド哲学まで遡るそうです。
戦争や自然破壊、自然災害、富裕層と貧困層の二極化などなど、分断によって起こる災い、そこから生まれる生きづらさが多すぎるために、「私たちは本当は一つなんだ」「争いはもうやめようよ」という思いから、昨今はノンデュアリティという思想が支持されているのかなと考えます。
私は、このような考え方は大賛成です。なぜなら、国同士で争っていても、どんなに富を所有していても、みんな一人の人間だからです。その本質をみんなが理解したら、今のようなひどい状況には発展しないと思うからです。
まあ、そう簡単にいかないのが、人間という存在なんだろうなと思います…。
ノンデュアリティでは「すべては一つのエネルギーで構成されている」こと、「自分が感じている感情や思考は幻想である」ということのほかに、「私はいない」ということも説かれているようです。「すべては一つ」そして「自分が感じている感情や思考は幻想」ということは、結果的にそれは「私はいない」と言える、ということなのかもしれません。
ヌーソロジーについて
さて、ここでヌーソロジーの宇宙観をお話していきたいのですが、ヌーソロジーは「空間とは<ワタシ>である」、そして「空間の集合である世界は<ワタシたち>である」と言います。
ヌーソロジーを知らない方は、「空間は<ワタシ>ってどういうこと?」と思われるかと思いますが、先月行ったワークショップでは、ヌーソロジーの宇宙観を上手に表現している歌があるということで、「千の風になって」というテノール歌手の秋川雅史さんの曲をご紹介しました。
私のお墓の前で泣かないでください
「千の風になって」秋川雅史
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹き渡っています
「私は死んでなんかいない」「自然現象のように違う姿になって生き続けている」、この歌詞の世界観がヌーソロジーの宇宙観、そして、死生観をうまく表現していると私は思ったので、ワークショップ内でご紹介させていただきました。
「空間としての<ワタシ>を目覚めさせていこう。本当の<ワタシ>は肉体の「私」ではなく、空間という霊的な身体を持った<ワタシ>なんだ。それを知っていこうよ」と話すのがヌーソロジーです。
ヌーソロジーとノンデュアリティの違い
こういった話をすると、「ヌーソロジーはノンデュアリティと似ていますね」とよく言われます。たしかに、どちらの思想も肉体という私を超越した思想です。そして、「<ワタシたち>は世界そのものである」とするヌーソロジーの世界観が、ノンデュアリティの「世界は一つのエネルギーで構成されている」という部分に一致しそうですし、自然現象のように生き続ける<ワタシ>は、ノンデュアリティがいう「自我としての私はいない」という考えにも一致しそうです。
でも!私はいつも「ヌーソロジーはノンデュアリティと似ていますね」と言われると、素直に「そうですね」と言えないのです。
ヌーソロジーはノンデュアリティと似ていますね。
………(う~ん、う~ん)。
素直にそう言えない理由は、ヌーソロジーは双対構造と呼ばれる双子の構造をベースに、あらゆることを思考していく宇宙論だからです。
ヌーソロジーもノンデュアリティのように、宇宙の最初のエネルギーは根源叡智のような一なる場所から流出していること、そして、次元上昇したとき、これまで分断していたものが統合される「等化」という現象があることなど、似ている部分はたしかにあります。
でも、ヌーソロジーの「等化」と呼ばれる次元上昇は、そこで終わりません。分断していたエネルギーが等化された、次元上昇された瞬間に、双対構造が作動して、その次元上昇を中和させる力が発動するのです。つまり、1となったものが、ふたたび2に分割されるというイメージです。そして、その分割、中和された2は次元上昇によって、高次の領域でまた1に等化していくという仕組みがあります。でも、その1はまた2になる、という双対構造ならではの等化と中和の運動が永遠に行われるのです。
ノンデュアリティは女性性の思想
「ヌーソロジーはノンデュアリティ的な性質を含んでいるところはある。だから、等化の視点に立ってみれば、お互いの思想は似ていると言えるかもしれない…」と私は考えました。でも、だからと言って、「ヌーソロジーはノンデュアリティと似ていますね」という感想はしっくりこない。なぜなら、あの「私はいない」が、どうしても引っかかるからです。「なぜだ、なぜだ」と考えました。お決まりの哲学的思考ですね。どうしても腑に落ちないのです。
そこで今回も、やはり、これまでお話してきたユング心理学が、この違和感に解決の光をもたらしてくれました。
まずはじめに、ノンデュアリティという思想を知ったとき、私は直感的に「あ、この思想は女性性の思想だな」と思いました。ノンデュアリティを支持されている方がお話することとして、「すべては一つ」「私はいない」だけでなく、「すべては愛である」という考えがあるからです。
愛に包まれる、至福である、安心するという意識状態から推察すると、すべてを愛で包みこむ母性の力がそこに見えてきます。お母さんの子宮内でまどろむ胎児、そして、お母さんの温かな腕の中に包まれてすくすく育つ乳幼児のようなイメージです。だから、ノンデュアリティは女性性の性質をもった思想だと思いました。
ヌーソロジーは男性性の思想
その逆で、ヌーソロジーは宇宙すべてを構造的に捉えていきます。構造化させるということは、あらゆるものを分断させることでもあるので、そこには父性の力が見えてきます。ですから、ヌーソロジーは男性性の性質をもつ思想だと考えます。
ノンデュアリティは「すべては一つ」「すべては愛」として捉える女性性の思想なので、そこに正しいとか間違いとかいったものはないと考えます。男性性の思想から見ると間違いに見えるかもしれませんが、女性性の思想はそれ自体で完全なものなので、これはこれで良いと私は考えます。
私はヌーソロジーを学んでいますが、肉体的性別は女なので、ヌーソロジーをとおして男性性の思想を学んでいるとしても、ノンデュアリティの女性性の思想が言いたいこと、大切にしていることは十分理解できます。
「私はいない」の本当の意味
母性の力が働きかけるものとは
でも、私はノンデュアリティに違和感を感じているんですね。「この思想、なぜか腑に落ちない、なぜだ」と。「私がノンデュアリティに感じている違和感って何なのだろう?」と考えていったとき、見えてきたものがありました。それは、ノンデュアリティという思想それ自体は問題ない。でも、その思想を支持している人の解釈がちょっと間違っているんじゃないかなということ。
どう間違って解釈されているかというと、「私はいない」という認識は、本来の意味が歪められた状態で解釈されている、ということ。
ユング派心理学者のエーリッヒ・ノイマンは、女性の心理学や母性について研究をしていました。そのノイマンによると、「母性という力は、個人にではなく、全体に対して影響するもの」だと言います。だから、たとえば、母性の力が「産めよ、増やせよ」と言った場合、それは個人にではなく、全体に対して言っていることなんですね。
母性社会である日本も世界大戦のときに「産めよ、増やせよ」と言ってきたわけですが、これは国民全体に対して言ったことであり、個人で産めない場合は、それはそれで仕方ないという話なのです。
ただし、日本はどうしても同調圧力なるものが働いてしまうので、個人に対して言われているような気になってしまうんですが…。
「私はいない」は全体に対する言葉
ここでノンデュアリティに話を戻すと、ノンデュアリティは女性性の性質をもった思想であり、そこには母性の力が見えるとさっきお話しました。この母性の力は、全体に影響するものです。つまり、ノンデュアリティが言っている「私はいない」も、個人にではなく、全体に対して言っているということが見えてきます。
どういうことかというと、ノンデュアリティで言われる「私はいない」という考えを、ユング心理学をベースにお話してみますね。
たとえば、自分にとって嫌いな人は、自分が認めたくない影の部分なんですね。自分の中にある影を認めたくないからこそ、それを他者に投影して「あの人嫌い」となるわけです。
でも、他者に投影していた影を自分に引き戻して、影を自分の中で統合することができると、今まで嫌いだった人をフラットに見ることができたり、許せるようになったりします。さらに、「この人、私が見たくない私の影だったんだ。な~んだ、この人も私だったんだ」という認識に変化するんです。つまり、他者との関係性の中で「私はいない」という認識が生まれるんです。
また、人は同じようなことで嬉しくなったり、同じようなことで悩んだり、悲しんだりしています。それを腹の底から理解したとき、「みんな私と一緒なんだ、な~んだ、みんな私だったんだ」と、ここでも全体の関係性における「私はいない」が見えてくるのです。
だから、ノンデュアリティが言っている「私はいない」という教えは、「あなたも私も一緒なんだね」という、影の統合や他者に共感するといった心の動きを通して、他者と真正面から向き合えたときに到達できる感覚なのですね。そして、その境地に到達したとき、愛の本当の意味を知ることができると考えます。
ヌーソロジーが言っている世界観も、これと同じだと私は考えています。ヌーソロジーの思想は、個人と人類全体の両方を対象とした思想だと私は思っています。人類全体を対象とした場合、ヌーソロジーが目指そうとする「世界は<ワタシたち>」という世界観は、自己と他者が真の意味で向き合えば、この世界は<ワタシたち>の精神が編み込まれることによって生まれている世界なんだ、ということが理解できるようになってきます。
ヌーソロジーの思考の土台である双対構造は「自己と他者」というふうに呼ばれます。「世界は自己と他者で成り立っている」、それはノンデュアリティにもあるように「世界は一つのエネルギーで構成されている」という世界観と似ていると思います。だから、ヌーソロジーが人類全体に対して話をするとき、ヌーソロジーはノンデュアリティのような色合いを持つことがあります。
間違った「私はいない」の解釈
ノンデュアリティは他者性をもつ
さてさて、ノンデュアリティがヌーソロジーと似ているのならば、なぜ私がノンデュアリティに違和感を感じているのか、さらに疑問に思うかと思います。その理由をここからお話していきますね。
ノンデュアリティを支持されている方々の「私はいない」話を聞いていると、全体を通して感じた「私はいない」ではないな、と感じるんです。よくよく話を聞いていくと、「私はいない」現象が「自我の消滅」という内容で語られているんですね。
何度も繰り返しになりますが、本来ノンデュアリティが言っている「私はいない」は、個人にではなく、全体に対して言われている言葉です。ノンデュアリティの境地は、個人にではなく、全体の関係性の中で到達できることです。それは、他者そして集団との関係性において、固執そして執着すべき私などいなかったという感覚です。
でも、ノンデュアリティ支持者の「私はいない」は、「自我の消滅」として語られているんですね。自我の消滅とはどういう状態かというと、「私」という自我意識が空間に散ってしまったり、溶けていくような状態です。自我が雲散霧消してしまう感じです。そのことを「私はいない」と表現しているのだと思います。
これは、本来ノンデュアリティが言っている「私はいない」とは、まったく違う形で言われていることにみなさんも気づくはずです。ノンデュアリティの「私はいない」は、他者性を持っています。でも、思想の支持者の「私はいない」は、他者性が排除されて、自分の感覚だけに終止しています。そして、溶けて消えていく「私」という自我。これは、自己性さえも消えてしまっているんですね。
心的水準の低下
大半のノンデュアリティ支持者の方が、なぜこのような自我が希薄になる状態を体験するのかというと、二つのポイントが挙げられると考えます。
- その人自身の自我がもともと弱い、だから無意識側に逆行しやすいということ
- 人生の中でとてつもないショッキングな出来事を体験して、心が激しく傷ついたために、自我を保っていられないということ
どちらの状況も心的水準の低下が起こりやすいんです。私たちはいつも、自我意識をもって世界を認識し、物事を判断できているわけですが、それができるのは、心的水準が正常値に位置しているからです。
でも、自我意識が脆弱になると、無意識側へギュイーンと自分の重心が持っていかれるという現象が起こります。心的水準が低下するわけです。はげしい無意識側への逆行は、「跳ね返り現象」というものを引き起こすことがあって、その現象が起こったときに、その人の重心は個人的無意識から、さらにその奥の集合的無意識へ一気に戻ることがあるんです。
これまでユング心理学をとおして、何度も元型や集合的無意識の話をしてきましたが、集合的無意識の世界は、私たち人類の意識を育てるグレートマザーの母胎内のような世界なんです。だから、そこに到達すると、胎児や乳幼児が感じるような、母の絶対的な愛、そして至福、まどろみや魅惑を感じるのだと思います。これを「悟り」や「覚醒」と体験者たちは認識してしまうのだと思います。
でも、ユング心理学を学んでいくと、それはたいへん危険な状態なのだと、みなさんも気づくと思います。それは、意識進化の方向性ではありません。人類の歴史は、大切な意識の灯火である自我意識を育てる歴史でした。自我が消滅してしまう方向性は、大切な「私」という存在が消えてしまう、もっといくと、自我意識が去勢されてしまう、古代人の意識状態に戻ってしまう方向性なのです。
自我の確立が大事
ヌーソロジーがいう「空間は<ワタシ>である」という境地は、自分という存在は変わらずに存在し続けます。しかし、その自分は肉体ではなく、空間側に生き続けているんだということ。それは、肉体の「私」から空間としての<ワタシ>へ、生物進化のように形態が変わるということであり、「私」が消滅することを意味してはいないんですね。
ノンデュアリティ支持者の方の中には、自我の希薄さを感じて、虚無感を感じる方もいらっしゃるようです。真のノンデュアリティ、そしてヌーソロジーは、虚無感は絶対に感じることはありません。虚無感を感じた時点で、それは精神疾患を疑ったほうがよいと思います。
ヌーソロジーは、個人と人類全体を対象にしている思想だとお話しましたが、個人を対象とした場合、ヌーソロジーでは「霊的個体化を目指しましょう」と言います。それは「空間は<ワタシ>である」という認識に到達するために必要な霊的身体を各々で獲得していこう、ということです。ですが、「それを目指す前に、まずはしっかりと自我を確立しないといけないよ」とも話します。
自我がしっかり確立できたあとに、ようやく霊的な変化が起こってくるからです。だから私は、まずは心の問題を解決すること、そしてしっかり他者と向き合うことで、良好な人間関係を構築することが大事だよとお話しているんですね。
ヌーソロジーを学ばれる方の中にも、「霊的個体化」を自我の消滅と勘違いされている方がいらっしゃるようですが、自我の消滅ではなく、「自我の純化」という意味で捉えるとよいと思います。自我を純化させることをとおして霊的個体化を目指していく、そんなイメージです。
思想ではなく人間性を見よう!
さて、ここまで、真のノンデュアリティ思想とその解釈に乖離があることをお話してきましたが、私が今日お伝えしたいことは、思想の正しい解釈をとおして、間違って思想を解釈している人を非難することではありません。そんなこと、微塵も思っていません。思想を正しく解釈することは大切であっても、それをとおして人を正すことは嫌いです。
私が本当に伝えたいことは、「思想ではなく、人間性を見ていこうよ」ということなんです。
ノンデュアリティもそうですが、私はもともとスピリチュアルの教えそれ自体に対して、そんなに間違った教えはないと思っています。思想それ自体は中性的なものだからです。でも、それを支持する人の人間性によって、思想は良くも悪くもなってしまうことがあると感じます。
ノンデュアリティという思想を支持している方の背景を見てみます。自我が弱く、フワフワしているその人は、なぜ自我がしっかり育たなかったのかを考えてみると、そこには親子関係や養育環境が起因していることが見えてきます。
そして、「人生辛くても大丈夫、みんな愛されている、絶対的な愛に守られているから安心して」と話すその人の人生を見てみると、とても苦しい人生を歩んできたことがわかります。
彼ら彼女らが伝えたいこと、それは「安心して生きていいよ」という、自分の辛い経験をとおして、やっと感じることができた救いの感覚だと思います。その方たちは、間違った解釈かもしれないけれど、ノンデュアリティという思想を心の拠り所にして、これからも自分の人生を歩んでいくと思います。
みなさんは、ノンデュアリティという思想があるから、その方たちが愛のあふれる人になっていると思いますか?
いいえ、私はそうは思いません。
ノンデュアリティという思想がなかったとしても、その方たちは、もともと愛があふれている人たちなんだと思います。思想はその愛をうまく表現するために用いられているだけだと思います。その方たちは、もともと温かな人間性を持つ方なんです。これが、私が「思想ではなく人間性を見ていこうよ」と話す理由です。
ヌーソロジーも同じです。ヌーソロジーは難解な宇宙論として有名ですが、ヌーソロジーの理解がなかなか進まない人でも、その人の温かな人間性によって、自然とヌーソロジー的思考をしている人はたくさんいます。逆に、ヌーソロジーを理解できていることに安心しきって、相変わらず自分の殻の中に閉じこもっている人もいます。ヌーソロジーが本当に伝えたいことが、その人には伝わっていないのです。とても残念です。
ちょっと話がそれますが、反出生主義という思想があります。子供を産むのは親のエゴである、自分は生まれなければよかった、人類は滅亡するべきだ、という過激な思想です。
でも、この思想でさえも中性的なものだと私は考えます。反出生主義を支持することによって、子どもを欲している他者を非難する人もいれば、反出生主義という思想に出会うことで、これまで自分が感じていた生きづらさが少し緩和されたと感じるなど、自分のために思想を活かす人もいます。この場合も、思想それ自体の正しい間違いではなく、人間性を見ていかなければいけないと感じます。
どんな思想であれ、人はみな、それぞれの思想を持って自分の人生を生きていきます。どうしてもスピリチュアルや精神世界系の教えは、精神疾患などの病的な症状と類似してしまうことがあります。みんな人生が辛いんです。だから、心の拠り所になる思想を持ちたいんです。思想は生きるエネルギーを与えてくれるからです。だから、思想は思想として捉え、それとは別に、思想を支持するその人の人間性をこそ、しっかりと見ていく必要があると考えます。
思想は生きるエネルギーになると言いましたが、しかし現実的に考えれば、人間を救えるのは人間だけです。思想の正誤を問うということは、結局のところ、人々の分断を生むだけです。それが昨今の世界情勢にも現れていますよね。
国という大きな視点で物事を見ようとすると、どうしても思想や人種、肌の色、性別などで判断するようになってしまいます。でも、私たち個人の場合は、いつも目の前にいるのは一人の人間です。結局人間は、「この人、変な思想持っているけど、好きだな」とか、「変わったところがあるけれど、友達でいたいな」「家族でいたいな」と思う生き物です。個人レベルにおいて、思想だけで人を判断することはほとんどないと思います。逆に、良い思想を持っていても、「この人、人間として嫌いだ」と思うことも、もちろんあります。
思想を良くも悪くもしているのは人間です。自己と他者が心をとおして繋がれば、思想の解釈も本来の解釈に軌道修正されていくと思います。自己と他者の分断が、思想の解釈にも歪みを生じさせていると考えます。
ノンデュアリティは「すべては一つ」と言いますが、よくよーくその思想の中身を見ていくと、そこには自己と他者の双対構造が見えてきます。「あなたも私と同じだったんだね」って。よって、ここまで考察を進めてきて、ようやく「ヌーソロジーはノンデュアリティと似ていますね」という感想に、素直に「はい、そうですね」と言えそうです。ノンデュアリティもヌーソロジー同様に、他者性が含まれた思想だというのが私の最終結論です。
そして、今日私がもっとも伝えたかったことは、思想ではなく、その思想を支持するその人の人間性を見ていこう!ということです。
このお話が、みなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!