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古事記☆新解釈【41】初花/つぼみ弾けて女神生る~天石屋戸話はアマテラスに月経が来た話~

天石屋戸③アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

前回は、天石屋戸にこもってしまったアマテラスを引っ張り出すために登場した、八百万神とアメウズメについてお話をしました。

その話の中で、天石屋戸シーンで起こる出来事はアマテラスのお腹と子宮に深く関係していて、それが理由で彼女は天石屋戸にこもってしまったということをお話させていただきました。今日はその件について身体宇宙論という観点から、アマテラスが天石屋戸にこもった理由をお話したいと思います。

原文/読み下し文/現代語訳

天岩屋戸③-1(原文/読み下し文/現代語訳)

於是天照大御神 以爲怪 細開天石屋戸而 内告者 因吾隱坐而以爲天原自闇 亦葦原中國皆闇矣 何由以 天宇受賣者爲樂 亦八百萬神諸咲
尒天宇受賣白言 益汝命而貴神坐 故歡喜咲樂

ここに天照大御神、怪しと以為おもほして、天石屋戸を細めに開きて、内よりりたまひしく、「こもりますによりて、天原おのづかくらく、また葦原中国も皆闇けむと以為ふを、何由なにのゆゑにか天宇受売あめうずめあそびをし、また八百万やほよろづ神も諸咲もろもろわらへる」とのりたまひき。
しかして天宇受売まをししく、「いまし命にして貴き神います。故歓喜かれよろこび咲ひ楽ぶぞ」とまをしき。

天石屋戸③-2(原文/読み下し文/現代語訳)

如此言之間 天兒屋命 布刀玉命 指出其鏡 示奉天照大御神之時 天照大御神 逾思奇而 稍自戸出而臨坐之時 其所隱立之手力男神 取其御手引出 卽布刀玉命 以尻久米繩 控度其御後方白言 從此以内 不得還入 故天照大御神出坐之時 高天原及葦原中國 自得照明

かくまをす間に、天兒屋あめこや命、ふと玉命、その鏡を指しいだして、天照大御神にまつる時、天照大御神、いよよあやしと思ほして、やや戸より出でて臨みます時に、そのかくり立てりし天手力男あめたぢからを神、その御手みてを取り引き出す即ち、ふと玉命、しりくめなはをその御後方みしりへわたしてまをししく、「これより内になかえりそ」とまをしき。かれ天照大御神出でましし時、高天原と葦原中国、おのづから照り明りき。

天石屋戸③-3(原文/読み下し文/現代語訳)

天照大御神は怪しいと思い、天石屋戸をかすかに開いて、中から告げることには、「私が籠もっているから、天原も葦原中国も皆闇に覆われているのに、どうして天宇受売は歌い踊り、八百万神は皆笑っているのか」とお聞きになった。そこで天宇受売命は、「あなた様より貴い神がいらっしゃるので、それに喜んで歌い踊り笑っております」と答えた。そう話している間に、天児屋命と布刀玉命は鏡を差し出して、天照大御神に見せるとき、天照大御神はいよいよ奇しいと思って、そろそろと戸から出てこようとした時、戸の横に隠れ立っていた天手力男神がその手を取り引き出すやいなや、布刀玉命はしめ縄を天照大御神の後ろにひき渡して、「これより中へ戻ってはいけません」と言った。そうして天照大御神が外にお出になった時、高天原も葦原中国も自然と照り明るくなった。

これが今日取り上げるシーンです。

解説

おさらい

まずは、軽くおさらいから。アマテラスが天石屋戸にこもってしまった背景には、スサノヲが屋敷の天井から皮を剥いだ馬を投げ落とし、それにびっくりした機織り娘が機を織る梭で陰を突いて死んでしまったことが関係しています。

また、太陽神が隠れることは、天文学的に言えば、日食が起こったということであり、神話においてそれは太陽の死を意味する出来事です。太陽が死んで世界に災いが起こった。それを引き起こしたのはスサノヲだから彼は悪い神だと、私たち日本人はずっとそう解釈してきました。

ですが私としては、その解釈は半分合っていて半分間違っていると思います。というのも、なぜ日食が起こるかを考えてみると、日食は月が太陽を隠してしまうことで起こる現象なので、高天原で起こる一連の出来事には、月の神ツクヨミも大きく関与していると思うからです。そのツクヨミの関与を読み取ることで、アマテラスが天石屋戸にこもった本当の理由が見えてきます。

アマテラスに初潮がきた!

その理由は何かというと、じつはアマテラスに初めての月経(初潮)がきたからです。ですから、天石屋戸シーンは女性の月経の起源を描いた場面だとも言えます。

女性の身体は月のリズムで動いています。しかし、月のリズムが発生するのは初潮が起こってからであり、まだ幼女の段階では月は関与しません。また、月が関与しない身体性は男性的であり、それを象徴するかのようにアマテラスはスサノヲが高天原に上ってくるとき男装をしていました。

男性の身体性というのは文化の象徴でもあるので、男装したアマテラスも文化の行為者として田畑を営んでいました。そこに自然の破壊的な力、毒を象徴するスサノヲが介入することで、文化を象徴するアマテラスが強制的に自然側に引き戻されることになりました。つまりそれは、女性の身体性へと引き戻されたということ。これが月経を意味していたんですね。

月経について①

社会活動をする女性が月経期間中に体調不良になることをイメージしてみるとわかりやすいかと思います。活動的な身体は男性的と言えます。しかし、月経が近くなると身体はズーンと重くなり、あちこちに不調が出てきます。いわゆるPMS(月経前症候群)というやつです。身体性が徐々に男性側から女性側へ引き戻されていきます。PMSが発症しているときの精神状態は、まさに黄泉国状態と言えます。

ですから、日食によって引き起こされた世界の災いというのは、身体宇宙論で言えば、女性の月経時の体調不良、そしてそのときの精神の不安定さを表しているのではないかなと私は思いました。

月経について②

暗喩的に描かれる月経4つ

また、これ以外にも天石屋戸シーンが月経を描いているという根拠がいくつかあって。それは暗喩的に描かれているので、ここからはその暗喩的に描かれる月経について、四つほどご紹介したいと思います。

  1. 天の菩卑能命
  2. 機織り娘がいた忌服屋
  3. アメウズメが「うけ伏し」たこと
  4. 「布刀」と「咲く」から導き出される漢字

天の菩卑能命について

①から見ていくと、天の菩卑能ほひの命はうけいで生まれた五柱の男神のうちの一柱です。古事記解説第35回のとき、その男神たちは今後の物語のシナリオにもなっているということをお伝えし、たとえば左みづらから生まれた正勝吾勝勝速日天まさかつあかつかちはやひあめ忍穂耳おしほみみ命は、「正しく勝った、俺は勝った」という感情が名前の先頭についているので、それを一つのシナリオにしてスサノヲはうけいを勝負事に変えて、「そのうけいに俺は勝ったぞ!」と言って、勝者の権限を行使しアマテラスの田畑を荒らす行為にでたということをお話させていただきました。

そして、そのとき解説を保留にした、右みづらから生まれた天の菩卑能命も別のシナリオになっていて、「菩」という漢字は「菩薩」というよりはその成り立ちの方が重要で、並び生えた草と花の蕾の象形で構成されていることから、「菩」は「蕾」と考えることができます。この蕾を「卑」という身分が低い、または下品な者が卑しめると解釈できるんですね。

「卑」は皮を剥いだ馬を投げ落としたスサノヲのことです。その行為によって蕾が破られる。この蕾が何を指しているかは、最後四つ目まで話を進めたときわかってきます。ですから、この天の菩卑能命のシナリオを頭の片隅に置きながら、これから先の話をお聞きください。

①天の菩卑能命

機織り娘がいた忌服屋について

忌小屋(月経小屋)

続いて二つ目は、機織り娘がいた忌服屋について。機織り娘は「忌服屋」という屋敷で作業をしていたのですが、「忌」とは忌小屋、つまり月経小屋のことであり、それは月経がきた女性がこもる小屋を指していると考えられます。昔は、月経がきたら女性たちは小屋にこもっていました。

また、陰を梭で突いたら血が出るはずなので、これも月経の話として読めます。さらに、馬が皮を剥がされたり衣が織られていたりすることも意味深で、月経は血が流れるというよりは子宮内膜という血を含んだ膜が剥がれ落ちる現象なので、その内膜のことを皮や衣が暗喩的に伝えていたのではないかなと思います。

②機織り娘のいた忌服屋について01
初潮は子どもの身体性と精神構造の死でもある

結果、機織り娘は死んでしまうわけですが、機織り娘というのは、古事記解説第39回でお話したように、アマテラスの分身であり、それは幼子でもありました。

アマテラスに起こった初潮という現象は、子どもの身体性や精神構造が大人のそれへと移行することを意味するので、そのとき子どもの身体性と精神構造は死を迎えます。だから神話上、幼い機織り娘は死ぬ必要があったのだと思います。

また、大人への成長が、アメウズメが胸と陰を露出されたという部分にも描かれていると感じます。当初アマテラスは男装していましたが、本来は女神なので、アメウズメは神がかりをして、アマテラスが魅力的な大人な女神に変身するよう呪術をかけていたのではないかなと思います。

そして、その呪術は上手くいき、外が賑やかなことを不審に思ったアマテラスがその理由をたずねると、「あなた様より貴い神がいらっしゃるので、それに喜んで歌い踊り笑っております」とアメウズメは答えたとのことですが、その言葉の意味は、「その貴い神様とは、美しい大人な女神へと成長された貴方様のことですよ」ということかもしれないなと思います。

②機織り娘のいた忌服屋について02

アメウズメが「うけ伏し」たことについて

さて、そんなアメウズメに関することが三つ目。③アメウズメが「うけ伏し」たことについて。これは前回のシーンでの出来事になりますが、アメウズメが天石屋戸の上で何やら「うけ伏し」たと言われていました。

「うけ」は原文では「汙氣」と記されていて、「汙」とは汚い、穢らわしい、恥辱、またはくぼ地という意味を持ちます。現代語訳では「空の桶を伏せて…」としていますが、これが月経と深い関わりを持っています。

インディアンの風習

古事記と親和性の高いインディアンの風習を参考にすると、レヴィ=ストロースいわく、日食のとき太陽は血を流すとされ、インディアンたちはその血が器に入ってしまうと災いが起きてしまうと信じていたそうです。だから、日食がはじまるとすぐに女性たちは大急ぎで壺や手桶、皿などを伏せていたと言います。

太陽の血、これが古事記ではアマテラスの経血になっているようです。そして、インディアンの風習同様、アメウズメも空の桶を伏せています。神話というのは、日食と月経を同列に扱う傾向があるようです。日食によって流れる太陽の血が世界に災いをもたらす、だから月経の血も穢らわしいという認識が生まれたのかもしれません。

③アメウズメの「うけ伏し」たことについて
古事記は女性に優しい神話

しかし、世界はそうであっても、古事記の場合、日食は恐ろしくとも、月経に関しては喜ばしいこととして描かれていると感じます。古事記は最高神が女神ということだけあって、女性に優しい神話になっていると私は思うんです。

反対に、インディアンの神話は、古事記と共通点は多くても、女性の扱いが残忍なところがあります。たとえば、自分の姉妹もしくは奥さんが悪いことをしたとき男たちは激しく殴っただの、奥さんを殺してその遺体を焼き肉にして食べただの、女性からしてみるとゾッとするような描写が多いんです。

古事記も「陰を突いて死んだ」という表現は痛々しく感じますが、でも、インディアンの神話に比べればはるかに優しい方です。古事記では、月経とくに初潮は女性の豊かな創造性の始まりを告げるものとして、お祝いすべきことという認識があるように思います。

世界の神話と古事記の違い

現に、民俗学者の赤松啓介さんの書籍『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』では、ある家の娘さんに初潮がきたとき、宴をひらいて、そこで大人の男女が性交の真似事をしてみんなで大笑いをして祝ったと書かれています。また、おめかしした娘さんを歩かせて、村中に初潮がきたことを知らせたとも書かれていました。だから、日本古来の風習を見てみても、初潮は喜ばしいこととして祝福されているんですね。

でも初潮が来た本人としては、自分の場合を思い返してみるとよくわかるんですが、嬉しいような恥ずかしいような感じで、周囲は喜んでくれるけど、自分としてはお腹痛いし、体調良くないし、でもこれで大人になったんだと思ったら、なんとも言えないこっ恥ずかしい感情が湧いてくるんですよね。

だから、アマテラスも天石屋戸の外に出たとき、「照り明るくなった」と記されていることから推測するに、恥ずかしいな、照れるなという気持ちを抱いていたんじゃないかなと、私なんかは思うんです。もし古事記がそういった女性の微妙な心の動きまでも描いているとするならば、古事記は女性的な神話と言えるのではないかなと思います。だから、意外と古事記は女性が読み解くと新しい発見があるのではないかなと思ったりしています。

初潮はおめでたいこと

「布刀」と「咲く」から導き出される漢字について

さて、ここからは最後四つ目の項目、「布刀」と「咲く」から導き出される漢字について。

布刀玉命だったり、布刀御幣みてぐらだったり、布刀祝詞だったり、「ふと、ふと、ふと…」と同じ音がたくさん出てきます。古事記は漢字の構造を巧みに使って語る特徴もあるので、布刀という漢字(これは当て字)も積極的に考えてみると、「布を切る刀」つまり「裁断」と解釈することができます。

この布刀を別の漢字で表すと「初」になります。初は、衣とそれを切る刀の象形で構成されているからです。また、八百万神が笑うことを古事記は「咲く」と表現していて、何が咲くかと言えば、天の菩卑能命のところでお話した花の蕾です。

その「初」と「咲く」を合体させて「初めて花が咲いた」としてみると、「初花」という言葉が導き出されます。初花とは、初潮を意味した言葉です。つまり、花の蕾とは初潮を迎えようとしていたアマテラスのことで、スサノヲの行為によって蕾が破られ初めて花が咲いた、つまりアマテラスに初潮がきたというわけです。

④「布刀」と「咲く」から導き出される漢字について

まとめ

ということで、以上の四つがアマテラスの月経を暗喩的に描いている部分になります。

月経の血は穢れているというのが世界共通の認識のようですが、先ほどご紹介した赤松さんの見解によると、日本では明治前まで血を穢れとする風習はなかったそうです。月経がきたらこもる月経小屋も、女性たちを血の穢れとして隔離するためのものではなく、女性が日常の仕事から開放されて、身体をゆっくり休められる小屋という認識だったそうです。

また、月経小屋と言いつつも、月経が終わっても家に帰らない娘さんもいたそうで、なぜ帰らないかというと、そこで好きな男性と落ち合い、「いいこと」をするためだったそうです。その話を教えてくれたおばあさん曰く、その「いいこと」が何よりも楽しみだったとのこと。

こういった証言から、赤松さんは「日本に血の穢れ信仰などなかった。それは江戸末期から明治にかけて海外から輸入したものだ」と断言していました。こういう話を知ると、女性としてはホッとします。古事記も月経は穢れたものとは書いていないので、古事記を正しく読むと、日本古来の風習は、明治以前、以後ではまったく違うんだなと知ることができます。改めて、古事記は女性の身体にとても優しい神話だなと思います。

ということで次回は、天石屋戸シーンは人体で起こる生理現象だけでなく、日本文化誕生についても語っているので、その件についてお話したいと思います。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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