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古事記☆新解釈【16】生と死の起源~黄泉の国は心を映す鏡の世界~/黄泉の国①

古事記☆新解釈「黄泉の国①」アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

今回から、黄泉の国の解説に入っていきたいと思います。このシーンも解説が長くなるので、複数回にわけてお話していきます。

まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。

原文/読み下し文/現代語訳

古事記「黄泉の国①-1」(原文/読み下し文/現代語訳)

於是欲相見其妹伊邪那美命 追往黄泉國
尒自殿縢戸出向之時 伊邪那岐命語詔之 愛我那迩妹命 吾与汝所作之國 未作竟 故可還
尒伊邪那美命答白 悔哉 不速来 吾者為黄泉戸喫 然愛我那勢命 入来坐之事恐 故欲還 且与黄泉神相論 莫視我

ここにそのいも伊邪那美命をあひむとおもひて、黄泉よみのくにに追ひきき。しかして殿とのかがりよりで向かへし時、伊邪那岐命語らひりたまひしく「うつくしきなにのみことあれいましと作れる國、作りへず。かれ、還るべし」とのりたまひき。尒して伊邪那美命答へまをししく「くやしきかな、速くずて。吾は黄泉よもつぐひしつ。しかれども愛しき我がなせのみことませる事かしこし。故、還らむと欲ふを、しばら黄泉よもつのかみあひあげつらはむ。我をるなかれ」とまをしき。

古事記「黄泉の国①-2」(原文/読み下し文/現代語訳)

さて、(伊邪那岐命は)妻の伊邪那美命に会いたいと思い、黄泉の国に追っていった。そうして御殿の閉められた戸を挟んで向かい合ったとき、伊邪那岐命は「愛しい我が妻よ、私たちはまだ国を作り終えていない。だから、帰ろう」と仰った。すると伊邪那美命は「悔しいわ、あなたが早く来なくて…。私は黄泉の国の食べ物を食べてしまったの。でも、愛しい我が夫が黄泉の国まで入ってきてくれたことは恐れ多いわ。だから私も帰ろうと思うの。しばらくの間、黄泉神と会って私の考えを伝えてくるから、その間、私を見ないでくださいね」と答えた。

古事記「黄泉の国①-3」(原文/読み下し文/現代語訳)

如此白而 還入其殿内之間 甚久難待
故刺左之御美豆良 湯津津間櫛之男柱一箇取闕而 燭一火入見之時 宇士多加禮許呂呂岐弖 於頭者大雷居 於胸者火雷居 於腹者黒雷居 於陰者拆雷居 於左手者若雷居 於右手者土雷居 於左足者鳴雷居 於右足者伏雷居 并八雷神成居
於是伊邪那岐命 見畏而逃還之時 其妹伊邪那美命 言令見辱吾
卽遣豫母都志許賣 令追

かくまをして、その殿とのの内に還り入りし間、甚久いとひさしくて待ちがたし。かれ、左のみづらに刺せる湯津ゆつ津間つまぐしばしらひと取りきて、一つともして入り見たまひし時、うじたかれころろきて、頭にはおほいかづちり、胸にはほの居り、腹には黒雷居り、ほとにはさき雷居り、左手にはわか雷居り、右手にはつち雷居り、左足にはなり雷居り、右足にはふし雷居り、あはせて柱のいかづちがみ成り居りき。
ここに伊邪那岐命、かしこみて逃げ還りし時、そのいも伊邪那美命「あれはぢせつ」と言ひて、すなはちよもつしこめつかはして追はしめき。

古事記「黄泉の国①-4」(原文/読み下し文/現代語訳)

そのように仰って、(伊邪那美命は)その御殿の中に入っていった。その間がとても長くて、(伊邪那岐命は)待ちきれなくなってしまった。そして、左のみづらに刺している湯津津間櫛の太い歯の一つを取って擦り、一つ火を灯して入って見たとき、(伊邪那美命の身体には)ウジがたかってコロコロとうごめき、頭には大きな雷、胸には火雷、腹には黒雷、陰には拆雷、左手には若雷、右手には土雷、左足には鳴雷、右足には伏雷の、合わせて八柱の雷神が成っていた。
それを見た伊邪那岐命は恐ろしくなり、逃げ帰ろうとしたとき、妻の伊邪那美命が「私に恥を見せたな」と言って、黄泉醜女に後を追わせた。

ここまでが今日取り上げるシーンです。それでは解説に入ります。

解説

要約

読み上げたとおり、イザナキは最愛の妻に会うため、黄泉の国へ追って行きました。黄泉の国がいったいどこにある国なのか、それは現時点ではわかりません。

黄泉の国に到着したイザナキは、イザナミがいる御殿の戸を挟んで、お互いの姿が見えない状態で会話をします。そのとき、「なにの命」や「なせの命」と呼び合っていて、これは親しい異性に対して言う言葉なので、二人は心から愛し合っていたということがわかります。

イザナキは「国作りがまだ終わっていないから、一緒に帰ろう」とイザナミを誘い、そして彼女は、「あなたが早く来てくれなかったから、黄泉の国の食べ物を食べてしまったの」と応えます。黄泉の国の食べ物を食べてしまって帰れないというのは、ギリシャ神話にも似たような話があり、これは黄泉の国を読み解く上で重要なポイントになると考えます。しかし、現時点ではそれについて解説するための必要な情報が揃っていないので、この件は情報が揃い次第、後日詳しく触れたいと思います。なので、今日は話を先に進めますね。

お話戻りまして、イザナミはこう言います。「でも、愛しい我が夫が黄泉の国まで入ってきてくれたことは恐れ多いわ。だから私も帰ろうと思うの。しばらくの間、黄泉神と会って神を説得してくるから、その間、私を見ないでくださいね」。そう言って、御殿の奥に入っていきます。

natan
natan

見るなと言われたら、見たくなるのが男の甲斐性!

いや、男の甲斐性は私にはわからないですけどね(笑)。

なかなかイザナミが戻ってこないので、イザナキは頭に挿している櫛の歯一本を折り取って、それに火を灯して、御殿の中に入って、中を覗いてしまいます。すると、そこには体中にウジが湧いて、雷神が成っている恐ろしい姿のイザナミがいました。そして「み~た~な~」という話になるわけですが…。

黄泉の国は生と死の起源について語っている

まず最初に、このシーンはどういったことを語ったものなのかというと、それは生と死の起源です。生の象徴がイザナキ、死の象徴がイザナミで、この二神が離別することで生と死が誕生したと言われています。

私はこのシーンを読んだとき、生と死の起源話の中で、それらを分かつ要因的な話も複数、同時に語られていると感じました。今回のシーンにおいては、三つほど描かれているようなので、今日はその件についてお話してみたいと思います。

生と死を分かつ要因①病気

生と死を分かつ要因一つ目。それは病気です。

私がこのシーンを考察しはじめたとき、一番最初に注目したのが雷神でした。体中に雷神が成っている様子から、イザナミはひどく怒っていると想像することができます。なぜなら、「いかづち」「かみなり」の語源は「神の怒り」でもあるので、覗き見をしたイザナキに対してすごく怒っていると解釈することができるからです。

ですが、もっと深読みしてみると、怒りとは違う性質も感じ取れるなと思ったんです。それは何かというと、痛み。この雷神は、痛みのことを象徴しているのではないかなと。しかも、それは雷レベルなので超激痛。そこから考えるに、イザナミは何らかの病気にかかっている、もしくはひどく弱っているということも考えられるなと思ったんです。

そのような考えに至った理由は、古事記解説第十四回でお話したように、私はカグツチの炎の要素から炎症反応や病の兆候を読み取っていたからです。だから、その炎症反応が、今回のシーンで形をもって表現されているのではと思ったんです。

淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神について

イザナミの身体に成っている雷神は、炎症反応による激痛、または発赤ほっせき、発熱、腫れといったものを象徴しているのかもしれません。そう考えてみると、今度は、雷神それぞれの名前から、イザナミの身体で起こっている症状も読み取れるなと……。

イザナミの身体に成った雷神たち

上からいくと、頭にいる大雷は頭痛。胸には火の雷。これは胸がギューッと痛く苦しくなる、狭心症のような症状。お腹の黒雷は、黒い雲が立ち込めてゴロゴロなる感じ、つまり腹痛。そして陰には拆雷がいるので、これは産後の痛み。

左手には若雷、右手には土雷がいて、右手の土雷から土の色を想像してみると、土色の肌が連想でき、それは肝臓に何かが起こっているときの症状です。そして、肝臓由来の症状は、おもに右半身に現れるそうです。ということは、反対に、左手の若雷はすい臓に何かが起こっていると考えることができるかもしれません。すい臓は左半身に症状が現れるからです。

最後に、左足の鳴雷は足が鳴ること、つまり関節症のようなものを考えることができ、全身の症状を総合したとき、右足の伏雷、つまりイザナミは炎症そして痛みのあまり、病床に伏してしまったということなのかなと思ったんです。

これらの症状は、のちに人間の私たちがかかるもので、病気は生と死を分かつものなので、このシーンは病気発症の起源も語っているのかもしれないと私は考えました。

生と死を分かつ要因②地震活動

さて、続いての生と死を分かつ要因二つ目は、先程とは話の雰囲気がガラリと変わります。二つ目は、ずばり地震活動です。

これまでもお話してきたように、イザナミは大地母神でもあります。そして、古事記解説第十二回でもお話したように、雷神は高い圧力を加えたり、電流を流したりする存在でもあります。また、黄泉の国の直前のシーンでは山の神々が誕生していて、そういったことを総合して考えてみたとき、私は今回のシーンから地震活動を読み取りました。

地震は、地下の岩盤が周囲から押される、もしくは引っ張られることによって、ある面を境に岩盤が急激にずれることで発生する現象です。地震には主に海溝型地震と活断層型地震があります。黄泉の国の直前のシーンで山の神々が誕生していましたが、まさに山の形成というのは、断層がズレて大地が隆起することで出来ます。

陸地を構成するさまざまなプレート、そして活断層が、左右から強烈な圧力を受けて、それに耐えきれなくなってズレるとき、大地はまるで雷が鳴ったかのような轟音をたてて、大きく激しく揺れ動きます。そのとき大地は裂け、人は立っていることもままならず、地面に伏してしまいます。地震発生時には、電気的な変動も起こっているそうです。この地震の要素が、今回のシーンから読み取れるなと私は思いました。プレートの境界線や活断層を地図上で見てみると、大地が負った生々しい傷に見えます。

地震について

日本は地震大国です。大地震によって、これまでたくさんの命が失われてきました。もちろん生き延びた人々もいます。そのように生と死を分かつ領域、そこで起こる出来事が地震。だから、黄泉の国のシーンで地震に関することが語られていてもおかしくないなと個人的には思います。と言いますか、日本の神話なら、絶対に触れておかなければいけないのが地震でもあると思います。私たち日本人は、地震から生きるすべを学んできたからです。

世界各地にある大地母神の神話も参考にしてみると、たとえば北欧神話に出てくる巨人ユミル。ユミルが死んだとき、ギンヌンガガプという世界の創造の前から存在していた巨大で空虚な裂け目の中央にユミルの遺体を置くことで大地が作られた、と言われています。遺体が葬られたその空虚な裂け目は、『古事記』においては、出雲の国と伯伎の国との間の比婆の山に葬られたイザナミ、そして今お話した活断層やプレートの境界線と何やら関係性がありそうだなと私は思いました。

また、地震関連で火山を想起してみると、イザナキが一つ火灯した湯津津間櫛ですが、これはたぶん、「火山毛」と呼ばれる、火山が爆発したときマグマの一部が引き伸ばされて固まった、ガラスの毛髪状の破片に関するものだと思われます。ハワイにはペレーという火山の女神がいて、火山毛のことを別名「ペレーの毛」とも呼ぶそうです。湯津津間櫛の「湯津」は、岩石がゴロゴロしてお湯が湧いている場所、つまり火山活動に関する言葉でもあるので、湯津津間櫛は火山毛を象徴したものなのかなと私は思いました。

ペレーの毛

生と死を分かつ要因③貧しい心

さて、ここからは生死を分かつ三つ目の要因について触れていきたいと思います。三つ目は、貧しい心です。

私は、イザナキの行動に注目したとき、ふとあることを思いました。イザナキはイザナミから「黄泉神を説得している間、絶対に私を見ないでくださいね」と言われていたのに、覗き見をしてしまい、そのとき、櫛の歯一本に火を灯したわけですが、この行動から「爪に火をともす」ということわざが想起されたんです。

「爪に火をともす」とは、ろうそくや油のかわりに、爪の先に火をともして明かりの代用にすることで、つまりそれは、たいへんケチな様子を指した言葉です。また、貧しくつつましい生活を送ることにもたとえられます。このことわざを通してイザナキの行動を考えてみたとき、櫛の歯一本に火を灯して中を覗き見した様子から、イザナキの貧しい心の状態が読み取れるなと感じたんです。そして、「見るな」と言われていたのに見てしまった、約束を守りきれなかったイザナキの精神的な幼さも感じられるなとも思いました。

そのような貧しい心を持ったイザナキが見てしまったのが、全身にウジが湧いて雷神が成っている、恐ろしい姿のイザナミです。このことは深層心理学的に言えば、イザナキの貧しい心を可視化させたものがイザナミの姿だったと言うことができます。

爪に火をともす

以前、男女神はお互いを補完し合う関係にあるとお話しましたが、まさに今回のシーンでは、イザナキの行動、そしてその行動の元になっているイザナキの貧しい心を、イザナミが身をもって表現しているのだと思います。イザナキの心を映す鏡がイザナミだからです。

だからイザナミは「私に恥を見せましたね」と言ったのだと私は思うんです。「恥をかかせた」のではなく「見せた」と言ったのは、「あなたの鏡であるこの私に、このような醜い姿を映しましたね」と。「あなたは私のことを「あなにやし、ええおとめを(美しい人だ)」と言ってくださったのに、どうして私をこのような醜い姿に変えてしまったのでしょうか」「悲しい…許せない…ヨモツシコメ!あの方を追え!!!」ということなのだと私は思うんです。イザナミは美しい姿から醜い姿に変えられたことがショックだった。きれいな心で映してほしかったと。「そりゃそうだ」という話ですよね。

イザナミのお腹になった黒雷の名前に注目してみると、黒雷は腹黒さとしても読めます。黄泉の国の話は、愛しい妻を追ってきた夫という、一見美しい話のように感じられますが、でも、忘れてはいけないのが、直前のシーンでイザナキはイザナミを失った悲しさから我を忘れて激怒し、子であるカグツチの首を斬って殺しているということ。

イザナミが自分の命と引き換えに生んだ大事な我が子を殺してしまう凶暴さをイザナキは持ったまま、彼は妻に会いに行っているんです。善良そうな夫を装いつつ、お腹には黒いものを抱えている。それを隠すことなく映し出したのが黒雷なのだと私は思います。

心の貧しさを放っておくと、心は病み、いつしか心と精神は死んでしまいます。だから今回のシーンは、深層心理学的に見た場合、心の貧しさが精神の死を招くという、精神に関する生と死についても語っていると私は考えています。

以上が、生と死を分かつ要因三つについてのお話でした。

最後に

今日の話をまとめます。今回から始まった黄泉の国は、ストーリー全体を通して、生と死の起源について語っているということ。そして、その生と死を分かつ要因として、このシーンからは三つほど読み取れるものがあり、それは病気、地震、心の貧しさです。

また、イザナミはイザナキの心を映す鏡でもあったということから、黄泉の国は心を映す鏡的世界でもあると言うことができます。このことを知った上で黄泉の国を読み進めていくと、『古事記』がこの話に込めたメッセージを読み取ることができるようになります。そのメッセージとは一体何なのか?次回以降の解説もぜひ楽しみにしていてくださいね。

ちなみに、生と死を分かつ要因は今日お話した以外にもあるので、それについては次回以降触れますね。また、イザナミの体にわいたウジや黄泉醜女についての解説も後日触れたいと思います。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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