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古事記を新解釈してみた☆『古事記』解説における決意表明について

古事記エピソード0アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

こんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

今回から新シリーズのお話を進めていきたいと思います。それは題して「仮説を大いに楽しむ♪新解釈『古事記』」です。今日は、新シリーズ開始にあたっての、私の決意表明についてお話したいと思います。

日本神話について

神話とは

まず、日本神話と言えば、『古事記』と『日本書紀』が二大巨頭だと思います。私はもともと神話に疎い方だったのですが、ユング心理学をきっかけに神話に触れてから、神話の何とも言えない奥深さに魅了されて、そこから神話が大好きになりました。そして、いろんな先生方の書籍を参考にして、独学で学んできました。

神話とは、古代日本人の信仰に裏打ちされた神々による世界創造の物語であり、それは人間と文化の起源を神々に託して語ることで、世界の始まりと現実の社会のあり様を説明しようとしたものです。

『古事記』と『日本書紀』の歴史について

日本

まず、『古事記』や『日本書紀』の歴史について、簡単に振り返ってみたいと思います。

『古事記』や『日本書紀』は、天皇の命によって編纂作業が開始されました。『古事記』は712年に完成し、その8年後の720年に『日本書紀』が完成しました。それら書物の編纂作業は、8世紀初頭の日本における一大国家プロジェクトだったようです。

その当時、日本と朝鮮、中国との均衡が崩れ、日本は大陸の脅威が及ぶ危機に遭遇していました。そのような中、日本民族の意識を一つにまとめ、諸外国に日本は自立した国であることをアピールし、諸外国と対等に渡り歩いていくためのさまざまな施策の一つとして、『古事記』や『日本書紀』が編纂されました。

『古事記』と『日本書紀』をまとめて「記紀」と言います。

私がこれからシリーズで取り上げていきたいのは『古事記』の方です。『古事記』は『日本書紀』よりも先に完成したそうですが、長い間その存在は忘れ去られてきたという歴史があります。そして、『日本書紀』の方が国中に広まり、日本国民全員が知っていくものとなりました。

その背景には、『日本書紀』の方が日本にとっての正しい歴史(正史)であったから、また、それは天皇を中心とした国づくりに欠かせないものだったから、という理由が挙げられると考えます。その結果、『古事記』は表舞台から消えていくことになりました。

本居宣長の登場

本居宣長
本居宣長

しかし、『古事記』編纂から約1000年後、『古事記』を蘇らせる人物が現れます。それが江戸時代の国学者である本居宣長もとおりのりながです。

『日本書紀』は漢文で書かれているので、後世においても人々はそれを読んで、内容を理解することは可能でした。しかし、『古事記』は漢字だけでなく、よくわからない文字でも書かれていたため、すでに読むことが困難になっていたそうです。

その『古事記』を本居宣長は35年の歳月をかけて解読し、それを『古事記伝』という書籍にまとめました。宣長のおかげで、私たちはもう一度『古事記』と出会うことができたというわけですね。

『古事記』に書かれていること

古事記

『古事記』を読んでいく中で、私はあることを感じました。それは、『古事記』はモノを通して揺れ動く感情、モノに対する感性など、つまりは日本人の精神性を物語っているのが『古事記』だと感じました。

精神性を中心にまとめられているからこそ、天皇を中心とした国家統一を図りたい時の政府にとっては『日本書紀』の方が重要で、だから『古事記』は後手に回ってしまったのかもしれないと思ったんです。

日本をこよなく愛したフランスの人類学者レヴィ=ストロースは、書籍『月の裏側 日本文化への視角』の中で、日本の神話についてこのように語っています。

「『古事記』とエジプトの物語は、神話ではない。名がわかっているか、いないかの違いはあっても、一人の作者が神秘的な素材を、それぞれのやり方で作りかえた文学的創作だ」。そして、「『日本書紀』の編纂者たちは詩人であるよりは学者である」と。

レヴィ=ストロースの言う「『古事記』は文学的創作」という部分。文学的創作だから『古事記』はウソの物語である、ということではなく、文学的創作だからこそ、そこに日本人の精神性が描かれていると私は解釈しています。

ユング心理学を通して深層心理の世界を探究している私としては、『古事記』こそが「日本人とは何なのか」という、日本人の起源、そして日本人の精神性の起源を描いていると考えています。だから、『古事記』を日本人の心そのものとして読んでいったら、面白い発見があるのではないだろうか、もしかしたら自己分析の助けにもなるのではないだろうかと思ったんです。

また、私独自の視点で『古事記』を読んでいったら、「あれ?一般的に解釈されている『古事記』の内容とまったく違う世界観がここに描かれているぞ?」ということにも気づいたんです。

しかも、その世界観がとっても面白い!深読みしていくと、高天原は現代人が想像しているものとはまったく真逆の世界だったということがわかったり、インディアンたちの信仰に見られるようなトーテミズムが描かれていたり、日本語や漢字の成り立ちが絵画のように描かれていたり。さらには、昭和の歌謡曲がもつ精神性の起源を『古事記』のとある部分に見つけたりと、もう面白いのなんって!

さらにさらに、深層心理学の知見も合わせてみていくと、『古事記』には日本人の精神性の起源が描かれているだけでなく、宇宙に対する考え方、そして命に対する考え方も古代人と現代人とではまったく異なっているということもわかりました。

だから、この面白い発見をみなさんにお伝えせねばと強く思い、新シリーズとして「仮説を大いに楽しむ♪新解釈『古事記』」をやっていこうと思った次第であります。

神話の解釈の仕方について

物理的事実は追い求めないこと

チェックリスト

神話にはいろんな解釈がありますが、結局のところ、人はそれが真実なのかどうか、正解なのか、間違っているのか、ということばかりを考えているように感じます。

『古事記』や『日本書紀』も各地方にある風土記などをベースにまとめられているようなので、「風土記の内容の方が正しい」とか「うちの県が神話の発祥地なんだ」とか「天皇を中心とした国にするために、時の政府が作ったウソの歴史書なんだ」とか、さまざまな声を耳にします。

こういったことに関して、私は「昔のことに対していくら真実を求めても、それは永遠にわからない」と思っています。神代の時代ならなおさらです。

ユング心理学では、神話の時代は人類の意識が未だ宇宙的な母と一体化している時代であり、それは人類が無意識の世界を生きていた時代だと話します。

無意識の世界というのは、お母さんのお腹の中にいる胎児の意識や、お母さんの保護下にある乳児の意識状態に似ています。また、私たちが睡眠中に見る夢の世界も無意識の世界です。

そういった世界が神代だからこそ、神話に物理的な真実を求めても何もわからないと思います。

私は大河ドラマが好きで毎週見ているんですが、そのドラマに求めるものというのは、ある程度事実に即した時代背景だけで、一番に求めていることは、歴史と自分を紐づけて、そこから自分がどんな学びを得られるのかということです。

神話の解釈もこれと同じで良いと思います。人はどうしても因果関係に沿った論理的で実証可能な物理的事実を求めがちですが、それは繰り返しになりますが、神話では実証不可能です。

ですが、神話において唯一検証可能なことは、私たちの中に普遍的に存在している心的パターン、そして日本人としての精神性、いえ、もっと言えば日本語の精神です。それらは今も昔も変わることなく脈々と受け継がれているので、今の私たちに紐づけて神話を見ていくことで、そこから大きな学びを得ることができると私は思うんです。

『古事記』はまさに、その日本人の精神性の起源を描いていると私は感じています。

だから私は、神話に物理的な事実を求めるのではなく、「自分の中に脈々と受け継がれている精神性の方を見ていこうよ」と提案したいです。そこにこそ、神話が伝えようとしている真実があるからです。

世界の神話と照らし合わせること

勉強

神話に対して、日本国内で「あれが正しい」「これは間違い」と言っていても仕方がない別の理由として、神話は日本だけでなく、世界各地にもあって、面白いことに、日本から遠く離れた地域の神話の中に、『古事記』との共通点を多々見つけることができるからです。

ですから、神話は国内の視点だけで見るのではなく、世界全体を視野に入れた俯瞰した視点で見ないといけないんですね。その俯瞰した視点で神話を捉えたとき、各国の神話に描かれている内容は、その国の人たちの精神性、そして文化の起源だということがわかってきます。

神話は決して、宇宙が、世界が、どこを発祥にして生まれたのか、人類や文明の起源はどこなのか、どこの国が一番古くて偉いのか、ということを語ってはいません。それぞれの民族の精神性、そして文化の起源をそれぞれが独自の言葉で語っているだけです。

レヴィ=ストロースは言います。「神話は別の神話によってのみ翻訳されうるものであり、けっして科学的公式で表現されるものではない」と。だから、日本神話も本来は、諸外国の神話と見比べながら翻訳していかないといけないんですね。

そして、神話を本当の意味で理解していくためには、日本人そのものに興味を持つ必要があるということ。国ではなく、人に興味を持つということ。

もっと言えば、自分自身に興味をもって、自分を掘り下げていく必要があるということ。それによって、ようやく神話が言わんとすること、神話が持つ役割を理解できると思います。

『古事記』が1000年間封印されていたわけ

イザナギとイザナミ

最後に、本居宣長が登場するまでの約1000年間、『古事記』が表舞台から姿を消していたことについて、これはもしかしたら『古事記』内であらかじめ予言されていたのでは?ということをお話して、今日のお話を終わりたいと思います。

黄泉の国において、醜女と化したイザナミから逃れるために、イザナギが千引石ちびきいわという、千人の力でようやく動かせるような重い岩で黄泉平坂を塞いだというシーンがあります。それがきっかけで、イザナギとイザナミは離別することになりますが、黄泉の国というのは死者の国のことです。

死者の国というのは、私たちの深層心理の世界でもあり、そこは私たちの集合的無意識の世界です。説明の便宜上、そこを一括りに無意識の世界と表現すると、死者の国もじつは無意識の世界だということになります。

その世界は、私たちの精神性やあらゆる記憶、感情の源泉の世界でもあります。私はこの世界を女性原理の世界と表現しています。この文脈でいえば、それはイザナミの世界だと言えます。

その世界が千引石で閉ざされてしまったからこそ、『古事記』は約1000年もの間、日の光を浴びなかったのではないだろうかと思うんです。そのシーンが語っていることは、女性原理の忘却であり、人間が物質性へと傾いていくことを予言したものなのかもしれないなと思うんです。

そして、そこにもう一度光を当てたのが本居宣長。

その千引石を取り除くべきかどうかは私にはわかりませんが(なぜなら、岩を取り除いたら、無意識領域からいろんなものが出てくる可能性があるからです)、でもその世界と向き合っていくという姿勢は必要だと思います。なぜなら、そこには母であるイザナミがいて、イザナミの影響は未だ私たち日本人の自我性に影響を与えているからです。

『古事記』を新解釈していくことで、私たち日本人の自我性の特徴、そして精神性の起源を知ることができます。それはひるがえって、自分自身を深く知っていくことにも繋がります。さらに、そこから新しい宇宙観も見えてくるようになると思います。

今後お話していくことは、あくまでも「『古事記』をこのように解釈してみたら、こういう新しい世界が見えてきたよ」という私なりの仮説なので、それはみなさんに強制するものではありません。このシリーズは仮説を大いに楽しむことをモットーとしています。なので、「そういうこともあるかもね~」と、気軽な気持ちで楽しみながら聞いていただけると嬉しいです。

というわけで、今日は新シリーズ「仮説を大いに楽しむ♪新解釈『古事記』」を始める前の、決意表明についてのお話でした。次回は、『古事記』と『日本書紀』の違いについてお話したいと思います。

natan
natan

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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