私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、明治以降の性観念についてお話します。
▼ 参考文献 ▼
明治に輸入された「純血」と「愛」
1868年、徳川の世が終わり、明治時代となりました。
そのときに、長く禁圧されてきたキリスト教が容認されて、日本には知られていなかった「純潔」や「愛」という概念が紹介されました。
しかし、当然のことながら、当時の日本人には理解不可能な概念でした。
極めて少数のキリスト教系文化人たちによって、また国外から布教にきたキリスト教団の伝道の一環として、さらにまた文学として、純潔や愛が「新しい男女関係の理想」としてうたわれたにすぎません。
こうした新しい性愛の観念を受け入れたのは、ごく一部の若い世代だったと考えてよいでしょう。
明治政府による性の禁圧
明治新政府は、幕末に締結してしまった治外法権の容認と、関税自主権の喪失という不平等条約の撤回のため、近代国家として欧米諸国に認めてもらおうと、西洋法・西洋制度をとにかく受け入れることになります。
それら西洋法・西洋制度は避けようがなく、キリスト教道徳を下敷きにしていましたが、重要なのは、この時期すなわち1870年代には、欧州における性道徳がもっとも厳しくなっていた時期だったということです。
こうした状況を背景として、明治新政府は輸出品の包み紙として用いられたり、日本の土産品として欧州に出回っていた性的な浮世絵版画を国の恥だと認識し、国内において厳しく禁圧しました。
また、国内に広く存在していた性器を象った信仰対象物を破壊・没収し、性を内容として取り込んでいたさまざまな儀式や祭礼を禁止しました。
このときに用いられたのが、日本最初の軽犯罪取り締まり規定である「違式詿違(いしきかい)」です。
この規定は、まず外国人居留地の周辺から適用が開始され、外国人がより広く国内を移動できるように法律が緩和されると、そのたびに適用範囲が拡大されるという性質のものでした。
そのため、現在まで続くわいせつ物を取り締まる規定の本来の目的は、
外国人たちの視線から、伝統的な日本の性文化を隠蔽すること
にありました。
当時の日本人たちには、性が害悪だなんて発想はまったく一般化していなかったので、これは当然のことです。
西洋の「性の二重規範」を知らない明治政府
一方、日本の近代化・西洋化を推進するために、欧米に派遣され、事情を見聞してきた明治政府の高官たちは、西洋社会の「上品」な上層階級と交際をしてきたはずです。
そのため、現実の西洋には存在していたはずの性道徳に関する二重基準、すなわち表の上品さと実際の退廃、上層階級の建前と本音の存在を知らなかったものと推測してよいでしょう。
彼らが街で庶民とふれあいの機会を持ち、そうした庶民の性文化について知ることができたとしても、彼らを指導する立場にあった権威ある地位の西洋人たちが、それら庶民の性文化を「下品である」「わいせつである」と避難したことは想像に難くありません。
次回はこの明治新政府によって、どのように一般層にまで西洋道徳が人々の暮らしに浸透していったのかについてお話します。
次回もお楽しみに♪