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【ろじろじラジオ】第7回放送★女性哲学者が考える「善と悪」~池田晶子&ハンナ・アーレント~

善と悪アイキャッチ Youtube
natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第7回放送時のトーク内容全文をご紹介します。

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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

前回は「善と悪」に関する私の意見をお話しました。今日は、哲学者は「善と悪」をどう考えているのか、についてお話したいと思います。

哲学者①池田晶子の善悪に対する見解

神戸連続児童殺傷事件について

人間はみな善を求めると言えども、やはり、人類の歴史ではどう考えても不可解な凶悪犯罪はときどき起こります。これをどう捉えればいいのでしょうか?

私は池田晶子さんという哲学者(文筆家)が好きで、何冊も彼女の本を読んできました。彼女は美しい言葉で哲学を語り、またそれは日常的な言葉を使っているので、とても女性的で心にスッと入ってくる言葉ばかりです。いつか池田晶子さんの哲学や本についても、当チャンネルで語っていきたいと思っています。

池田晶子
池田晶子

池田さんの書籍『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』(トランスビュー出版)の中で、1997年(平成9年)に起こった神戸連続児童殺傷事件について触れている部分があります。

酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る犯人(少年A)について、池田さんは見解を述べています。当時、心理学者や精神分析家など、いろいろな専門家の人たちが、少年Aがなぜあのような事件を起こしたのかについて、心理の面から分析をしていました。

しかし、池田さんは心理の面ではなく、その起こった出来事を型から分析をしています。

まず池田さんは、精神科医の柴田二郎さんの見解を引用しています。

あの子は、我々とは別の世界に生きている人間だから、更生するということはまずあり得ない。更生すると言うのは自由だが、そう言う人は、あの子を引き取っていただきたい。

精神科医 柴田二郎さん『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』より

また、女性霊能力者の「あの少年には悪霊がついている」という見解も引用しています。池田さんとしては「悪霊」という言葉の意味は正直よくわからないけれど、「悪霊がついている」と語ったその女性霊能力者の感性は信頼に値する、というような見解を述べていました。

natan
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私はここを読んで、へー意外だなと思いました。

池田さんは上記を引用後、このように語っています。

人間の形が同じでも、人間の中身が同じとは限らない。この世界には、時々、この世界の人間ではない人間がいる。別の世界の人間も存在しているのである。

少年Aの内面など探っても無駄であろう。なぜなら彼は、ある何かの型を直截(ちょくせつ)に生きているだけであって、そこにはいかなる内面も存在していないからだ。おそらく彼は、内面を供述せよ、という問いの意味さえよく解さないのではないか。

結論として、池田さんは少年Aのような存在を、「鬼」と表現しています。

少年Aは自分が悪いことをしているとわかっているのに、それでも行為に及んだ理由は、「快楽」を求めたからです。善悪がない、と言いますか、善悪とは無縁の領域に存在している。それはもう人間ではなく、「鬼」と表現する以外ない、人間とは別の世界に存在していると言える、とをおっしゃっていました。

池田さんの善悪についての見解は下記の通りです。

おそらく、宇宙は善の極と悪の極の二極から成る。歴史、すなわち魂の群れの移動は、善の極と悪の極の間を大きく振れ繰り返しながら、しかし、螺旋状に上昇して、最終的には善を目指す。善を善と知っていて、それを欲しないということはないからである。善を善と知っているというそのことが善、したがって努力するということであり、善を善と知らないというそのことが悪、したがって堕落するということである。

そして、少年Aについての見解は下記の通りです。

ところで、善とも悪とも無縁のために、「堕落した」というのとも違う奇態な魂が、この宇宙には時折出現する。それは、善なる魂、悪なる魂、渾然(こんぜん)とうごめいているそこへ、忽然と現れて、そのさなかを横断し、衝突し、深い傷を与え、また忽然と姿を消す。善とも悪とも無縁のために、善と悪との深淵(しんえん)を、自身を求めて永劫の時間さまよわなければならないあの少年のような魂は、私にはとても哀れに見える。

natan
natan

こういうのって何と言うんでしょうか…。

宇宙をさまよう小惑星みたいなものとして、私はイメージしました。

池田さんはこの本では魂をテーマに語られています。そのため、魂というものの存在を考えたとき、それは一つの宇宙であって、宇宙の正解を人間は誰も知り得ないのだから、心理や内面といったような人間の視点で語ることはできない、だから型として語るという、哲学者としての高次の視点、形而上的な視点で語っていらっしゃいます。

「性善説」と「性悪説」について

人間の基本的な性質に対して、「性善説」「性悪説」という二つの言葉があります。

  • 性善説:人間の本性は基本的に善であるという考え(儒学者の孟子が唱えた)
  • 性悪説:人間は生まれつき誤った道に進みかねない欲望を持っているが、それは教育によってコントロールできるという考え(儒学者の荀子が唱えた)
孟子と荀子

「性善説」と「性悪説」という言葉の印象だけを考えると、人間はもともと善である、人間はもともと悪である、といったような短絡的な印象で捉えてしまいがちです。しかし思想の内容は、それぞれ別の方向からのスタートではありますが、目指すゴールはお互いに「善」です。

まさに池田さんの見解と同じで、荀子と池田さんの考え、両者に共通している点が「善を求めて努力する」ということです。

この「努力」や「教育」は、ただやみくもに勉強をして、頭にいろんな情報を詰め込むということではなく、自らの力で考える、その力を育むことが正しい教育で、善へ向けた正しい努力だと私は思います。この自らの力で考えるということが、哲学において一番大切なことです。

哲学者②ハンナ・アーレントの善悪に対する見解

アドルフ・アイヒマンについて

池田さんの「善を善と知らないというそのことが悪、したがって堕落するということ」という言葉を通して、ふと思い浮かんだものがあります。それは第二次世界大戦時、ナチスドイツにおけるユダヤ人絶滅計画の実行責任者であったアドルフ・アイヒマンという人物です。

アイヒマン

戦後、逃亡先のアルゼンチンで捕まり、イスラエルのエルサレムで「アイヒマン裁判」というものが行われました。その裁判を傍聴し、アイヒマンについての見解を本にまとめたハンナ・アーレントという女性哲学者がいます。

ハンナ・アーレント
ハンナ・アーレント

ハンナ・アーレントもじつはユダヤ人です。彼女は裁判が始まる前まで、アイヒマンは極悪非道の人間だと予想していました。なぜなら、何百万人というユダヤ人を収容所に送ったからです。

しかし、裁判を傍聴して、彼女はこう思ったそうです。「彼は極悪人ではなかった。ごく普通の人間だった。ただ彼はまったくの無思想の人だった。」

アイヒマンは自分で考えることをせず、ヒトラーという人物を法律と見て、その法に服従した。ハンナ・アーレントはこれを「凡庸な悪」と呼びました。だから第二次世界大戦において、あの時代の最大の犯罪者にアイヒマンはなった、とハンナ・アーレントは述べています。

「凡庸な悪」とは、ナチスによるユダヤ人迫害のような悪は、根源的・悪魔的なものではなく、思考や判断を停止し外的規範(法律)に服従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させる可能性があるという考え方。

したがって彼女の見解としては、「悪」は善の対極にあるものというよりは、哲学的に思考をやめた人が陥るもの、ということです。それは、自分で物事を考えなかった人や、自分が本当はどう思っているのかというような自分自身について考えてこなかった人が陥るのが悪だということです。

まとめ

今日の内容をまとめます。

善とは自分で物事をしっかり考えることで見いだせるものだが、固定的な善悪観念は自ら考えることを放棄しているので、悪に転じやすい。アイヒマンは自分がやったことを悪だと思ってもいない。

「善と悪」が外側の世界にもともと存在しているのではなくて、「善と悪」は自分の内側にしかない。自分の内側の善悪観念に気づくことで、日常の些細な問題も問題として捉えなくなったり、世界を見る目、そして人間という存在を見る目も変わってきたりするのではないかなと思います。

このお話が、みなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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