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古事記☆新解釈【18】イザナミの厳しいお叱り!「人の振り見て我が振り直せ!」/黄泉の国③

古事記☆新解釈「黄泉の国③」アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

今回は、黄泉の国第三回目、イザナキとイザナミがいよいよお別れをするシーンについてのお話です。

まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。

原文/読み下し文/現代語訳

古事記「黄泉の国③-1」(原文/読み下し文/現代語訳)

最後其妹伊邪那美命 身自追来焉
尒千引石引塞其黄泉比良坂 其石置中 各對立而 度事戸之時 伊邪那美命言 愛我那勢命 為如此者 汝國之人草 一日絞殺千頭
尒伊邪那岐命詔 愛我那迩妹命 汝為然者 吾一日立千五百産屋
是以一日必千人死 一日必千五百人生也

最後いやはてにそのいも伊邪那美命、身自みづから追ひ来たりき。しかして引石びきいはをその黄泉ひら坂に引きへ、その石を中に置き、おのおのむかひ立ちて、ことわたす時、伊邪那美命言ひしく、「うつくしきなせのみこと、かくば、いましの國の人草ひとくさひとがしらくびり殺さむ」といひき。尒して伊邪那岐命りたまひしく、「愛しき我がなにのみこといまししかば、あれは一日に千五百ちいほの産屋を立てむ」とのりたまひき。これをもちて一日に必ずたり死に、一日に必ず千五百ちいほたり生まるるなり。

古事記「黄泉の国③-2」(原文/読み下し文/現代語訳)

最後に伊邪那美命自らが追ってきた。そうして(伊邪那岐命は)千人もかかって引くほどの巨大な岩を黄泉比良坂の中央に置き、各々は向かい合った。伊邪那美命は「愛しい我が夫よ、あなたが私にこのようなことをするのなら、あなたの国の人たちを一日に千人首を絞めて殺しましょう」と言い、それを受けて伊邪那岐命は「愛しい我が妻よ、お前がそのようにするのなら、私は一日に千五百の産屋を建てよう」と仰って、誓約を交わした。こういうわけで、一日に必ず千人死に、千五百人が生まれるのである。

これが今日取り上げるシーンです。それでは解説を始めます。

解説

黄泉比良坂を塞いだ背景

岩

ヨモツシコメ、雷神、そして最後にイザナミ自身が追ってきたため、イザナキは黄泉比良坂の真ん中に巨大な岩を置いて、道を塞ぎました。

黄泉の国は死者の国で、とても恐ろしい世界だという解釈でこの部分を読めば、「イザナキよくやった!邪悪なものを閉じ込めたぞ!」と誰しもが思うかもしれません。ですが、前回もお話したように、黄泉の国はイザナキの欲望を映した鏡の世界なので、それを知った上でこのシーンを読むと、また違った読み方ができるんですね。それは、イザナキは自身の欲望の世界との通路を絶ち切ったという見方です。

イザナキは喉から手が出るほどイザナミが欲しかったんです。どんなことをしてでも彼女を取り返したかった。その思いをイザナキが絶ち切ったということは、彼は黄泉の国での恐ろしい姿のイザナミ、そして追ってきた雷神やヨモツシコメは自分自身だったということを自覚したから、こういう行動を取ったのだと思います。

たしかにこのシーンは、邪悪なものを黄泉の国に閉じ込めたと読めるのですが、それは正しい読み方ではないと私は思います。正しくは、イザナキが自分自身の心の貧しさに気づき、欲望とはあれだけ恐ろしいものなのだということを身をもって知った。だから、己の弱さと決別しようと決めて岩を置いて道を塞いだ。そのように読むのが心の話としての「心話」の正しい読み方だと私は思います。

「事戸を度す」とは

そういった頭で物語を読み進めていくと、イザナミとイザナキのやり取りに関しても違った見方が生まれてきます。

イザナミは「あなたが私にこのようなことをするのなら、私はあなたの国の人を毎日千人首を絞めて殺しましょう」と言い、イザナキは「それなら、私は毎日千五百の産屋を建てよう」と言い、その結果、人は毎日千人死に、そして千五百人生まれるようになったと言われています。

これをもってイザナキとイザナミは離別することになりますが、ここでちょっと大事な話を一つ。私は、このシーンを読んだとき、ふとある疑問が浮かんだんです。それは、二神は別れを告げていないということ。『古事記』解説書によると、「事戸を度す」とは「離別を言い渡すこと」と解説されているのですが、結果的に二神は離別したとしても、離別を言い渡してはいないと思うんですね。

「事戸を度す」は『日本書紀』では、「建絶妻之誓」と書かれていて、このことを「ことどをわたす」ということだと書かれています。この漢文をシンプルに読めば、「絶つ(つまり別れる、遠くにいってしまう)妻の誓いを申したてる」もしくは「妻の誓いをくつがえす(建てるはくつがえすとも読む)」と読むことができます。

物語を読んでもそうなっていますよね。「私は千人殺します」と言ったことを「私は千五百産もう」と言って覆している。ある意味これは、誓約を交わしているともいえます。別れは告げていないんです。これが生と死の起源であり、生死はお互いが誓い合うことで成立した。だから私は現代語訳で、「別れを告げる」ではなく「誓約を交わす」と訳しました。

事戸を度す

「どちらでもいいよ、結果的に二神は別れることになったのだから」と思われるかもしれませんが、このやり取りを「別れを告げる」ではなく「誓約を交わす」と読むことで、これが後のアマテラスとスサノヲのウケヒにも関わっているということが見えてきます。そして、ウケヒが何をやっているのか、何を意味するものなのかを考えるときの重要なヒントになると考えます。

natan
natan

些細なことではありますが、原文から読むことの大切さを知れる重要な場面なので、あえて細かく触れてみました。

首を絞めて殺す理由

さて、イザナミは首を絞めて殺すと宣言していますが、なぜ首を絞めて殺すのでしょうか?殺し方にはいろいろな方法があるはずです。なのに、なぜ首?

その理由は、イザナキがカグツチの首を斬って殺したからだと思います。じつは、カグツチ殺害から黄泉の国の話はずっと繋がっていて、しかも首をテーマにこの話は続いているんですね。

カグツチを生んだことで死んでしまったイザナミ。イザナミを失った悲しさから、我が子を殺したイザナキ。彼は喉から手が出るほどイザナミを欲した。そして、彼は真っ黒な心を持ったまま黄泉の国にやってきた。そこは、イザナキの欲望を映す鏡的世界でもあった。

そういった背景がある中でイザナミが言った「首を絞めて殺す」というのは、すべての元凶はイザナキのカグツチ殺害にあること、喉から手が出るほど私を欲し、どんなことをしてでも私を取り返そうとすること、私との約束さえ守らないこと、あなたの鏡であるこの私を醜い姿に変えてしまったこと。だから、「あなたがやったことを、私もあなたの鏡として同じことをしますよ!それでいいのですか!?」という、イザナキに対する厳しい叱責なのだと私は思うんです。

私はさっき、イザナキは己の弱さを自覚して、それと決別するために黄泉比良坂に岩を置いたと言いましたが、この場面ではイザナミがイザナキに対して、「自分の振る舞いをよく見なさい」「自覚しなさい」と言っていると読めます。「古事記は物事の両面を語る」というルールが適応されてのことだと思われます。

ですから、この場面を通して見えてくる『古事記』が黄泉の国に込めたメッセージというのは、一言で言えば「人の振り見て我が振り直せ」ということだと私は考えています。

産屋の象徴的意味

小屋

さて、イザナミの言葉に対し、イザナキは「お前がそうするのなら、私は千五百の産屋を建てよう」と応えます。これは「子を産む」という意味ではありますが、もう一つ、産屋は象徴的表現でもあると考えます。

産屋は出産の際に女性が入る小屋なので、外部環境から女性を切り離す形になります。『古事記』で描かれる女性とは、心そのもののことを象徴していると私は考えていて、原初の心というのは、カオスと連続性の中にあったと考えます。

ですから、「産屋を建てる」というのは、壁で仕切ることでもあり、それはつまりカオスと連続性の中にある心に境界線を引くことを意味した表現だと私は考えています。もっとわかりやすい言葉で言えば、心にけじめをつけること、物事に分別をつけることだと言えます。

イザナキはイザナミから「黄泉神に私の考えを伝えてくるから、待っていてください。その間、私を見ないでくださいね」と言われていたのに、イザナミの帰りが待てなくて、御殿の中を覗いてしまいました。この行動には、イザナキの精神的な幼さが描かれていると思います。約束を守れないというのは、心がまだ連続的な世界にあるということ、無意識の惰性に打ち勝つ強さを持っていないということを証明しています。

だから、心にけじめをつけようと決めた。物事に分別をつけ、感情的に行動しないようにしようと決心した。そのことを「産屋を建てる」と表現したのだと私は思います。また、産屋は女性を守る空間でもあるので、心に正しく境界線を引きつつ、その境界内にある領域をしっかりと守っていこう、育んでいこうということも含まれていると思います。

黄泉比良坂に岩を置いて道を塞いだことは、イザナキにとっては初めて心にけじめをつけた瞬間だと思います。でも、そのためにイザナキは愛する妻に会えなくなるという、大きな代償を払うことになりました。心にけじめをつけるときというのは、本当に苦しいですよね。手放さなければいけないものが必ずあるからです。それは、ときに愛おしい人の場合もあります。イザナキにとっては大きな決断だったと思います。

イザナキは黄泉比良坂を巨大な岩で塞ぎましたが、これは決して、欲望だらけの心、傷ついた心をほったらかしにしたということではないと思います。苦しいけれど、心にけじめをつけたということだと思います。

そして、強い心を持つために、今度はイザナキの子どもたちが彼の代わりに活動していくことになります。心を強く育てていくことは、一世代の力だけでは無理だからです。

人間世界だってそうですよね。乱世を平和な世にしようと、何世代もかけて人びとは努力してきたし、学問も何世代もかけて作り上げてきたし、病気を克服しようと何千年もかけて人類は取り組んできた。だから、何かを変えるときは、全体の力が必要になるんですね。生と死を何度も何度も繰り返しながら…。「雨垂れ石を穿つ」その日まで…。

というわけで、今日は黄泉の国第三回目のお話でした。次回は、イザナミが名を改めて黄泉津大神になったこと、そして首をキーワードに黄泉の国を改めて考察し直してみたら見えてきた、黄泉の国の場所についてのお話をしたいと思います。次回もお楽しみに♪

natan
natan

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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