本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回は、神生み第一弾についてお話をしました。今日は、神生み第二弾についてのお話です。
まずはいつものように、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。それでは始めます。
原文/読み下し文/現代語訳
次生神名 鳥之石楠船神 亦名謂天鳥船
次生大宜都比賣神
次生火之夜藝速男神 亦名謂火之炫毘古神 亦名謂火之迦具土神
因生此子 美蕃登見炙而病臥在
次に生める神の名は、鳥の石楠船神、またの名は天鳥船と謂ふ。次におほげつひめ神を生みき。次に火のやぎ速男神を生みき。またの名は火の炫毘古神と謂ひ、またの名は火のかぐ土神と謂ふ。この子を生みしによりて、みほと炙かえて病み臥せり。
次に生んだ神の名は、鳥の石楠船神、またの名は天鳥船と言う。次に大宜都比売神を生んだ。次に火の夜藝速男神を生み、またの名は火の炫毘古神と言い、またの名は火の迦具土神と言う。この子を生んだことが原因で、伊邪那美命は陰が焼けて病み臥せってしまった。
これが今日取り上げるシーンです。「ほと」は女性器のことです。さて、いつものように生まれた神々を整理していきましょう。
解説
神々の整理
このシーンで最初に誕生するのが、鳥の石楠船神、別名天鳥船です。この神は、「鳥のように天空や海上を行き交う楠製の船である」と言われています。つまり、船の神様ということですね。
そして、次に誕生するのが大宜都比売神。この神は食物を掌る女神です。
三番目に誕生するのが火の神。火の夜藝速男神、火の炫毘古神、火の迦具土神という三つの名前を持つ神様です。火の夜藝速男神からは勢いよく燃え上がる炎、火の炫毘古神からはかがり火のような明るさを感じます。火の迦具土神については、後ほど触れますね。
一般的にこのシーンは、イザナミのホトが焼けて、病み臥せってしまうことが印象的なので、それをもたらしたカグツチに焦点が当たりやすいシーンだと思います。しかし、今回私が注目したいのは、カグツチではなく、鳥の石楠船神、天鳥船です。
なぜこの神に注目するのかというと、この神の出現がイザナキとイザナミの運命を大きく変えたと思うからです。それはどういうことなのか、詳しくお話しますね。
天鳥船は本当に船なのか?
まず、天鳥船は船の神様で、船は太陽神と深い関わりを持っていると言われています。エジプト神話にも描かれるように、「太陽神は船に乗っている」という言い伝えがあるからです。
『古事記』においても、国譲りの交渉をするときに、高天原からの使いである建御雷神が天鳥船と一緒に葦原中国にやってくるので、それは船に乗ってやってきたと読めることから、鳥の石楠船神(天鳥船)はそのまま船の神様だという解釈になったのだと思われます。
でも、私は「天鳥船は本当に船の神様なのか?」と疑問に思うんです。なぜなら、『古事記』の世界観、そして物語の連関性で考えると、現時点で天鳥船を「船」と解釈するのは、先走っているような気がするからです。というのも、『古事記』において神々は独立して誕生するのではなく、前後において関連性を持って誕生するからです。このシーンで言えば、天鳥船は、次に生まれるオホゲツヒメ、そしてカグツチとも関連性を持っているはずだからです。
オホゲツヒメは食物神、カグツチは火の神です。この二柱の神の関連性を考えたとき、食べ物に火を通している様子が見えてきませんか?カグツチの燃え上がる炎によって、その上にあるオホゲツヒメが象徴する食物が煮炊きされている、というイメージが湧いてきませんか?
そういった頭で改めて天鳥船を考えてみると、この神を船と捉えるのは、『古事記』の文脈においてはちょっと違うのではないかなと私は思うんです。少なからず船の要素はあると思いますが、もっと船を象徴的に捉えた方がいいと思うんです。
オホゲツヒメとカグツチとの関連性で考えたとき、船ではなく、食物を入れる「容器」として考えてみるとしっくりきますね。実際、船は容器のことだと解説されていたりもするからです。でも、『古事記』の文脈を考えると、容器の他に、さらにもう一つ別の見方もプラスした方が良いかもしれないなと私は思うんです。では、天鳥船の容器以外の見方とは一体何なのでしょうか?
天鳥船は火起こし器
結論からお話すると、私の答えは、ずばり、天鳥船は、船ではなく、火きりをするための道具、火起こしの道具です。「火きり」とは、乾燥したヒノキなどの木口に棒をあて、激しくもんで火を出すことを意味します。
これは、「まいぎり式火起こし器」と呼ばれるもので、この形が帆を張った船に見えるから、船という字を当てたのだと思うんです。この手法は、以前「『古事記』の読み方とその特徴」の回でもお話したように、人類学者レヴィ=ストロースが言った「ブリコラージュ」そのものだと思います。
ブリコラージュとは、ありあわせの材料を組み合わせて、別の何かを作ること、別の何かを表現することを意味する言葉です。『古事記』はこの手法を用いていると考えられます。
『古事記』の新しいルールの発見
火起こし器の素材は木です。その木は、前回の神生みで誕生した、木の神である久久能智神から生じたものかもしれません。そう思ったとき、私は、ここで新しい『古事記』のルールを発見しました。それは、前回出現した神々の要素が、次の場面では違った形で継承されているというもの。
たとえば、火を起こすときに用いる火種は、綿状の繊維くずなどですが、その「綿」の要素は、前回出現した大綿津見神が名前に持っています。
また、天鳥船は火おこし器以外に容器の性質も持っているとお話しましたが、容器、そして煮炊きされる食べ物を思い浮かべたとき、そこから土器がイメージされました。その土器に繋がる要素は、前回、大山津見神と野椎神の二柱の神が持ち別けて生んだ、狭土神らが関係しているのかもしれません。
なぜなら、狭土神は土で挟むことを象徴した神様で、前回この神に渓谷、谷の要素を感じ取ったわけですが、今回のシーンでは土で空間を挟むこと、それは粘土で空間を覆うことであり、つまりそこから土器が誕生していると思ったからです。
さらに言えば、狭霧神は土器内に立ち込める湯気、闇戸神は土器の中の暗さ、大戸惑子・惑女神らは食物がまとうお湯だったり、もしくは食物が土器そのものをまとっているとも読めます。
だから、今回の神生みは、前回の神々の要素を違った形で継承しているようです。しかも、前回は水に関する神々が登場し、今回は火に関する神々が登場しています。地面に落下する水、地面から上昇する火、水と火は対立関係にあるといったことから、前回と今回とでは場面の性質が反転していることもわかりました。
以上のことから、私は、前回出現した神々はその性質を反転させて、次のストーリーに関与してくるというルールが『古事記』にはあると考えました。
そういうわけで、お話を天鳥船に戻しますと、天鳥船を火おこしの道具、または土器として捉えてみたとき、オホゲツヒメとカグツチ、この三柱の神が象徴していることは「料理」だと考えます。火を起こして煮炊きをする。これでストーリーがスッキリ整理できます。
私の妄想話
すべての神々が火起こし器になった説
私はこのような結論に至ったとき、「天鳥船は火起こしの神様だったんだな。よしよし、じゃあこのシーンはそういう解釈で、次のシーンを考えていこうかな…」と思って、最後にまた何となくボーっと火起こし器の画像を見ていたんです。そうしたらドカーンと衝撃が走りました。「いやいやいや!ちょっと待て!ちょっと待て!なんかすごいこと見つけちゃったぞ!」って。
何を見つけたかというと、ここからはあくまでも私の妄想話として聞いてください。恥を覚悟でお話します(笑)
私は、火おこし器の中に、天の御柱と八尋殿を見つけたんです。それだけでなく、これまで生んだ島々と神々もすべて含んだ形で、この火起こし器が生まれているとも思ったんです。
この道具の太い円柱、これが天の御柱、土台が八尋殿。そして、島生みロードマップ全体が火ひき臼で、五番目に登場した島、伊岐島の別名が天ひとつ柱。これが天の御柱の中央を突き抜ける棒、もしくはその棒が当たる土台の穴のことなのかなと。
この道具は、縦棒に紐を巻きつけてから、横棒を上下に動かすことで縦棒が回転し、火きり臼に摩擦熱が発生して火を起こすことができるというものです。その棒の回転する動きは、イザナキとイザナミが天の御柱を往復する様子と似ているなと思いました。
また、前回生まれた神々も、持ち別けて生まれた形が、火きりぎねを構成しているように見えるんですね。火おこし器にはいろんな形状があるのですが、一つはこのまいぎり式で、水の神々が反転して火きりぎねを構成しているように見えるんです。
「河と海に持ち別けて」生んだ神々を横一列に並べなおしてみると、そこが持ち手の部分になっている。前回の解説で私は、右側に掲載しているように、「河と海に持ち別けて」生んだ神々は雨や神々の涙を象徴していると考え、それら神々を下方向に配列したわけですが、火きりぎねの持ち手と配置は違えど、本質は同じだと思っています。地上から水蒸気が上がって雲になり、そして雨になってまた大地や海に戻るという水の循環性を、持ち手の上下の動きが象徴的に語っていると思うからです。
だいぶ苦しい説明ではありますが、妄想話ですからね(笑)私はそう感じたという話です。
また、縦棒と持ち手の横棒が交差する部分は、神々の配列で見てみると、そこには風木津別の忍男神がいて、風木津別の「もつ」を持ち手として捉えてみると、「ああ、たしかに風木津別の忍男神の位置から持ち手の横棒が左右に分かれて出ているなあ。また、名前が忍男だから、棒の縦と横の交差部分には少なからず摩擦熱が発生するだろうから、板挟みに合う感じ。忍耐が必要そうだから忍男という名前なのかな」と思いました。またもや神の気持ちになって考えてみました(笑)
また、もう一つの火おこし器は弓ぎり式。これはまいぎり式と違って、横棒を左右に動かすのですが、その横棒が「山野によりて持ち別けて」生んだ神々っぽいなと感じました。
まず、風木津別の忍男神を引き継いでいそうな風の神と木の神。そして風は横方向に吹き、木も横方向に繁殖していく。そのことを横棒が左右に動く様子が象徴している、みたいな感じ。私は前回、谷をイメージして神々の配列を湾曲させたわけですが、今回それが見事に弓の形になって、嬉しくて一人ではしゃぎました(笑)
あ、でも、この話は真剣に捉えないでくださいね!何度も言うようですが、あくまでも妄想話なので。でも、妄想から新しい発見って生まれると思うし、私は学者でもなんでもないので、失うものは何もない!ということで、恥を覚悟でお話しています(笑)
神々がモノに姿を変えた要因~二つの仮説~
仮説①天の御柱を巡る回転スピードが上がったから説
そんなこんなで、このような妄想を思いついたとき、一つ疑問が湧きました。なぜここにきて急に火おこし器が出現したのだろう、なぜモノが出現したのだろうと。妄想だろうがなんだろうが、私にとっては大切な仮説なので、これについてもしっかり考えました。その結果、私は二つの仮説を思いつきました。
一つ目の仮説は、もしかしたら、天の御柱を廻るときの回転スピードが上がったからモノが出現したのでは?ということ。なぜそう思ったかというと、回転が速くなることは、モノの粒子が持つエネルギーの振動数が上がることと似ていると感じたからです。
たとえば水は、個体、液体、気体に変化するわけですが、それは水の粒子が持つエネルギーの振動数が変化するからです。熱を加えるとエネルギーの振動数が上がって、水は沸騰し気体へと変わります。そのエネルギー変化、水の変化が、前回生まれた水の神々に象徴的に描かれていると気づいたんです。原始の地球において、熱せられた大地から水蒸気が上がり、それが雲になって雨が降り、海となる。
それと似た感じで、今回は、島生みそして神生みに至るまで、少しずつイザナキとイザナミの御柱を廻る回転スピードが上がっていったのかもしれないなと。それによって、これまでに出現した全ての存在がモノに姿を変えて、火起こし器を出現させた可能性があるなと思ったんです。
仮説②自然の形状がモノの形状として引き継がれている
二つ目の仮説は、自然の形状がモノの形状として引き継がれているのかもしれないということ。
どういうことかというと、前回は川や海、山や野原など自然を象徴する神々が登場したわけですが、たとえば、山は三角のカタチをしていて、野原は横方向に広がるので横に一本線、滝は山から垂直に流れ落ちてくるので縦の一本線といったように(これ今テキトーに話してます)、自然の形状がモノの形状になっている、もしくは、自然の形状がモノの設計図になっているのかもしれないということ。
すごく変な話に聞こえるかもしれませんが、今後の話の中でも、こういったことが『古事記』内で描かれているんですよね。たとえば、川と刀もそうです。『古事記』では、川が出てくるシーンには、結構な確率で刀が出てくるんです。スサノヲがヤマタノオロチ退治をする場面が一番有名ですよね。そこでは出雲国の肥の川、そして十拳剣と草薙剣が出てきます。
川は細長く、刀も細長い。川が横に流れている様子は刀を横に向けていることを象徴し、川の始点となる滝は、刀を地面に突き刺すことを象徴している、などなど。そう考えてみたら、川の流れの速さは、刀を勢いよく振り下ろす様子や切れ味の鋭さを象徴している、そして、川の水面の輝きは刀の輝きそのものだなとも思いました。
だから、もしかしたら『古事記』は、物語の中で自然の成り立ちを語りつつ、同時に自然の形状を設計図にして、モノのことも語っているのかもしれないなと私は思ったんです。これもまた、新しい『古事記』ルールに認定できそうだなと思いつつ、でも、まだ現時点では証拠となる材料が少なすぎるので、まだ妄想の段階で留めておきたいと思います。物語が進む中で、少しずつこの件を検証していきたいなと思います。
火おこし器はイザナキとイザナミ説
さて、私はそのような思考(妄想)作業の最後に、改めてイザナミがホトを焼いて病み臥せったという描写も振り返ってみました。すると、「ホトを焼くというのは、火きりの土台それ自体がイザナミでないと起こらない現象だよね」ということに気づきました。
であるならば、逆に、火きりぎねの方がイザナキだということになるわけで、今回のストーリーは、イザナキとイザナミがモノに姿を変えた、もしくは、火起こし器はイザナキとイザナミの分身だということも同時に語っているのでは?と思いました。
であるならば、そこからさらに遡って、天の御柱それ自体がイザナキで、八尋殿それ自体がイザナミだったのかもしれないな、とも思えてきました。
二神の身体が成ったとき、イザナミは「成り成りて成り合わざるところ一処あり」と言い、イザナキは「成り成りて成り余れるところ一処あり」と言いました。これは、八尋殿と天の御柱の形状、もしくは、火きり臼と火きりぎねの形状の違いを言っているのではなかろうかと。
そのことを裏づけるかのように、島生みをするとき、二神は「くみどに興して島を生んだ」と言われています。私は島生み解説のとき、「くみどに興す」の意味がわからなくて、ここに触れなかったんです。ですが、今回のシーンを考察して、何となくその意味がわかったような気がします。
この「くみどに興す」とは、一般的に二神が人間のように性交をしたと解釈されていますが、今日の考察の流れでいけば、何かを組み立てて何かを興した、そのことを「くみどに興す」と言っているのではないかなと思うんです。まるで、火おこし器を組み立てて火を起こすように。音としては「カマドに火を起こす」というのと似ていると思うんです。
だから、火おこし器それ自体がイザナキとイザナミ、もしくは、火おこし器は二神の分身かもしれないなと思いました。
まとめ
さて、今日はだいぶ話が飛躍したので、ここで今回の話をまとめます。
天鳥船を前後の神々との関連性で考えたとき、船ではなく容器、さらには火起こしの道具として見てみると、物語がスッキリまとまると感じます。火おこし器があるからこそ火が生まれ、私たちは食べ物を煮炊きすることができるようになった、ということ。
そして、前回、土の生成についてお話をしましたが、今回のシーンはその土、粘土を使って作られた、土器のようなものが象徴的に描かれているようにも感じました。もし、今回のシーンを土器で表現したならば、たぶん、縄文時代の火焔土器になりそうだなと、私は一人で勝手に思っています。
これも妄想です。正しいかはわかりません(笑)
また、火起こし器はイザナキとイザナミの分身かもしれないという話については、日本人は古来よりモノを大切に扱ってきた民族で、モノには神が宿る、または、モノそれこそが神だと考える精神性を持っています。今回のシーンでも神はモノに姿を変えたと、あくまでも私の妄想の一環としてお話をしましたが、でも、日本人の精神性を考えたとき、モノは神であるという考え方は、さほど間違っていないかもしれないなとも思います。
今回のシーンで火起こし器が生まれたとすると、後にそれを人間が享受し、結果として火を手に入れることができたということなのかもしれません。火が最初にあったのではなく、火おこし器というモノ、神様の方が最初にあった、のかもしれない。
今回の一件で、イザナミはホトを焼いて病み臥せってしまったわけですが、神々の犠牲の上に人間は豊かさを享受しているのかもしれませんね。
この火起こしは「火きり」または「きり火」とも言うんですが、火きりは神事としても執り行われているようです。多分、その神事は今回のシーンを起源としているのかなと思います。
この先の展開を少しお話すると、イザナキはカグツチを斬り殺してしまいます。先ほど私は「火きり」という言葉を用いましたが、その言葉通り、イザナキは火の神カグツチを斬り殺すことになります。そう考えると、天鳥船を火きりの道具として見ることは、文脈上合っているような気がします。
そして最後に、今回のシーンではオホゲツヒメノカミが生まれたので、島生みロードマップを見てみると、伊予の二名島に別名として大宜都比売があるので、物語はこの段階に進んだのではないかなと推測されます。そう考えてみると、伊予の二名島というのは、前回神々が持ち別けて生んだ天に関する神々、そして国に関する神々、この天と国のことを二名島と言っているのかもしれないなと思いました。
というわけで、今回は神生み第二弾についてのお話でした。次回は、イザナミが病床に伏す中、苦しみの中で生じる神々について触れていきたいと思います。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!