ようこそ、コスモ・ライフォロジーへ♪

古事記☆新解釈【27】縄文人が愛した翡翠~カワセミとヒスイから読み解く古事記の愛の物語~

翡翠アイキャッチ 新解釈『古事記』
スポンサーリンク

本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

解説

はじめに

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

これまでこのチャンネルでは、天地初発から三貴子誕生までを解説してきたわけですが、ここまでの思考作業で得られた情報をもとに、改めて古事記を眺めてみたとき、いくつか新しい発見をすることができました。今回からシリーズで、これまで解説してきた内容を総括しつつ、その新しく見つけた発見についてもお話していきたいと思います。

今日お話する内容は、古事記に保存された古の記憶、古代日本人の宝物「ヒスイ」についてです。私はひょんなことから古事記内でヒスイを発見したのですが、その発見によって、これまでとは違った古事記の世界観を読み取ることができました。また、ヒスイと言ったら縄文人。その縄文人たちがヒスイを大切にしてきたわけも、何となくわかってきました。

ということで、最初にヒスイ発見に至るまでの思考ルートをお話して、その後、ヒスイと縄文人との関わりについて、私なりの考えをお話したいと思います。

ヒスイについて

ヒスイへの思考ルート①アカショウビン

私がヒスイを発見したキッカケは、古事記解説第14回でお話した火の鳥にありました。火の神カグツチがイザナキの手によって斬り殺された後、カグツチの遺体の各部位にさまざまな神が成ったとき、このシーンから火の鳥の要素を感じ取りました。

カグツチの遺体の各パーツに成った神々

しかし、生物学的要素を併せ持つ古事記の世界観に、ファンタジックな火の鳥は合わないと感じた私は、そこからさらに思考を進めた結果、アカショウビンと呼ばれるカワセミの存在を導き出しました。

おさらいになりますが、アカショウビンは日本で見られる赤い鳥の代表種で、春から夏にかけて日本にやって来る夏鳥です。全身が赤いので、「火の鳥」とも呼ばれています。アカショウビンは繁殖期の6月頃から「キョロロー」と、どこか悲し気にさえずり、朝や夕方、曇りの日、雨の多い梅雨の時期によくさえずることから、「雨を呼ぶ鳥」とも呼ばれています。

アカショウビンに関する言い伝えがいくつかあり、たとえば、悪いことをして水が飲めなくなるという罰を受けたために、喉が乾いて雨を求めて鳴いているとか、カワセミが火事にあい、火傷で全身が赤くなってしまい、その体を冷やすために悲し気な声で鳴いては「雨よ降れ」と天に願っているといったものです。

解説当時はさらりと触れただけの内容でしたが、改めて考えてみると、アカショウビンの特徴は、イザナキが自らの罪を自覚し、腹をくくって禊をしたときの心境に通じるものがあるなと感じました。なぜなら、イザナキの禊シーンは火のヤギハヤヲ構造、つまり火の要素をもって展開しており、イザナキの心は火の車状態だったからです。また、川に潜って身体をすすぐことも、火傷をしたアカショウビンが身体を冷やすことに似ているなあと思いました。

アカショウビン

禊を考察していたときから、アカショウビンとイザナキの間には奇妙な接点があるということに気づいてはいたのですが、それが何を意味するのかわからずにいた私は、一旦それを横に置いて、その先の考察に進むことにしました。そして、三貴子誕生の考察まで進んだとき、私はハッと気づきました。「あれ?アマテラス、ツクヨミ、スサノヲって、もしかしたらカワセミなんじゃないの!?」と。

私はこれまでの解説で、アマテラスを金属で見た場合は金(ゴールド)であり、生命進化で見た場合は細胞内の核と読み取ってきました。同じくツクヨミ、スサノヲもそれに関連した神だろうと。そして、今回もう一つ発見した神々の別の姿。それが、カワセミ。

ヒスイへの思考ルート②カワセミ三きょうだい

カワセミは世界中に生息している鳥で、日本には三種類が生息しているそうです。一つは、羽や背中が青色でお腹が赤色のカワセミ。カワセミといったらこの子が代表者です。二つ目は、先ほど触れた、全身真っ赤なアカショウビン。ショウビンもカワセミという意味です。三つ目がヤマセミ。白と黒のカワセミです。これらカワセミを見たとき私は、「アマテラス、スサノヲ、ツクヨミだ!」と直感しました。

私の考えでは、通常タイプのカワセミがアマテラス。羽の色を青空としてみると、お腹の赤色は太陽。そこから、青空で照り輝く太陽というイメージが浮かんできます。次のアカショウビンはスサノヲ。スサノヲは辰砂と呼ばれる硫化水銀の赤色を持つ神でもあるので、赤色のカワセミがスサノヲ。最後のヤマセミはツクヨミ。夜の暗闇の中でほのかに光る白い月のような色合いをしているからです。

この鳥は、漢字ではスライド下のように書きます。これは「かわせみ」と読む以外に「ひすい」とも読みます。ヒスイは宝石の一種で、カワセミは別名「空飛ぶ宝石」とも呼ばれています。

私は以上のような思考ルートを通して、ヒスイの存在を導き出すことができました。そして、さらに最近の考察で古事記は漢字の構造とも深く関わっていることが何となくわかってきたので、今度はこの漢字も分解して調べてみることにしました。そうしたらビックリ!何に驚いたかというと、この漢字がイザナキとイザナミを見事に表していたんです!

カワセミ

「翡翠」はイザナキとイザナミ?

まずは、ヒスイの「翡」を分解してみると、上は非対称の「非」、下が「羽」。上の「非」の意味は、①「正しくない。わるい。あやまち」、②「そしる。よくないとする」、③「あらず。…でない」で、「非」の漢字の成り立ちそれ自体は、鳥の羽がたがいに背き合うさまをかたどったものだそうです。

natan
natan

これ、イザナキの一連の行動そのものではないでしょうか?

意味を逆から辿るとわかりやすいです。③「あらず。…でない」に関しては、「女から声をかけるのは良くない」と彼は言いました。次に②「そしる。よくないとする」は「吾が生んだ子良からず」とヒルコを良くない子と判断しました。①の「正しくない。わるい。あやまち」は、彼がカグツチを斬り殺すという罪を犯したということ。

ヒスイの「翠」も見てみましょう。「翠」は、「羽」と卒業の「卒」で構成されていて、「卒」の意味は、①「下級の兵士」、②「しもべ。めしつかい」、③「おわる。おえる」、④「にわか。突然に」、⑤「死ぬ。亡くなる」、⑥「ついに」という意味です。

「卒」の成り立ちは、衣服のえりもとの象形に一を足したもので、死んだ人が着る服を意味しているそうです。それが転じて、「おわる」を意味する「卒」という漢字になったそうです。

natan
natan

まさにこれは、子を生み終え、天寿をまっとうしたイザナミそのものではないでしょうか?

また、①「下級兵士」や②「しもべ」は、黄泉の国の軍勢、つまりイザナミのしもべたちのことを指しているのかもしれません。

このイザナキを象徴する「非」の鳥と、イザナミを象徴する「卒」の鳥が、鏡写しのように背き合っているさまを写したものが「翡翠」という漢字になっているようです。また、翡翠の「翡」は赤色でカワセミのオスを意味し、「翠」は緑色や青色でメスを意味しているそうです。またまたこれもイザナキとイザナミにピッタリ合致しますね!古事記の物語には、なぜか漢字の構造が関わっている、らしい!

ヒスイについて①

「漢字は神であった」

このような発見をしたとき私は、ふと聖書の冒頭を思い出しました。「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」。これ、古事記にも転用できるかもしれません。

古事記バージョンに置き換えてみると、こんな感じでしょうか。「初めに漢字があった。漢字は神と共にあった。漢字は神であった」。

natan
natan

おお、なんかしっくりきますね!

漢字の構造と古事記が密接に関わっていることがキレイに表現できています!

いいですね、これ!

漢字は神であった

ヒスイは日本の国石

さて、そんなこんなで、漢字以外にも、石の方のヒスイについても調べを進めてみたところ、いよいよ凄いことがわかってきました。

ヒスイは、日本の国石として2016年に指定されました。地球科学者であり京都大学名誉教授でもある土山明さんの書籍『日本の国石「ひすい」バラエティーに富んだ鉱物の国』を参考にすると、ヒスイは縄文時代を代表する石で、縄文、弥生、古墳時代と何千年にも渡って古代日本文明を支えてきたと言います。日本は世界最古のヒスイ文明を持つ国で、世界最古のヒスイは山梨県の天神遺跡から発掘された、縄文時代前期の大珠と呼ばれるものだそうです。

日本では古来より、緑色は神聖な色として捉えられていて、ヒスイは「豊穣、生命、再生」をもたらしてくれる幸運の石として大切にされてきたそうです。それは、すべてが緑という色に対する畏敬から生じるものだそうです。しかし、何千年もの間文明を支えてくれたヒスイは、なぜか古墳時代後期になると忽然とその姿を消してしまったそうです。

これまで考古学の世界では、ヒスイは中国から輸入されていたと考えられてきたそうですが、1930年代に新潟県糸魚川市でヒスイが発見されてからは、縄文文明を支えたヒスイは国産で、かつ糸魚川産のヒスイだったということがわかったそうです。そういった経緯もあって、2016年にヒスイは日本の国石に指定されたようです。このように、ヒスイは古代日本文明を語る上で欠かせない石なんですね。

ヒスイについて②

ヒスイの成り立ち

さらに、ヒスイそれ自体の成り立ちについても調べてみたら、いよいよ古事記の世界が拓けてきました!

ヒスイを産出できる場所は限定的だそうで、日本列島のように海洋プレートが沈み込む場所、なおかつ大量の熱水がある場所でないと形成されないそうです。現在、世界最大のヒスイ産出国はミャンマーですが、ミャンマーも日本同様、沈み込み帯に位置した国です。

ヒスイの形成過程をザックリお話すると、46億年前、原始地球が誕生し、やがて大陸の塊が生まれました。先カンブリア紀以降になって地球の内部が冷え始めると、世界の数カ所でヒスイを含む岩石が生まれました。その後、地球の温度がさらに下がると、一枚岩だった大陸は次第に分裂をはじめ、それに伴って生まれた造山運動で、さらに限られた場所で純度の高いヒスイが形成されていきました。このヒスイが形成される場所が、海洋プレートの沈み込み帯です。ヒスイは、プレートテクトニクスによって形成されます。

ヒスイの形成はそれ単体で起こるのではなく、蛇紋岩という石の割れ目の中で形成されます。蛇紋岩は、地下の熱水とかんらん岩とが反応してできたもので、周りの岩石よりも密度が低いため、蛇紋岩が成長するとそこに浮力が働き、断層の割れ目にそって上昇をはじめます。

地表に向かって移動していくとき、沈み込み帯にあるさまざまな変成岩を剥ぎ取って上昇します。そして、蛇紋岩は地表の水を含んで膨張したとき、自らの中にはらんだヒスイを押し上げて、地表付近でポロッと生み落とします。生み落とされたヒスイは、泥の中に埋もれたり川に流されたりして、やがて人々に発見されることになります。

ヒスイについて③

このようなヒスイの形成過程を知ったとき、私は、「イザナキとイザナミの神生み、カグツチ殺害、黄泉の国、禊、そして三貴子誕生の話はこのことを語っていたんだ」と思いました。

ヒスイで読む古事記のストーリー

ヒスイを通して古事記の内容を振り返ってみると、古事記解説第19回で黄泉の国は欲望が渦巻く腹の世界、それは大蛇の世界でもあるとお話しましたが、ヒスイを育てる蛇紋岩も名前に「蛇」が入っていますし、地中深くに存在する蛇紋岩は、黄泉の国の大蛇的な存在と言えそうだなと思いました。

また、イザナキはイザナミを取り戻すために黄泉の国へ行ったわけですが、彼が黄泉の国に行かなければいけなかったもう一つの理由があった。それは、ヒスイであるアマテラスたちを、蛇の腹の中から誕生させるため。

古事記では、イザナキは大蛇の世界へと潜入し、すったもんだして地上へと帰還し、禊をするために身につけているものを脱ぎ捨て、川に潜って身体をすすぎ、川の中から浮かび上がって最後に顔を洗ったところで貴い神たちが生まれた、となっています。

この一連の話が、海洋プレートの沈み込み帯で蛇紋岩の中にヒスイが形成され、その蛇紋岩が地殻変動を受けて地表へと上昇するとき、周りの岩石を剥ぎ取って浮上すること。そして、地表付近でヒスイを生み落とすと、それが川の水流によってコロコロと流され、人々に発見されるという過程とまさにソックリだなと思いました。

アマテラスたちは、最高位に位置する神であり、おとぎ話や昔話で言えば、英雄とも言える存在だと思います。私たちは、英雄は同じく英雄的な父母から生まれるものだと考えがちですが、どうやらそうではないようです。世界のおとぎ話を参考にしてみても、古事記同様、英雄は蛇の腹の中から生まれるからです。蛇は英雄とは真逆の存在です。陰極まれば陽になるとは、まさにこのことを指した言葉なのかもしれません。

ヒスイについて⑥

生命力の色は緑と赤

さて、そんなヒスイですが、ヒスイはキレイな緑色をしています。この色は、蛇紋岩が含む鉄がヒスイに移動して色を付けているそうです。この鉄の要素もカグツチ殺害シーンに出ていましたね。そのときは、鉄は溶けると赤いので単純に熱い鉄は赤色、イコールそれは血でもあるとお話しましたが、鉄は緑色でもあるようです。

natan
natan

でも、そうですよね。

よくよく考えれば、緑は生命力の色であり、赤も人間の血の色でそれも生命力。

どちらも本質は同じ「生命力」だと言えますね。

ヒスイが生きていた時代があった

私たちにとってヒスイは、ただ単にキレイな宝石という印象ですが、神は次元が下るとモノに姿を変えるという古事記ルールを人間界にも適応するならば、このヒスイが命をもって生きていた時代があったのかもしれないなと私は思いました。それがイザナキとイザナミの時代なのかもしれません。

ヒスイが形成されはじめたのは約六億年前だそうで、その時代の記憶をヒスイが持っている。イザナキとイザナミの美しくも切ない神々の記憶、その物語を大切に保管しているのがヒスイ、なのかもしれない。

イザナキとイザナミの時代に起こった重要な出来事は、生と死の誕生です。それをヒスイを通して縄文人たちは感じ取り、精神の拠り所にしたり、自分たちの死生観にしたりしていたのではないでしょうか?ヒスイは主に首飾りとして用いられていたようで、イザナキもアマテラスに玉の首飾りを授けていました。もしかしたら、それはヒスイの首飾りで、だから縄文人たちも神話と同じようにヒスイを首に巻いていたのではないでしょうか?

ヒスイについて⑦

イザナキはカグツチの首を斬って殺し、黄泉の国においてイザナミと首の領域で生と死の誓約を交わして別れました。そして、禊の果てに生まれたアマテラスにヒスイの首飾りを授けました。その行動には、「お前に私たちの思いを託したぞ」という思いが込められているのではないかなと私は思います。

また、翡翠の漢字はイザナキの赤色、イザナミの緑または青色の両方を含んでいるわけですが、ヒスイの首飾りが、アマテラスに授けられた理由は、太陽は最高神で一番偉いから、金の価値が一番高いからということ以外に、アマテラスというカワセミが持つ色にも意味があって。それは、イザナキとイザナミ両方の色を受け継いでいるからというもの。生と死の両方の色を持つアマテラスこそが最高神にふさわしい、だから高天原を治めよ、ということなのかもしれないなと私は思いました。

ヒスイが忘れ去られた理由

ヒスイは何千年にも渡って、古代日本人の死生観を支えた大切な宝石でした。しかし、古墳時代後期には姿を消してしまいました。消えた理由はいくつか説があるようで、そのうちの一つは仏教の伝来があったからというもの。仏教が伝来して死生観が変わったことが、ヒスイが消えた理由だと言われています。

ヒスイの死生観とは、私なりの考えでは、大地が生と死の誕生の場であり、そこで命は再生を繰り返すということ。大地は命の母であること。また、神の世界と人間世界は反転関係にあり、神々の世界は地下にあること。さらに、ヒスイの石言葉は「愛に満ちた幸福な妻」だそうなので、ヒスイを愛することが、イコール「離ればなれになったイザナミを今でも大切に思っているよ」ということなのではないかなと考えます。

この死生観、そしてヒスイへの思いが仏教伝来とともに消えてしまい、今ある死生観に変わったというのは、人類の意識が成長していく過程においては致し方ないことだったのだろうなと思います。

ヒスイについて④

イザナキとイザナミは何鳥?

以上、ここまでがヒスイについてのお話でした。ここからは今日最後のお話として、少しテイストの違うお話を一つ。アマテラスたちが鳥でいえばカワセミならば、その親であるイザナキたちもカワセミなのか?はたまた別の鳥なのか?ということについて触れて、今日のお話を終えたいと思います。

カワセミを導き出すキッカケになったのが火の鳥だったので、そこから考えるに、イザナキとイザナミは火の鳥、またはチャイナ神話でお馴染みの鳳凰なのかもしれない。現に、鳳凰の漢字も「鳳」がオス、「凰」がメスという意味で、翡翠と同じ構造になっています。

火の鳥と鳳凰

しかし、私は思うんです。「でも、古事記は日本の神話。火の鳥や鳳凰というのは、自然を敬い、自然を愛する日本人の精神性には合わない。ファンタジック過ぎる」と。では、イザナキとイザナミを鳥で表したら、どんな鳥が最適なのか?

これはあくまでも私の個人的感想ですが、イザナキとイザナミはキジではないかなと思うんです。そう思う一番の理由は、キジは日本の国鳥だからです。翡翠は日本の国石。そしてキジは日本の国鳥。また、キジの姿を見てみても、身体の色がカワセミに似ています。緑や青、赤色も持っています。

キジ

さらに、イザナキの一連の行動を振り返ってみても、キジっぽいなと思える箇所がいくつかあるんです。彼がカグツチの首を斬った十拳劒は別名「天の尾羽張」と言うとのことですが、それはキジの立派な尾羽根のことではないでしょうか?

また、キジは顔が赤いわけですが、黄泉の国でイザナキがヨモツシコメに向かって投げ捨てた湯津津間ゆつつまぐしというものがありましたが、「湯津」というのは温泉のような熱湯が湧いていることを指した言葉だと私は思っていて。その熱湯は、色で表すと赤になる。熱の赤色を顔に持ち、その赤い領域の間にもし櫛が刺してあったとするならば、それは湯津津間櫛という名前で呼ばれそうだな、なんて思うんです。

メスのキジの特徴も見てみると、「焼野の雉」と言われるように、巣がある場所が焼け野原になっても、メスは必死にヒナを守るそうで、強い母性愛を持っています。これは、ホトが焼けて死んでしまうにもかかわらず、火の神を生んだイザナミそのものっぽいなと。

以上のことから、イザナキとイザナミを鳥で表した場合、キジが最適ではないかなと私は考えています。日本の国鳥であるキジは、イザナキにピッタリです。

しかし、日本人はそのキジを食べたりもします。これが日本人と神々との面白い関係性ですよね。西洋の一神教では絶対にありえないことです。日本人にとっての神様は自然そのもの。だから、それはときに食べる対象にもなります。ですから、食事の前の「いただきます」は「神様の命をいただきます」ということなのだと思われます。

人と神は、食べる、食べられるの関係にある。私はこういった日本の文化と精神性が大好きです。

natan
natan

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

タイトルとURLをコピーしました