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古事記☆新解釈【14】カグツチ被殺⑤~火の鳥は水を求めて切なく鳴く~

古事記☆新解釈「カグツチ被殺⑤」アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

前回は、殺されたカグツチの遺体になった山津見神たちは、新しい生態系をもたらす神々だというお話をしました。そして、『古事記』は千年以上も前から生命誕生の科学を知っていたという、驚きのお話もさせていただきました。

前回の考察で、このシーンが言わんとすることが何となく見えてきたので、今回はカグツチの遺体に成った山津見神たちを細かく見ていきたいと思います。それでは早速解説に入ります。

古事記「カグツチ被殺②-1」(原文/読み下し文/現代語訳)
古事記「カグツチ被殺②-2」(原文/読み下し文/現代語訳)

解説

【頭】正鹿山津見神について

山津見神たちについて

まずは、頭に成った正鹿山津見神から見ていきましょう。「鹿」という漢字は、これまでもちょくちょく出てきました。頭に鹿となると、ここで強調したいことは鹿の角の方かなと私は考えます。あの大きな角をもつ、威厳ある強そうな姿。そこから考えるに、正鹿山津見神は男っぽい性質や男性原理の力を強くもつ神様かもしれないなと思いました。

また、カグツチの頭に成ったということは、それはイザナミの頭である出雲の国とも何かしら繋がりがあるように感じます。そう考えたとき、ふとイメージに上がってきたのがスサノヲ。彼は、高天原たかあまはらを追い出された後、出雲の鳥髪とりかみという場所でヤマタノオロチと戦って勝利を収めるのですが、この勝負に勝つということが、鹿の角が持つ強さと繋がりそうだなと思いました。

さらにこうも思いました。正鹿山津見神の「正」から、アマテラスの子どもであるオシホミミの要素も感じ取れるなと。

オシホミミは、アマテラスとスサノヲがウケヒをした際生まれた神様で、一番はじめに天孫降臨する予定だった神様です。このオシホミミの正式な名前は、「正勝まさかつ勝勝速かつかつはやあめおしみみのみこと」です。すごい長い名前ですが、私はこの名前は、意味としてはいたってシンプルなものだと思っています。

「正勝吾勝」というのは「正しく勝つ、俺は勝つ」という強い意気込みを表現したものだと思われます。たとえるなら、ワンピースの主人公ルフィーが言う、「海賊王に俺はなる!」というやつと似ていると思うんです。これ、冗談抜きで。その「正勝吾勝」の要素が、正鹿山津見神の「正」に現れていると感じたんです。

正鹿山津見神について

スサノヲの件も含めて考えてみると、正鹿山津見神が成ったのはカグツチの頭で、そこは勝利を収める場所なのかもしれません。ですが、スサノヲの戦い方やオシホミミの態度を見ていると、どちらも絶大な強さを持っているというよりは、スサノヲは智恵を働かせてヤマタノオロチを退治しているし、オシホミミは耳をすませてあし原中はらのなかつくにの音を聞き取ったりしています。

オシホミミの名前には「耳」が入っていますが、その耳は頭についていますよね。ですから、カグツチの頭というのは、ただ勝てばいいということではなく、人の話をよく聞くこと、智恵を発揮させるところ、そういった意味を持つ場所なのかなと思いました。

以上のことから、今回のシーンは全体として、カグツチの遺体の各パーツは後世の神々がそれぞれの物語を展開させるための舞台になっていて、そこでどんな物語が展開するのかというシナリオ的な要素も併せ持っているのかもしれないなと思いました。

さてさて、そんな感じで他の神々も見ていきましょう。

【胸・腹・陰】淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神について

胸とお腹と陰に成った神々について。陰は性器のことです。胴体部分には、淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神の三柱がなったようです。

【胸】淤縢山津見神について

淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神について

まず、淤縢山津見神の名前を分解してみると、「淤」はドロやオリで何かが塞がること、「縢」はかがること、つまり、何かを縫い合わせたり、編んだりすることを意味するそうです。

また、「淤」は「瘀」とも書かれ、この漢字と「縢」の意味を含めて考えてみると、けつという要素が導き出されるんですね。瘀血とは、血の流れの滞りや、またはそれによって起きる様々な症状や疾病を指す言葉なので、そこから病気のようなものが感じられるなと思いました。

そう考えたとき、私はあることに気づきました。この山の神たちは火の神カグツチの身体パーツに生じた神々であり、火は炎でもあること。炎と病気、そこから導き出されるのは「炎症」だと。ですから、カグツチの胴体部分で何らかの病気の兆候、または炎症反応が感じられるぞと思いました。

また、炎という視点で再度頭に成った正鹿山津見神も考えてみると、勝利に勝つという強い意気込みは、炎のようなエネルギーを内側に持っているので、もしかしたらカグツチの炎はいろんなことを象徴しているのかもしれないなと思いました。

【腹・陰】奥山津見神、闇山津見神について

さて、次はお腹と陰に成った神々を見ていきましょう。奥山津見神は奥に深くといったイメージ、陰に成った闇山津見神からは暗いイメージが感じられますね。この二柱を合わせた形で、「奥の暗闇」と読んでみると、お腹の奥、そしてホトの奥にあるのは子宮かなと。

以前、『古事記』解説第十一回で、カグツチは女性原理や女性性を象徴しているかもしれないというお話をしましたが、その流れでいけば、カグツチが子宮を持っていてもおかしくはなさそうだなと私は思いました。

胴体部分に感じる重い感情と暗い心理状態

さてさて、このようにカグツチの胴体部分からは、怪我や病気のような要素が感じ取れたわけですが、その他に、何らかの重い感情や暗い心理状態も感じ取れるなとも思いました。胸に成った淤縢山津見神の「おど」は、ドロっと重たいものによって心を閉ざしてしまう様子。それが奥山津見神、闇山津見神の名前にあるように、奥に深く闇となって蓄積していくような印象を受けます。

次回以降の物語の展開を考えてみると、黄泉の国でおどろおどろしいことが起こります。「おどろおどろしい」とは、まさに淤縢山津見神っぽい音ですよね。ですから、胸、お腹、陰になった神々は、その黄泉の国の話の布石にもなっているのかもしれないなと思いました。

【両手・両足】志藝山津見神、羽山津見神、原山津見神、戸山津見神

続いては、両手に成った神々について見ていきましょう。パッと見、両手に成った神々は、どれも鳥に関係していそうですね。志藝山津見神からは鳥のシギに似た音を感じ取れます。

続いて、両足になった神々も見てみると、左足には原山津見神、右足には戸山津見神が成っていて、原山津見神からは原っぱのイメージがあり、また、戸山津見神の「戸」はいろんなものが出入りするところなので、原山津見神が原っぱや陸地だとすれば、戸山津見神は川とか港とかを象徴した神でしょうか。もっと抽象的にするならば、原山津見神は陸、戸山津見神は海や川といった感じになるのかもしれません。

正直、両手両足になった神々は抽象度が高すぎて、よくわかりませんでした。だから私は改めて、カグツチは炎の神様であること、そして山津見神たちから鳥の要素が感じ取れることなどを踏まえて考え直してみました。すると、私の中にある伝説上の生き物がイメージされました。それは、火の鳥、不死鳥、フェニックスです。

火の鳥(不死鳥、フェニックス)

火の鳥とは

火の鳥について

早速火の鳥について調べてみると、火の鳥は赤と金の羽を持ち、体が弱ると炎となって燃え上がり、灰から生まれ変わる。また、寿命を迎えると、自ら燃え上がる炎に飛び込んで死に、そして再び蘇るそうです。その他、飼われている火の鳥は、主人に対して忠実だという情報もありました。

身体が弱ると炎となって燃え上がるというのは、先ほどお話しした病気によって炎症反応が起こることとも繋がっていそうですね。また、寿命があって自ら命を絶つけれど、また蘇るという部分には、黄泉の国を訪問するイザナキにも当てはまりそうですし、オオクニヌシが八十やそがみに何度殺されても、その度に生き返るという様子にも似ているなと思いました。

ですから、ここから想像するに、これまで神様は永遠の命を持っていると思っていたのですが、じつはそうではなく、何度も死んでは蘇るということを通して、永遠の命を保っているのかもしれないなと思いました。その他、「飼われている火の鳥は主人に対して忠実」というのは、アマテラスに対して忠実という意味でしょうかね?

また、火の鳥の足は鷹の爪みたいになっているようなので、その様子から勇ましいスサノヲにも似た要素を感じますし、掴んだものを絶対離さないという強さも感じられるなと思いました。だから、両足になった山津見神たちもそういった要素を持っているのかもしれないですね。

アカショウビンは雨を呼ぶ

でも、ここまで火の鳥を調べてきてなんですが、私はふと思ったんです。今回のシーンから火の鳥の要素が感じ取れたけれど、『古事記』は生物学書的な側面をもつので、それを考えると、ファンタジックな火の鳥登場は『古事記』の世界観と少しテイストが違うかもしれないと。もっと『古事記』の世界観に合った解釈があるかもしれないと思ったんです。

そう思って私は、火の鳥ではなく、純粋に赤い鳥について調べてみました。すると、検索でいろいろヒットしたんですが、その中で私の目を引いたのが「アカショウビン」と呼ばれる野鳥でした。

アカショウビンはカワセミの仲間で、全長約27㎝、翼を広げると40㎝ほどの、ハトよりもやや大きな体をしている鳥です。この鳥は日本で見られる赤い鳥の代表種で、春から夏にかけて日本にやって来る夏鳥です。くちばしから足まで全身赤いので、「火の鳥」とも呼ばれているそうです。

アカショウビンは繁殖期の6月頃から「キョロロー」と、どこか悲し気にさえずるそうです。朝や夕方、曇りの日、雨の多い梅雨の季節によくさえずることから、「雨を呼ぶ鳥」とも呼ばれているそうです。この雨を呼ぶというのが、前々回お話した、タケミカヅチは雷神という姿だけでなく、柄杓の神様でもあり、その柄杓で雷神は雨を降らせるという昔の日本人の考え方、そして、柄杓をひっくり返したような雨が降るのは夏だということと繋がりそうですね!

また、アカショウビンは平安時代から「みづこひどり(水恋鳥、水乞鳥)」という名前で知られていて、その名前に関する言い伝えがいくつもあるそうです。たとえば、悪いことをして水を飲めない罰を受けて、喉が乾いて雨を求めているとか、カワセミが火事にあい、体が焼けて赤くなってしまい、その体を冷やすため悲し気な声で鳴いては「雨よ降れ」と天に願っているといったものです。

これは、今回の内容とも繋がりそうだなと感じます。「雨よ降れ」というのは、炎症反応を鎮静化させたいということなのか、はたまた、イザナミを失った悲しみで我を忘れてしまったイザナキの怒りの炎を鎮めたいということなのか。アカショウビンを通してこのシーンを考えてみると、死んだはずのイザナミのイザナキに対する思いが感じ取れてくるような気がします。

アカショウビンについて

というわけで、以上のことから、今回のシーンはファンタジックな火の鳥よりは、赤い鳥アカショウビンとして考えた方が、『古事記』の世界観に合っているかもしれないなと私は思いました。何と言っても、『古事記』は世界最古の生物学書かもしれないので、『古事記』が野鳥であるアカショウビンに思いを馳せるというのは、ごくごく自然なことだと私は思います。

手塚治虫先生の『火の鳥』

火の鳥
画像参照:https://tezukaosamu.net/jp/character/602.html

さて、とは言いつつも、火の鳥(フェニックス)に話を戻すと、私はこのシーンで火の鳥を考察するまで、火の鳥それ自体に関心を持っていませんでした。ですが、この機会に初めて手塚治虫先生の作品『火の鳥』を視聴しました。そして、『古事記』考察といろいろ繋がるところがあって面白いなと感じました。

この作品は、「火の鳥」と呼ばれる鳥が登場し、火の鳥の生き血を飲めば永遠の命を得られるという設定のもと、主人公たちがその鳥と関わりながら悩み、苦しみ、闘い、残酷な運命に翻弄されるという内容です。オープニングを見ただけで、その内容にすべてが象徴されて描かれているような印象で、ブルッと身震いしちゃいますね。

私がこの作品を見て一番に驚いたことは、火の鳥がメスだったという点です。先程もお話したように、私は、カグツチは女性原理や女性性を象徴しているかもしれないと考えているので、手塚治虫先生が描く火の鳥もメスだったという点で、カグツチ女の子説は合っていそうだなと思い、嬉しくなりました。

また、もう一つ嬉しい発見があって。それは、火の鳥は山の噴火と共に出現し、そして噴火口の近くにある、お湯が湧いて岩石がゴロゴロしている岩の上に降り立つのですが、これを見たとき、「これが石村いはむらかも!」と思って嬉しくなったんです。カグツチの首を斬ったとき、血が飛び散った先の場所が湯津石村で、そこは温泉郷にも似た場所だと私は考えているからです。

ジブリの宮崎駿監督が『もののけ姫』に描くたたら場の女性たちもそうですし、手塚治虫先生が描く火の鳥も、きっと先生方は無意識の深いところでカグツチに関するものを感じ取って、それを作品に落とし込んでいるのだろうなと私は思いました。

日本を代表する漫画やアニメの中から『古事記』に繋がるものを見つけられるなんて、なんて面白い展開でしょう!現代に目を向ければ、『古事記』のヒントがいっぱい見つかるということなのでしょうね。『古事記』が時空を超えているという何よりの証拠ですね。

『古事記』が十拳劒に込めたメッセージ

というわけで、以上が、カグツチの各部位になった神々についてのお話でした。ここからは今日最後のお話として、『古事記』が十拳劒に込めたメッセージについて触れて、今日のお話を終えたいと思います。

前回もお話したように、十拳劒は柄が長く、その先端に鳥の羽のような、銅矛のようなものがついた剣だと思われます。そのことについて、私はふと疑問に思ったんです。「この形だと、カグツチの首は斬れないのでは?」と。せいぜい首を突くくらいだろうと。

そして、十拳劒の「剣」という言葉についても調べてみたのですが、剣は両刃、つまり両方に刃がついていて、先端は細くなっています。斬り裂くというよりは、まずは突くこと。そして、叩き斬ることが目的としてあるそうです。西洋の剣などがそれに該当します。

ちなみに、日本刀は片刃で、なおかつ斬り裂くということを目的とした刀です。今回の十拳劒は、その名前からもわかるように、前者の突く、そして叩き斬ることを目的としたものだと私は考えます。だから、たぶん、カグツチも最初に十拳劒で喉を突かれ、その後に首を斬られているはずです。

そのような考えに至ったとき私は、カグツチ殺害のシーンで登場した十拳劒に『古事記』が込めたあるメッセージを読み取りました。それは剣の構造とイザナキの行動が物語っていることです。

剣は、先程もお話したように、両方に刃がついています。ですから、そこから「両刃の剣」という言葉が導き出されます。これは「諸刃の剣」とも読めます。諸刃の剣とは、両方に刃のついた剣は、相手を切ろうとして振り上げると、まず自分を傷つけることから、相手に打撃を与えると同時に、自分自身もそれなりの打撃を被るおそれがあることのたとえです。

そして、イザナキは自分の刀でカグツチの首を斬りました。その行動からは、「我が刀で首切る」ということわざが導き出され、意味としては「自分の刀で自分の首を切るように、自分の行為によって自らが苦しむ」になります。

つまり、諸刃の剣、そして自らの行為によって自らが苦しむこと、そのことを『古事記』は十拳劒とそれを用いるイザナキ自身の行動を通して語っていると私は考えました。逆を言えば、今回のシーンは、諸刃の剣と「我が刀で首切る」ということわざ誕生の起源を語っているのかもしれません。

『古事記』が伝えたいメッセージ

そして、そのことを体現する出来事が、次の場面、黄泉の国で起こるんですね。いや~、『古事記』の文学力の高さには驚かされますね!それはどういった内容なのか、次回以降の解説をぜひ楽しみにしていてくださいね。

natan
natan

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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