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古事記☆新解釈【20】黄泉国からの帰還/「いなしこめ~↑」と鳴くイザナキはヤギだった!?古事記とギリシャ神話には共通点があった!/イザナキの禊①

黄泉の国からの帰還アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

今回から、イザナキの禊シーンについての解説に入りたいと思います。ここも解説が長くなるので、複数回に分けてお話していきます。

まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。

原文/読み下し文/現代語訳

古事記「黄泉の国からの帰還」(原文/読み下し文/現代語訳)

是以伊邪那伎大神詔 吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理
故吾者為御身之禊而 到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而 禊祓也

ここをもちて伊邪那岐大神りたまひしく、「いなしこめしこめききたなき國に到りてありけりかれ、吾は御身みみみそぎむ」とのりたまひて、つくむかたちばな小門をどあはき原に到りまして、みそはらひたまひき。

こういうわけで伊邪那岐大神は、「私はとても醜い醜い穢い国に行っていたようだ。だから私は身体の禊をしよう」と仰って、竺紫日向の橘小門の阿波岐原に到り、そこで禊をなさった。

これが今回取り上げるシーンです。短いですが、内容はかなり濃いです。それでは早速解説に入りましょう。

解説

「大神」への名前変更

禊のシーンは、イザナキが黄泉の国から帰還したところから始まります。「ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく」とあるように、彼は「大神」になったようです。その理由は、黄泉の国でイザナミが黄泉津大神という名に改名したからだと思います。男女神はお互いを補完しあう関係、鏡像関係を持っているので、イザナミの変更に合わせてイザナキも大神になったのだと思われます。

「しこめ~↑」はヤギ!?

彼は、「私はとても醜い醜い穢い国に行っていたようだ」と心情を吐露します。それもそのはず、黄泉の国は死の国で、なおかつ生物の腸内世界でもあるので、イザナキは、言ってみれば、ぼっとん便所みたいなところから帰還したようなもの。だから、そう言いたくなる気持ちもよくわかります。

また、黄泉の国はイザナキの貧しい心や腹黒さを映した鏡的世界でもあるので、本当の自分の姿を知ってしまったという驚きやショックさも含んだ言葉だと思います。

このときの言い方が、原文を見ると面白いんですよね。「いなしこめ~↑しこめき」と、最初のしこめの音を上げて訓む上声の指示が入っています。この上声から、イザナキが驚きの声を上げていることがわかります。「しこめ~↑」を驚嘆の声として訓んだとき、私は「イザナキはヤギか!」と一人ツッコミしてしまいました。「めぇー」ってヤギですよね。でも、一人ツッコミした後、「ん?いや、本当にヤギかも!?」と思ったんです。

というのも、このシーンをイザナキの気持ちになって考えてみると、彼は黄泉の国でものすごく恐ろしい体験をしてきて、呼吸はゼーハーゼーハー、心臓はバクバク、頭はパニック状態になっているはずで、その胸中を「しこめ~↑」とヤギが鳴くように吐き出したとするならば、その状況からとある神の存在が想起できるからです。それは、ギリシャ神話に出てくるパーンという神です。

「パニックの語源」となったギリシャ神話の牧神パーン

ギリシャ神話の牧神パーン

パーンは農牧の神で、羊飼いと羊の群れを監視する神です。星座の山羊座にもなっています。また、音楽大好き、好色、性欲が強いなど、いろんな特徴を持っています。パーンは不思議な姿をしていて、上半身は人間で毛深く、ヒゲを生やしていて、頭には角が生えています。下半身はヤギで、足にはヒヅメが付いています。

そして、このパーンが語源になった言葉に「パニック」や「パンデミック」があるんですね。なぜパーンが「パニック」の語源になったのかというと、彼は山の中に住み、木陰で昼寝をしていて、その眠りを妨げられると、怒って人間を精神的な恐慌状態に陥れるからだそうです。

この精神的な恐慌状態が、黄泉の国から帰還したイザナキの状態そのものだなと私は思ったんです。だから彼もヤギっぽく鳴いた。

でも、私はふと考えました。「イザナキがパニック状態になったのはよくわかる。それほど黄泉の国は恐ろしかったから。でも、「しこめ~↑」という上声だけでパーン神と一緒にするのは強引かな?過去に何かパーンに繋がるもの、ヤギっぽい要素は古事記内であったかな?」と、これまでの物語を振り返ってみました。すると、「あ、あったわ」とすんなり見つけることができました(笑)

火の神三柱が担う物語の構造

それは、古事記解説第七回、カグツチが生まれたシーンで、カグツチは他に二つの名前を持っていて、それは火の夜藝やぎはや神と火のかが毘古びこ神でした。この夜藝速男神の「やぎ」は声をもって訓む名なので、「ここにヤギがいた!」となったわけです。

この発見を通して私は、カグツチ殺害から黄泉の国、そして禊に至るまで、とある構造的なルールに沿って物語が進行していたということに気づきました。そのルールとは、カグツチの三つの名前、火の夜藝速男神、火の炫毘古神、火の迦具土神が物語の構造を担っていて、その構造はカグツチ、カガビコ、ヤギハヤヲという生まれたときとは逆の順番で展開していくというもの。

火の神三柱における物語の構造

カグツチ編

スライドの下を見ていただくと一目瞭然。物語はまずカグツチ編から始まっていて、カグツチの正式な名前は火の迦具土神です。この「迦具」はこえをもって読む部分なので、それがイザナミのお葬式の場面で登場した「香山」の「かぐ」に繋がっていたことがわかりました。また、香山はお線香や香木の香りが漂っているところでもあると私は考えていて、その匂いを嗅ぐということもカグツチの「かぐ」が意味することなのかなと思いました。

カガビコ編

続いてはカガビコ編。カガビコの「炫」という漢字には二つの意味があり、一つは、光が眩しいこと。もう一つは、才能を「ひけらかす」「見せびらかす」こと。

光が眩しいのは、黄泉の国が暗い体内世界だったから。もう一方の「ひけらからす」は、イザナキが持っている十拳劒が、彼を必要以上に自信過剰にさせてしまったのかもしれません。自分の能力以上のモノを手に入れてしまうと、人は自信過剰になって、周囲に自慢したくなるものです。そのようなイザナキの心も可視化させたのが、黄泉の国での出来事だったと私は思います。

また、黄泉の国でイザナキは、イザナミの帰りが待ちきれず、櫛の歯一本に火を灯して御殿の中を覗き見してしまいました。そのときの火が「かがり火」だったんですね。だから、黄泉の国がカガビコ編。

ヤギハヤヲ編

最後に、今回の禊シーンでイザナキが「めぇ~↑」と鳴いているので、これがヤギハヤヲ編。正式名称は火の夜藝速男神なので、ヤギが火で燃えている、「あっちぃ、あっちぃ」とパニックになっている、だからヤギの神パーンという感じ。

natan
natan

だいぶ強引な繋げ方ですけど(笑)

大丈夫、後でちゃんとすべてが繋がるのでご心配なく(笑)

以上のように、カグツチ、カガビコ、ヤギハヤヲは、イザナミの死から黄泉の国、そしてイザナキの禊シーンまでを担う構造として機能していたようです。

竺紫日向の橘小門の阿波岐原とは

さて、ここからは、イザナキが禊をするために訪れた「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」とは一体どこなのかを考えていきたいと思います。

黄泉の国は死んだイザナミの体内世界であり、イザナキは彼女の体内ですったもんだして、最後には喉を抜けて、口の方向へ戻ってきました。そこから考えるに、彼が禊をするために訪れたその場所は、顔の領域ではないかなと私は考えています。

というのも、まず大前提として、「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」の読み方を古事記解説書では「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と五つの語句に区切って読んでいるのですが、これ多分間違っています。原文にそって正しく読むと、ここは「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」というように、三つに区切って読むべきです。

竺紫日向の橘小門の阿波岐原01

「竺紫日向」について

さて、三つに分けたものをそれぞれ見ていくと、最初の「竺紫日向」は「日向」がわかりやすいのでこれから触れると、「日向」は日に向かっているということ。それはイザナミの暗い体内から抜け出し、口へ出て、そこで外の光を感じ取ったということを意味した言葉だと私は考えました。ここから直観的に、顔の領域に出たということを感じ取りました。

次に「竺紫」ですが、ここはいくら調べても考えてもわからなかったので、しばらく放置していたのですが、あるとき、ひょんなことから「竺紫」の意味がわかりました。これは多分、トリカブトのことだと思われます。

「竺紫」の「竺」には「毒」の意味があり、「竺紫」を「紫色の毒」と読んでみると、トリカブトがイメージできるんですね。トリカブトは皆さんもご存知のように猛毒性を持った植物で、花は房なりでキレイな紫色をしています。

そんなトリカブトが「竺紫日向」とどう関わってくるのかというと、トリカブトは漢字で書くと、「鳥兜」もしくは「草鳥頭」となります。ようは鳥の頭だと言っているんですね。そこに「日向」がくっついているので、結論として「竺紫日向」は鳥の頭が日に向かうこと、つまりそれは額であるということを象徴した言葉だと私は考えました。

また、「竺紫日向」は額以外に、トリカブト的な猛毒性を象徴していることも重要で、この猛毒性は後に誕生してくる神の性質を予言している側面もあるようです。この件については後日詳しく触れますね。ということで、「竺紫日向」は額。

竺紫日向の橘小門の阿波岐原02

「橘小門」について

さて、次の「橘小門」は、橘はミカン科の木のことで、そこから柑橘系の香りを感じ取ることができます。また、「小門」は小さい門、何かが出入りする狭い通路を意味します。香りと狭い通路、この関係性から私は鼻をイメージしました。

竺紫日向の橘小門の阿波岐原03

「阿波岐原」について

最後の「阿波岐原」については、「阿波岐原」の「あはき」は音で読むので、音の印象から自由に思考を巡らせてみると、「あわ」からは泡状のものを感じ取ることができ、「阿波岐」の「き」は植物の木、または何かを分割する、切ることを意味した言葉かなと思いました。最後の「原」は広い場所ということ。

これらキーワードを頭の中でグルグルと回転させてみたとき、「あ、阿波岐原は口の周り、または頬のことかもしれない」と思いました。なぜなら、イザナキはこの場所に来てパニック状態の中で「いなしこめ~↑」と声を上げたとき、彼は口角泡を飛ばすがごとく、パニックのあまりつばを周囲に撒き散らしたと思うからです。そのつばを「あわ」が象徴しているのではないかなと。だから、「阿波岐原」は口周辺のこと。

竺紫日向の橘小門の阿波岐原04

また、口以外にそこを頬としたのは、じつはイザナキの禊シーンは、ヤギハヤヲだけでなく、過去に登場した神々とも関連し合っていることがわかったからです。それは、古事記解説第六回の神生みシーンで登場した、水に関する神々です。この神々について解説したとき私は、「天と地が別れたとき、神々は泣いた」とお話しましたが、その別れこそが黄泉の国での出来事だったんですね。

そして、天と地を象徴するイザナキとイザナミが別れた後、彼だけが「阿波岐原」にやってきたということから、その「阿波岐原」の「あわ」が神生みで登場した沫那藝神の「沫」と韻を踏んで関連し合っているということがわかったんですね。ですから、神生みシーンを重ねつつ今回のシーンを考えてみると、沫那藝神、頬那藝神、水分神は涙が頬を伝う様子を象徴しているので、結果としてイザナキは「阿波岐原」で涙を流しているだろうと想像することができます。

パニック状態でありつつも、同時に泣いているというのは、愛する妻と別れたからだと思われます。その涙が伝う領域が頬。

竺紫日向の橘小門の阿波岐原05

ということで、以上をまとめると、「竺紫日向」が額、「橘小門」が鼻、そして「阿波岐原」が口周辺もしくは頬。だから、「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」は顔という結論になります。

イザナキはイザナミの体内から喉を抜けて、口に出てきました。そして顔の領域である「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」に到着して、彼は「いなしこめ~↑」と「いやー、汚い国だった」と思わず本音をポロリと口に出しました。この「口に出す」という慣用句そのままに、彼はいろんな意味で口に出た、顔の領域に出たということだと思われます。

竺紫日向の橘小門の阿波岐原06

最後に

以上が「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」についてのお話でした。黄泉の国からパニック状態で帰還したイザナキでしたが、彼が涙も流しているとするならば、これから始まる禊は汚れを落とすといった、お風呂に入るような心地よいものではなく、我が身を削るような厳しい修行のようなものだということが見えてきます。「阿波岐原」の「岐」、つまり切ること、分割することが厳しい何かを象徴しているからです。

さあ、イザナキが行おうとしている禊とは一体どんな意味を持ったものなのでしょうか。それについては次回、詳しくお話したいと思います。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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