私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、キリスト教の愛の形についてお話します。
▼ 参考文献 ▼
◎前回までのお話はこちら↓
神様と人間との愛
紀元前4年にイエス・キリストが誕生し、紀元後392年にキリスト教はローマの国教となります。
キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれますが、そこで問題になっているのは、人間同士の愛というより
神様と人間の間の愛の関係
です。
神様が無限の愛で愛してくれる、その神を信じるのがキリスト教です。
全知全能の神は、どんなに罪深い罪人であろうと売春婦であろうと、すべてを許して無償の愛を注いでくれる。
だからただ神を信じ、神を愛しなさい、というものです。
その愛の宗教にあって、人間同士の恋愛とは何かというと、キリスト教は性的なものを敵視して激しく禁止します。
キリスト教にとって性欲は罪なのです。
可愛い女の子を見て、ちょっといやらしいシーンを思い浮かべようものなら、それは罪で、「そんな目などはえぐり取ってしまえ」と言います。
なぜなら罪を犯しつづけ、地獄に落ちて、地獄の炎で永遠に焼かれるよりも、目をえぐった方がいいから、と言うのです。
すごい論理ですが、こういった理屈が生まれてくる背景には、
人間は全て罪人である(原罪)
という教義があります。
アダムとイヴの神話からはじまる
原罪の教義は、あの有名なアダムとイヴの話から始まります。
神は自分に似せて、最初の人間アダム(男)を作った。
しかし、人が一人でいるのは良くないと思い、アダムの肋骨からイヴ(女)というパートナーを作った。
そのイブは蛇にそそのかされて禁断の実を食べてしまい、アダムも同じく食べてしまう。
神は「なぜ食べた」と問いただし、アダムはイブにそそのかされたから、イブは蛇にそそのかされたからと答え、責任転嫁をする。
そのため、神は怒り、エデンの園から二人を追放した、というお話です。
女性に対する恐怖
ここで出てくる「蛇」については、いろいろな解釈があるそうで、その一つが、
とする解釈です。
原罪のお話は、人間が蛇にそそのかされて、性的なものに目覚めてしまったという話だと考えられます。
原罪が性に関する罪に深く結びついているようです。
とくに、
女性が性的な存在として恐怖の対象になっている
ということが言えます。
女性というのは、「蛇=悪魔」にそそのかされる、弱い、堕落しやすい存在、性欲に惑わされる存在として、男性の恐怖をあおっています。
その蛇にそそのかされ、男を惑わす悪女としてのイブ。
女の起源、最初の女は悪魔に惑わされる悪女として存在。
なので、キリスト教はものすごく性に対して厳しい、そして女性にも厳しいのです。
子どもを作るための結婚とセックス
そんな中、唯一許されたのが、子供を作るためのセックスです。
神を信じる信徒を増やす行為なのでOK。
しかし、快楽をむさぼろうとする行為は全て罪。
性を全面的に禁止しては、子供は生まれませんし、社会も回らない。
そのため、子供を作るために次善の策として出てきたのが
結婚というシステム
です。
これは、神によって与えられた必要悪のようなものです。
したがって、浮気をしてそのシステムを乱そうとするやつは、神をもおそれぬ不届き者なのです。
日本での浮気バッシングは「人としてどうなの!?」という考えからですが、キリスト教にとっては「システムを乱すな!そもそも人間は罪深きものであり、それでも仕方なく与えたシステムなのだぞ!」というものなので、バッシングの背景がまったく違いますね。
女性のセクシュアリティの全否定
性的快楽への追求が罪という考え方は、長い歴史を通してヨーロッパの自然な考え方になっていきました。
この考えが頂点に達したのは、19~20世紀初頭のイギリスのヴィクトリア時代だと思われます。
たとえば、テーブルやピアノの脚さえもいやらしいものとみなされ、女性の脚を連想させ、人を性的な妄想に導くとされました。
そこで誕生したのが「テーブルクロス」だそうです。
敬虔なキリスト教徒として、女性は結婚して子供を作らなくてはいけません。
しかるべきレディはしかるべき男性と結婚して、子供を作って家庭の天使になるべきであり、そしてしかるべきレディは一切の性的快楽を感じてはならない。
もし感じたとすれば、悪魔がついている、魔女とみなされました。
レディ=淑女は、性的快楽などとは無縁なので、夫との性生活もけっして楽しんではいけませんでした。
夫に従順につき従って、反抗せず、受け入れる、そういた類のものがレディであるというのが常識でした。
忍耐と優しさをもって夫を慰める、それこそがレディの役割とされました。
こうした女性のセクシャリティの全否定は、男性が性欲を持った女性を蔑視、軽蔑していたということと表裏一体です。
魔女狩りの黒歴史
また、キリスト教では純潔さや処女性が重視され、高貴なものとして捉えられていました。
という考え方からのようです。
だから、イエス・キリストの母マリアは処女のまま身ごもったということになっています。
もし女性がけがれていたならば、それは魔女として認定され、裁判にかけられ、拷問の後殺されるという魔女狩りが行われました。
一説によると、12~17世紀末までに、魔女として殺された女性の数は、数百万単位だそうです。
魔女に対する恐怖と、聖母崇拝は表裏一体です。
ヨーロッパの文化を作ってきたのは、ギリシャ、ローマ、キリスト教にせよ、基本的には男性です。
女性の生理、妊娠、出産という体験は、男性にとって不可解であり、神秘であり、怖いのかもしれません。
だから女性の性を消し去ろうとした。
女性は性欲を持たない、天使のような存在、性欲を持たない母のような存在、それは聖母マリアのような存在でなければ困るのです。
性欲を持ったら魔女扱い。
そういう女性嫌悪をキリスト教だけでなく、イスラム教も含め、いろいろな宗教で見て取ることができます。
キリスト教は今や世界的な影響力を持っており、その宗教道徳が今の法律にも生きています。
キリスト教は世界平和、平等、慈愛、知性、理性など、素晴らしい考え方を多く残しましたが、女性嫌悪の歴史という意味では魔女狩りなどの黒い歴史も生みだしてしまいました。
次回は少し時代を前に戻って、中世宮廷恋愛についてお話していきたいと思います。
次回もお楽しみに♪