私の宇宙からこんにちは、natanです。
このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第9回放送時のトーク内容全文をご紹介します。
本日のトーク内容
さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
第7回放送では、インナーチャイルドとの出会いについてお話しました。その話の中で、ショックな出来事をきっかけに、心の中に隕石が衝突して自我意識が粉々に砕け散ったとお話しました。
今日は、その出来事を通して気づいたことやヌーソロジーを学ぶ中で私が大切にしている感覚についてお話したいと思います。
自我の崩壊体験
前放送回のくり返しになりますが、数年前に起こったショックな出来事をきっかけに、私の心の中に大きな隕石が衝突しました。そして、それまで私を構成していた自我意識が粉々に砕け散りました。私はこれを「自我の崩壊」と呼んでいます。
この出来事によって起こった内側の状況は、前回お話した通りです。今日は、外側についてお話してみたいと思います。
心に隕石が衝突したとき、私の目からごそっと分厚いレンズが取れたような気がしました。そのレンズはものすごい厚さで、牛乳瓶の底以上、ガラスの塊のようなものでした。
「こんなもの、今までつけてたの!?」と驚くほど、心に隕石が衝突してそれが剥がれ落ちるまで、まったくレンズの存在に気づきませんでした。
そのレンズを外して見る世界は、すごくクリアでした。それはまるで、冬の澄んだ大気のような、遠くの山々まではっきり見えるような印象でした。
「冬の大気のような」という表現が、言い得て妙なのです。
世界がそう見えたと同時に、心の中にもひんやりと冷たいものが通り過ぎたのです。そして「ああ、現実はなんて残酷なんだろう…」と思いました。はじめて目の当たりにした現実。それがとても冷たかった。
コップの中の嵐
本当の現実を目の当たりにしたとは言え、どこかで私はこの現実を知っていた、とも思いました。それを見ないように、気づかないように、無視をして生きてきたことも知りました。
そして、この出来事によってインナーチャイルドの存在を知り、「私が私のカウンセラーになる」と決めて、心理学を学ぶようになりました。
隕石の衝突後は情緒不安定の毎日を過ごしていましたが、インナーチャイルドと出会って一週間後くらいか、または心理学を学ぶようになって一週間後くらいか、そのときの詳細は忘れてしまいましたが、自分の心に向き合うようことで、少しずつ、本当に少しずつ、どん底の世界から気持ちが浮上し始めました。
そんなある日、夜、隣でいびきをかいて寝ている主人をふと横目で見ていたら気づいたのです。それまで私は嵐のような人生を生きてきて、ものすごく苦しい思いをしてきました。寂しかったし孤独だった。現状も心の中はハリケーン状態ですし。
でも、主人の姿を見ていたら、「あれ?ずっと私は嵐の中にいたと思っていたのに、この人は相変わらず私の隣でいびきをかいて寝てる」と思ったのです。
当たり前のように毎日見ていた光景が、そのときは当たり前に見えなかった。ここで気づいたことは、嵐は私の中でしか起こっていなくて、外側はずっと平和だったということ。
のちのち知ったのですが、アドラー心理学では「コップの中の嵐」という言葉があり、私が体験したことはそれに似ている現象だと思いました。
「コップの中の嵐」とは、ひとたび世界の大きさを知ってしまえば、自分が感じていた苦しみが、「コップの中の嵐」であったことがわかる。そして、コップの外に出れば、吹き荒れていた嵐もそよ風に変わるという、心理状態の変化を表したものです。
私の場合、そよ風というか…無風?(笑)
「あれ?」と思いました。私の内側は大荒れ状態なのに、私の外側は平和そのものだったのです。
心理学でも言われているように、これまでは自分の心の中の感情や価値観、観念を外側に投影していたので、「内側=外側」という見方によって、「私がこう思っているのだから、世界もそうであるはずだ」と思い、そのことに一切疑問を持っていませんでした。
でも、隕石衝突によって自我崩壊をした結果、自分の内側と外側をはっきりと分けることができるようになったようです。そのようにはっきりと内側と外側の世界を分けることができたのは、今まで気づかなかったあの分厚いレンズが落ちたからだと思います。
昔の芸人さんみたいに、頭を後ろから大きなハリセンでスパーンと叩かれて、目からコンタクトレンズが落っこちちゃったという感じ(笑)
ですから、「なんでこの人、私の隣でいびきをかいて寝てるの?」と、当たり前の光景がすごく新鮮に、しかも平和な出来事として映ったのです。
人生を導く見えない存在
さらに、これまではまるでメンヘラのような私だったにも関わらず、それでもずっと側にいてくれる主人を見て、「私はもしかして、結構いい人生を生きてきたのかしら?」と思い、過去の記憶を遡れるだけ遡ってみたのです。
そうしたら、自分が「これから先どうしようかなあ」と進路や就職先、やりたいことなど、いろいろな場面で道に迷いそうになったとき、いつも見えない何かに導かれるようにして人生を歩んできたことに気がついたのです。
それは壁に貼ってある広告だったり、ポスティング・チラシだったり、「はい、次こっちね」というように、いつも私の目の前に次の行き先が提示されていたことに気がつきました。
ですから、私はそれまで、自分の人生は自分が選択してきたと思っていたのですが、何かが違う。導いているものが何かいる、と気づいたのです。
そして私は、これまで歩んできた人生は奇跡の連続だったこと、私の人生は上手くいってたこと、これで良かったということを知りました。そして、人生は奇跡だらけかもしれないと思いました。
そこからスピリチュアルの世界に興味を持ちました。それまでは、スピリチュアルはほとんど知りませんでした。ほんとに知らない、何も知らない。
天使とか神様とか霊界とか高次元とか、「なにそれ美味しいの」状態でした(笑)
スピリチュアルを学び始めたとは言っても、その世界を100%信じることがどうしてもできませんでした。なぜなら、自分の中で納得がいかないからです。でも信じたい自分もいて、複雑な気持ちでした。
「どうすればスピリチュアルを信じられるだろう」と考えたとき、私の内側から「ビッグバン」というワードがフッと湧いてきたのです。「ビッグバン?」と最初はそのワードの意味がよくわからず、疑問に思いました。しかしすぐに、「たしかに、宇宙の始まりとされてるビッグバンも、宇宙にとっては奇跡の出来事だよね」と思ったのです。
自分の人生と宇宙の始まり、そこで起こっている「奇跡」という共通のキーワードが合致して、スピリチュアルのすべてが信じられないのなら、もう半分は宇宙論でこの世界の不思議を探究してみようと思うに至りました。そして、その探究の日々をブログで綴るようになりました。
そのため、私が過去に運営していたブログ名は、「小さくて大きな私の宇宙~スピリチュアルと科学の統一場理論を目指して」と言います。
本当の理解は体感を伴ってやってくる
この最初の体験、(心に隕石が衝突して目から分厚いレンズが落ちて、自分の内側と外側をはっきりと分けられるようになったこと。そして、ありのままの世界は平和そのものだったと気づいたこと)は、私にとって、意識変化が起こったときの大切な基準になる体験です。
意識に変化が起こったりすることによって、世界の見え方が180度変わります。
目からレンズが落ちた状態で見る世界はとてもクリアで、当たり前の光景が当たり前に見えない、その世界は平和そして幸せ、ときには不思議、そして奇妙です。
さらに、世界はずっとその状態で私を包んでくれていたし、守ってもくれていた。そして、私がいつの日かありのままの世界に気づくまで、辛抱強く待ってもいてくれました。
これは頭での理解ではなく、体感を通して「ああ、そうだったんだ!」と気づくものです。だから、スピリチュアルでもヌーソロジーでも、学ぶことはただの情報収集です。
情報を得て、そしてそこで言われている言葉の意味がなんとなく理解できた、という状態は本当の理解ではありません。学んだ言葉(情報)は、それらの意味を頭で理解するのではなく、体で自覚すること、腑に落ちること、これが本当の理解です。さらに本当の理解というのは、本当の自分に気づくこと、知ること、でもあります。
だから、現実の残酷さを突きつけられたことに対して、でも薄々それには気づいていた自分がいたにも関わらず、気づこうとしなかった、無視していた、ということもはっきりと自覚することになります。
だから、「あーー……」って思っちゃうんです。
伝わるかな、この「あーー……」です。
ですから、私は上記で感じた一連の体感を基準にして、哲学やヌーソロジーを通して学んだことに関しては、自分にとってこれはまだ情報レベルだ、と思うようにしています。それがいつか咀嚼されて、自分の身体でドーンと理解できるようになるまでゆっくり待ったり、そこで学んだことをじっくり「ああ、わかんないなあ、でも面白いなあ」と情報を噛みしめたりしています。
情報収集のみでわかったつもりにならないよう気をつけています。その基準になるのが、今日お話した体感です。
最後に
そして、自分の外側の世界は、自分が思っている以上、いや、自分が知らないところで奇跡のような動きを見せています。
でもそれに気づくためには、一度、いろんな固定観念で凝り固まってできた自我を解放しないといけない。「○○でなければいけない」「こうあるべきだ」という考え方を持っていると、絶対に世界の奇跡には気づけません。
ここで注意点ですが、ここでお話していることは自我の解体ではなく、自我を縛っている固定観念の解体です。自我は大事です。その自我を解放させてあげます。
私は強制的に崩壊させられたので、その衝撃はとんでもないものでした。一歩間違えればやばかった。だから、強制的に固定観念ガッチガチの自我を解放することは絶対オススメしません。少しずつ、そして健康的に、固定観念を解体させて、自我を自由にさせてあげることをオススメします。
それには数年単位、いや、もっと時間がかかるかもしれないですが、やる価値は大いにあります。
前回と今回お話した出来事をきっかけにして、私の不思議な意識の旅が始まることになりました。その旅について、今後、いろいろお話していきたいと思っています。
今日のお話が、みなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!