私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、私たち日本人にとって身近な話題を二つあげて、女性性について語ってみたいと思います。
◎前回までのお話はこちら↓
山の神は女神
まず一つ目は、『乳房の文化論』という書籍からのご紹介です。
▼ 参考文献 ▼
この本は、海外や日本において、どのように乳房に対する価値観が生まれ育っていったのか、男性視点、女性視点、さらには古代人の捉え方について、幅広い視点で複数の専門家がそれぞれの専門的観点から解説していくという内容のものです。
その中で、宗教学者の鎌田東二さんの解説が興味深かったのでご紹介します。
日本人は古来から、
山の神は女神である
として信仰してきました。
その理由の一つが、水源です。
山から水があふれ出て、谷川になって流れ落ちてくるということが、山を女性的なもの、神秘的な生命の源として捉えていたそうです。
日本の最初の宮都は藤原京ですが、藤原京の大極殿(だいごくでん)は、大和三山に取り囲まれた真ん中にありました。
大和三山は古墳などと同様に、人工の山ではないかと思われますが、そうだとすれば、三つの子宮とも乳房ともいえるような女性性の中に、大極殿という天皇や皇后が政務を司り住まう、宮殿と都が築かれたのです。
つまり、自分たちの世界が三方・四方から乳房に取り囲まれているという、コスモロジカル(宇宙論的)な安心装置を創り出す必要があったのではないだろうか。
都市も家屋も一つの小さな宇宙であり、そのさらにミニマムな宇宙が身体。
そういう小さな宇宙をより強靭なものに形成し構築していくうえで、象徴的な子宮や乳房に取り囲まれることによって、生命の安心や安定化装置を産みだし、また生存のエネルギーがそこからくり返し再生され、力が湧き出てくるというコスモスの強化が図られたのではないだろうか、と著者は述べています。
古代人は人間の身体のみならず、自然の中にも人間の身体を見立て、重ね合わせていたということは、とても重要な視点ですね。
鳥居は女の大股開き
二つ目は、書籍『エロティック日本史~古代から昭和まで、ふしだらな35話~』(下川耿史著)から、神社にまつわるお話をご紹介します。
▼ 参考文献 ▼
この本の第四話で、
鳥居は女の大股開きである
という話があります。
私たちは神社にお参りをするとき、必ず鳥居の下をくぐります。
じつはこの鳥居は、女性が男性を迎え入れるために股を開いている形だという説があります。
佐藤洋二郎の説
『夏至祭』『岬の蛍』などの純文学作品で知られる佐藤洋二郎は、地方の神社を丹念に回って、そこから日本の姿を見つめ直そうという作業を試みた作家です。
その佐藤が、「鳥居をくぐって」と題する新聞に寄せたエッセイで、こう述べています。
神社全体は女性の子宮にたとえられている。
男性が水垢離(ごり)、湯垢離をして体を清め、参道を行ったり来たりしてお願いごとをする。
鳥居は女性が股を広げている格好で、上部に神社名があるところは、女性の敏感なところだとも言われている。
そこを身を清めた男性が行き来するのは、男女がセックスをする姿だ。
境内に男性の性器をかたどったものがあったり、二つに分かれた樹の股を大切に扱ったりするのもそのためだ。
2014年11月25日付「東京新聞」
オフェル・シャガンの説
また、イスラエル人で世界一の浮世絵コレクターといわれるオフェル・シャガンも、神社の建設には性的なメッセージが込められているとして、鳥居に関して次のような意見を述べています。
(そのメッセージとは)鳥居は女性の肢体、門の上にある開口部が女性器を表しているとか、正面から見た際に、神社全体が鳥居の二つの柱、つまり足の間に挟まれた女性器であるといったもので、春画に描かれた様々なシーンの中からも、この説を裏付けることができるかもしれない。
わらう春画(朝日新聞出版)
つまり、日本の純文学の作家と、春画コレクターである外国人という異なる文化的背景を持つ二人が、鳥居に関してまったく同じイメージを抱いたのです。
イザナミ・イザナギの「ア・ウン」の声
また、民俗学者の戸川安章によると、鳥居を女性器に見立てる考え方は、出羽三山(湯殿山、羽黒山、月山)の修験道の中に、今でも生きているといいます。
修行のために羽黒山へこもるという前日、修行者は笈(おい:仏具、衣類、食器などを入れて背負うかご)の前に、小型の鳥居を置きます。
これは女性が陰部を開いた形であり、修行者は印を結んで仏の加護を祈念し、「ア・ウン」の声とともに体を鳥居の前に投げ出します。
これは、男性が性交によって女性の体内に射精したことを表し、「ア・ウン」の声は快楽の叫びだそう。
ちなみに、「ア・ウン」の声がなぜ性的な快楽を表すかといえば、イザナミ・イザナギが天の御柱を回って関係したとき、二人は「ア・ウン」と快楽の声を発したからといわれています。
まとめ
以上のことから、これまでお話してきたチベット密教の性的ヨーガや、道教における性の哲学発展や性の鍛錬、そしてそれは女性を悦ばせるためであり、悦びによって開かれる女性(性)によって、男性(性)も恩恵にあずかるという話は、日本ではとても身近な神社や日本史、さらには古代都市においてもごく自然に表現されていたということになります。
前回の話だけを読むと、多くの男性は、
えー、めんどくさい!
と思うかもしれません。(笑)
しかし、みなさんも普通に神社に行ってお参りしてますよね?
神社に対してもつ神聖な場であるという認識、そしてお参りするという行動とそのときの意識の持ち方。
これは、女性が悦びを感じる至福のセックスに必要な姿勢と、共通する部分があるなと私は考えています。
参道=産道でもありますしね。
さらに付け加えると、神社参拝はお願い事をしに行くのではなく、日頃の感謝を伝えに行くのが正しい参拝だといわれていますよね。
これは、セックスに落とし込んで考えると、至福のセックスによって女性性が花開きます。
なので、「日頃の感謝を伝えに行く」行為が、セックスにおいては「女性を悦ばせる」という表現(行為)になるのかもしれません。
なので、女性が悦ぶ至福のセックスはチベット密教や道教だけに限った特殊な行為ではなく、カタチを変えて私たち日本人の周りでごく自然に表現されているものだったのです。
それでは次回は、女性が悦ぶとなぜ幸せになるのかについて、日本神話をベースにお話してみたいと思います。
次回もお楽しみに♪