私の宇宙からこんにちは、natanです。
このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第57回放送時のトーク内容全文をご紹介します。
本日のトーク内容
はじめに
さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
ここ最近は、四位一体構造についてお話をしています。
現在、私たちの意識は三位一体構造で働いています。一神教が勢力を持っていた時代、それは自我を育てなければいけなかった直近約2000年間くらいは大切な構造だったのですが、自我の成長そして意識の成長は次のフェーズに入らないといけない段階がやってきました。
次のフェーズとは、一神教によって捨て去られた四番目の復権であり、今後はその4を意識に取り込んで、意識構造を三位一体から四位一体へ変えていかなければいけないということです。
その4なるものは女性原理であるということで、これまでの放送ではおとぎ話をベースに、王子様である自我意識がどうすればお姫様である無意識をゲットして幸せな結婚に至ることができるか、というお話をしてきました。
これまではおとぎ話がベースだったので、4を女性原理を象徴したお姫様と置いて話をしてきましたが、それとは別に4は違った姿も持っています。それは多面的な性質です。
第53回でもお話したように、三位一体の意識は一面的なので、その意識の光で多面的な4を捉えてしまうと、それは一方向からのみボールに光を当てることと似ているので、そうするとボールは光が当たる部分と当たらない部分、つまり光と影に分離します。だから三位一体構造の意識を持つと、あらゆるものを二元的に捉えてしまうことになるんですね。一神教は多面的な4を女神と魔女に分けてしまい、影である魔女の部分を捨て去ってしまいました。
今日は、この4の多面的な性質は意識においてどういう意味を持つのか、そして現在の人間の意識状態と、多面的な意識を得るために必要なことについて、私なりの解釈でお話してみたいと思います。
多面的な意識とは
正二十面体をイメージしてみよう
まず4の多面的な性質を知っていくために、頭の中に多面体をイメージすることから始めてみましょう。先ほど「4はボールみたいなもの」だとお話したので、多面的なボールといえば私はサッカーボールがイメージに上がってきます。
白と黒の面を持ったサッカーボールは、切頂二十面体と呼ばれる多面体です。ただ「切頂」と言われてもよくわからないと思うので、切頂二十面体の原型である正二十面体をイメージしてみましょう。正二十面体は正三角形で構成された多面体です。
今日のお話では、この正二十面体を4を表す多面的なカタチとおいて、お話を進めていきたいと思います。
四位一体の四番目が正二十面体だとしたら、三位一体の意識でそれを捉えた場合、20の面があるうちの1つの面しか捉えられていないということになります。三位一体の一面的な意識とはそういう意味だと思ってみてください。
正二十面体をイメージしながら、今度はこれを人間関係に置き換えて考えていきたいと思います。
他者も一面的に捉えている
私たち三位一体の意識を持つ人間は、自分の目の前にいる人物を一面的に捉えることが多いです。「Aさんは怒りっぽい人だな」とか「Aさんは面倒くさがり屋だな」とか、無意識的に相手を判断して評価しています。
でも、あるときそのAさんがとても優しかったり、あるときには一生懸命仕事に励んでいたりと、Aさんの別の側面が見えることがあったとします。そのとき人は、Aさんの意外な面に好印象を持つことで、Aさんの評価が変わったりすることがありますよね。
ここで、Aさんを評価する側の人間は三種類に分かれると私は考えています。
- Aさんに好印象を持って、Aさんを好きになる人
- Aさんのことを好きか嫌いかではなく、多面的に捉える人
- Aさんの好印象な面を知ったけれど、余計にそれが鼻につくのでそれを受け入れられない人
1つ目と3つ目はどちらも、ユングのタイプ論で言えば、気持(F)機能が絡んでいますね。Aさんを好きか嫌いかで価値判断する感じです。
1つ目のAさんを再評価して好きになるということは美談として聞こえますが、「Aさんを好きだ」「いい人だ」と決めつけてしまうとAさんの裏の側面を見ないことになるので、その裏の側面に今度は自分が手を焼くようになってしまいます。「好きな人だからしょうがない、私が我慢しよう」といったように。これは依存関係に発展しやすいです。
ですから、三位一体の一面的な意識というのは、Aさんを良い意識としての光で照らしたとしても、裏の影になった部分は自分が背負い込む羽目になってしまうので、Aさんを好きになるという意識の変化はときに自分を弱い立場へと追い込むことがあります。
人を好きになることは素敵なことですが、相手を再評価できないくらいに好きになるのは、後々いろんな問題に発展しやすいです。これは善なるものに対しても同じく言えることです。善に固執し過ぎると善に縛られます。
(体験談)他者は多面的だと気づいた瞬間
でも、今現在の人間は三位一体構造の意識を持っているので、どうしても相手を好きか嫌いかでまずは判断してしまうものですよね。
私もそうでした。人間関係において「この人良い人だな」と思っていた方が、ある日私に裏の側面を見せてきたことがありました。そこで一気に相手のことを嫌いになったのですが、でも後日またその人の良い面を見てしまい「ああ、この人は一体何なんだ…」と気持ちを振り回されたことがありました。
そうやって気持ちを振り回され続けた結果、ある日ストンと気づいたんです。「ああ、私はこの人のことを良い人なのか、悪い人なのかの二択で図ろうとしていたけれど、この人はその両方とも持っている人なんだ。どちらも本人なんだ」と。
好きと嫌い、良いと悪い、右と左、を何度も何度も私の意識が行き来する中で、次第に意識が中心点に収まったとき「ああそうか、人間は多面的なんだ」と気づきました。
でも、人間は多面的だとその瞬間は感じ取ったとしても、すぐそれを忘れるんですよね。だから「人間は多面的なんだ」と思い続けたり、思い込んでみたりするわけで。でも自分の感情が変われば、相手をやっぱり好きか嫌いかで判断してしまう自分がいるんですよね。
そんな中、私はヌーソロジーを学ぶことで幾何学体というものを知ったとき気づいたんです。
たとえば、その相手に正二十面体のイメージを重ねてみたら、相手を身体ベースではなく、多面的な観念として捉えることができたんですね。そして「この人にはこんなにいっぱいの面があるのか。それなら、たった一つの面だけでこの人を好きか嫌いか判断できないな。全部の側面を知ってからでないと正しい価値判断なんてそもそもできないぞ」と気づきました。
そのような思考作業がきっかけで、相手を二択で判断しそうになったとき、その人の姿を正二十面体に変えて、自分の意識の狭さを知るということをやるようになりました。
他者の多面性の奥にある広大なネットワーク
そしてその思考作業によって、人間の多面性は他者や環境が影響しているということも知りました。決して一人芝居でその人がころころ姿を変えているのではなく、ちゃんと何かに影響されて変わっているのだと。
「じゃあ、その人に影響しているものは何だろう?」と分析していくと、その人のいろんな人間関係や育った家庭環境、家族の現状そして過去があり、その背後には社会や国の現状、歴史、そして世界へと広大なネットワークが広がっていることを知りました。
ですから、四位一体の4というのは世界の多面性も表しているんですね。人物だけじゃないんです、世界の姿も多面的なんです。私は他者の多面性を真に理解することを通して、世界の多面性も同時に知りました。
だから、他者や世界は、好きか嫌いか、良いか悪いか、だけで本当は判断できないんものなんです。さらにそこからもう一つ気づいたことがあって、それは善悪は相対的なものであり、見方が変われば善なるものも悪にコロッと変わってしまう、悪も善に変わるということ。そんな複雑なネットワークで世界は構成されているということにも気づきました。
ネットワークで成り立つ世界というのは、固定されたものではなく、それは波のようにつねに変化し移りゆくものなんですね。だから善悪の判断も、そのときどきで容易に変わってしまうものなんです。
あらゆるものを好きか嫌いか、善か悪か、の二択で選べたらそれはそれで楽ちんです。でもこの楽ちんさは思考することをやめた、その代償として手に入れる誤った価値判断なんですよね。
ヌーソロジーでは思考の重要性を説きますが、そこで言われている思考は学問的な思考ではないと私は思います。それは、すぐに物事に価値判断を下すのではなく、複雑なネットワークに積極的に足を踏み入れること、複雑だからといって思考をやめないこと、つねに移りゆくネットワークの世界だからこそ本質をつかむための思考力を鍛えること、そういったことの重要性を説いていると私は考えています。
正直言って、思考することはとても面倒くさいです。だから人はすぐ良いか悪いか、好きか嫌いかで判断してしまうんですね。思考したくないからです。
私もできることなら思考したくないですもん(笑)
でもその面倒くさいことをあえてやることで、三位一体の意識は四位一体へと変わることができるんですよね。自分の思考も多面的なネットワークを張れるようになることが、四位一体の意識の特徴でもあります。
陰謀論は世界の一側面
さて、世界の多面性に話を戻すと、世界の多面性とは、たとえば世界を陰謀論で捉えている人たちがいますよね。強者がこの世界を支配しているとか、悪なる存在がいてそれが世界を破壊しようとしているとか。
私の陰謀論に対する考えは、陰謀論は肯定も否定もしていないです。ただ、私は世界もイメージの中で多面的な観念として捉えているので、陰謀論は世界のあり方の一側面でしかないと考えています。陰謀論は無いということはない、ある…だろう。でも陰謀論だけで世界は成り立たないことも知っています。なぜなら世界は多面的で複雑なネットワークで成り立っているからです。
一神教が三位一体構造を重視し、4の裏側である魔女性を排除したとお話しましたが、じつはそこには4である女性原理の裏の側面を受け入れたくないという、三位一体を持つ側の主観的な思い、恐怖心があったからです。
陰謀論を信じる人もそこには主観的な思いがあるはずです。主観的な思いは人それぞれ違いますが、結果的にその個人的な思いによって、陰謀論で成り立つ世界しか見ることができなくなっている、陰謀論で成り立つ世界を自分が受け入れてしまっているという背景があります。「木を見て森を見ず」という状態です。
でも、その人の生い立ちなどを知ると、そう考えてしまうことを「ダメだ!」と私は強く言えないです。そう思いたくなるほどの何かを心に抱えているからです。
心のSDGs活動をしよう
心の環境破壊が起こっている
三位一体の意識は、世界の現状を見てもおわかりのように、自然環境を破壊する方向へ向きがちです。
先ほど「木を見て森を見ず」と言いましたが、4なるものは本来森のような豊かさを持ったものです。それが本来の人間の心の状態なのですが、三位一体の意識はその豊かな心を禿げ山にしてしまうんですね。だから森を見ようとしても木は一本しか生えていないんです。つまり、世界を陰謀論でしか見られない、善と悪でしか図れないという状態になってしまうんですね。
そして何か大きな心理的衝撃を受けたとき、心の山は一気に土砂崩れを起こしてその人を破壊してしまうことがあります。陰謀論でさえもそれを信じている人にとっては大事な木であり、それは最後の一本の木なんです。心の土砂崩れによってさらわれないように、陰謀論を信じている人も、その最後の木に必死にしがみついて身を守ろうとしているのだと思います。
こういった現状を踏まえて今日私が一番お伝えしたいことは、三位一体構造の意識を四位一体へ変えていく前に、三位一体を否定することなく、まずは受け入れましょうということです。
大前提として、私たちが三位一体構造の意識を持ってしまっていることは仕方のないことだからです。一面的に世界を見てしまうのも仕方がないことで、それは誰のせいでもないからです。
環境破壊が進んでいるように、現代人の心も禿げ山になっているわけですが、それは長い年月をかけて心の環境破壊が進んでしまったからなんです。それが外界へ波及して物理的な自然破壊となって、私たちの目に映し出されているんですね。だから、外側の環境破壊の本質は私たち一人ひとりの心の環境破壊が原因なんです。
でも、心の環境破壊も、外側の環境破壊も、今に始まったことではないんです。人類全体が少しずつそうしてしまったんです。だから、その自然を私たち人類はみんなの力で元の姿に戻そうということで、SDGs活動に取り組んでいるわけですよね。
その活動を今度は私たちの心にも行っていく必要があると私は考えています。心のSDGs活動も人類全体で取り組むべき課題です。決して自己責任という言葉で終わらせてはいけないんです。だから、あなたが今三位一体の意識を持っているからといって、絶対に自分を責めないでくださいね。これは人類全体の課題だからです。これが今日私がもっとも伝えたかったことです。
人間関係だけが心を救う
では心のSDGs活動とはどんなものかと言うと、禿げ山になってしまっている心に一本一本木を植えて、心を森のように豊かにしていくということ。その木は何を象徴しているかというと、私はそれはやっぱり人だと思っています。他者という存在です。
心の豊かさは人と触れ合うことでしか生まれません。その豊かさとは心温まるものだけでもありません。自然には春夏秋冬、暑い日、寒い日、そして嵐の日もあるように、熱いもの、冷たいもの、寂しいもの、怖いものだって豊かさの一つです。
他者に傷つけられ、そして癒やされて、突き放されて、そしてまたヨリを戻してという、人間関係の面倒くさい部分というのは、本当は豊かな意識活動の賜なんですよね。豊かな意識活動が豊かな心を育むからこそ、他者という存在が必要なんです。だから意識が犬猿しがちなことは、本当はすごく大切な意味を持ったものなんですね。
また、豊かな意識活動は4の多面性を知るための重要な意識の筋トレにもなります。意識の筋トレだからこそ、心の豊かさを得るためには、我慢強さや忍耐力、そして継続力が必要になるんですね。
実際の植林活動を例にして考えてみましょう。その活動もただ木を植えるだけでは簡単に育たないと思います。砂漠化した土地の土壌改良からはじめて、植えた木が気候変動にも耐えられるようにしたり、嵐によって破壊されても何度も何度も諦めずに植え続けたり、木の本数を増やすためにたくさんのボランティアを募ったり。そういういろんな苦労があって、ようやく木々は大地に根づくのだと思います。心の豊かさもそれと同じです。
いろんな他者と出会い、いろんな意識活動をする中で、世界の多面性を知ることができます。他者という存在は、言うなれば世界中に生息する様々な動物のような存在です。優しく愛らしい動物もいれば、怖くて凶暴な動物もいます。それが良い悪いではなく、それが自然のあり方なんです。だから他者という存在だけが自分の意識を多面的に変えてくれる、大事な大事な存在なんですね。
自分の意識が他者という存在によって少しずつ多面的になるのと比例して、心にも少しずつ木が生えてくるようになります。自分の心そして意識が豊かになっていきます。心が緑であふれ、生命の水が湧き出て、それが心を潤し、鳥や獣たちが戻ってきて楽しそうに語らいます。そうなれば土砂崩れの心配はもう必要ありません。
四位一体構造の意識を獲得するためには、他者という存在が必要です。ぜひこのことを覚えておいてくださいね。
日本語が持つ多面性
最後に、世界を多面的に捉えることについて、日本語を通して私が気づいたことをお話して、今日のお話を終わろうと思います。
解剖学者であり東京大学名誉教授の養老孟司先生が、日本語について興味深いお話をされていました。
養老先生いわく、日本語の最大の特徴は漢字の音訓読みだそうです。先生はその中でも、訓読みがある言語は日本語以外知らないとのこと。漢字を使った文化は朝鮮やベトナムにもあるそうですが、日本だけが漢字を訓読みするようになったとおっしゃっていました。
養老先生は「重なる」という言葉を例に挙げてお話されていました。
重なるの「重」という漢字の読みは、「重い」「重なる」「大と書いたら重大」「複と書いたら重複(ちょうふく)」「名前であれば重明(しげあき)」などなど。いろんな読み方ができます。
そして先生はこうおっしゃいます。「これを外国人にどう説明します?これを”おも”と読んで、”かさ”と読んで、”じゅう”と読んで、”ちょう”と読んで、”しげ”と読むんですよ。この論理を誰か教えてくれませんか。まったく論理がありません。これをフランス人に説明したら「悪魔の言葉だ」と言いました。みなさん平気でこれができるんですよ」と。
私はこの話を聞いたとき、ドカーン!とひらめいたんです。それは何かというと、ちょうど多面的な世界の姿に思いを馳せていたときだったので、「世界の多面性も、もしかしたら音訓読みするのかもしれない!」と思ったんです。
それはどういうことかというと、ヌーソロジーでも日本語は人ではなくモノが主体になっている言語だと言われています。日本人がモノのもつ精神性を忘れないように、日本語はそれを死守していると。
そして養老先生のお話をヒントに私なりの考察をプラスすると、日本語の漢字の音訓読み、これはあらゆるものは本来多面的であることを日本語が言語の中に保存している、その多面性を日本人が忘れないように日本語が死守していると思ったんです。
漢字の音訓読みは世界の多面性そのものだ!日本語は心の世界のあり方を言語にして持っているんだ!と思いました。
さらに養老先生がおっしゃるように、日本人は漢字の音訓読みが当たり前にできるんですよね。だから私は、三位一体から四位一体の意識へ変えていくとき、漢字の音訓読みが当たり前にできる日本人の力、日本語の力が鍵になると思ったんです。
今日お話した4の多面性、それは他者の多面性であり世界の多面性ですが、これらも漢字の音訓読みのように捉えてみてください。音訓読みに良いも悪いも、絶対この読み方でなきゃいけないという決まりもないように、4の多面性もそうなんです。他者も世界もそうなんです。
「4は音訓読みするものである!世界を音訓読みしてみよう!」そう考えて世界を見てみると、きっと面白いことが見えてくると思いますよ。
というわけで、今日は4の多面性についてのお話でした。今日のお話がみなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!