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【ろじろじラジオ】第58回放送☆無意識を正しく理解しよう~無意識の自律性について~

No58:無意識の自律性アイキャッチ ユング心理学
natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第58回放送時のトーク内容全文をご紹介します。

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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

無意識に対する誤った認識について

無意識は立派な他者存在である

手

さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

今日は無意識についての正しい理解を深めていきたいと思います。

まずはじめに、私たちは自分の意識が無意識と自我意識で構成されていることを知っています。心理学を筆頭に、スピリチュアルや精神世界、宇宙論などでも無意識に対する研究が進められています。

無意識とは、自我意識が把握できていない意識であるとか、身体側の意識であるとか、ようは自我意識とは別のものを無意識と認識しています。

昨今のスピリチュアルや精神世界の傾向として、「無意識を目覚めさせよう」「無意識と自我意識の双子化によって共に人生を歩んでいこう」、ときには「覚醒しよう」などとも言われていますよね。私は、こういった昨今の動きは、無意識に対する認知度が上がってきた結果生じていることだと思っているので、この傾向に対しては良かったなあと思っています。

ただ一つだけ危惧していることがあります。私は徹底的に無意識と向き合ってきた人間なので、それによって気づいたことなのですが……。無意識に対する世間の認知度が上がっているといっても、未だ自我意識は”無意識的に”無意識をコントロールできるものだと考えているところがあるなと感じています。

私の知っている無意識の特徴、そしてユング心理学で言われている無意識の特徴、そこには共通するものがあります。それは、無意識は立派な他者存在であるということ。しかも、この他者というのは仲良しこよしの他者ではないんですね。

第54回でも、おとぎ話をベースに無意識と自我意識のやり取りについてお話しましたが、無意識と自我意識は赤の他人から始まるような関係性を持っているんです。もちろん、赤の他人以上に深い関係ですし、無意識の方は自我意識を誰よりも知っています。

でも、自我意識はそうじゃないんです。自我意識は無意識のことをほとんど何も知らないと言っていいと思います。ですが、何も知らない状態なのに「わかっている」と勘違いして無意識と接触しようとしている、その現状に私は「ちょっと待って!それは危険過ぎる!」と言いたいんです。

心の補償作用について

風船

無意識が他者存在であるとはどういうことかと言うと、無意識と自我意識の距離が極端に開いている人を例にするとわかりやすいかもしれません。

ときどきニュースで、世間的には立派な仕事に就いていて、社会的にとても評価されている人が、ある日殺人を犯したというものが報道されることがあります。そういうニュースを知って、その容疑者のことを知る人たちから必ず聞かれる感想があります。それは「なぜ、あんなに良い人がこんな事件を起こすのか」というもの。

このような事件には、かならずその容疑者の無意識が関わっています。容疑者の自我は社会に適応した立派な人間かもしれません。しかし社会に適応するために、その人は本当の自分、つまり自分の無意識を殺してきたのだと思います。

でも無意識は死ぬことはないので、自我意識が無意識との距離を開けば開くほど、心のバランスを取るための補償作用が働くので、無意識は低俗化していってしまうんですね。

以前もお話しましたが、心の補償作用とは、心はバランスを保って機能しているので、自我意識が優越し過ぎるとき、それはたとえば自我意識が空高く舞い上がろうとするとき、「心のバランスが崩れる!心が崩壊してしまう!」と判断されるので、地面側にある無意識が空高く舞い上がる自我を引き戻すことでバランスを取ろうとする作用のことです。

そして、もしその自我がとんでもなく高く舞い上がり過ぎたときは、地面へ引き戻す無意識の力も強くなるので、下手をすれば、自我が地面に激突してしまうこともあるんです。

先ほどの容疑者の場合も同様です。ただ、補償作用によって現れる現象は、地面への落下というのはこれは比喩なので、実際は自我に対して低俗化した無意識が憑依する形が多いと思われます。低俗な無意識に憑依されたその人は、自我のコントロールを失って事件を起こしてしまうということ。それによって社会的な抹殺、心理的な崩壊が起こってしまうんですね。

これは極端な話に聞こえるかもしれませんが、近頃は低俗化した無意識の憑依を疑わせるような事件が多々起きていると私は感じています。

無意識は自律性を持っている

歩く人々

スピリチュアル界隈では、「人生が苦しい」とその苦しさから逃れようとして、自我である自分の行動を省みず、無意識を味方につければ楽になれると思っている方がいらっしゃるようですが、無意識はそんなに優しくないです。

逆に、自分を省みず無意識をなんとかしようと考えている人には、無意識からの容赦ない鉄槌が下されます。自我意識が無意識をコントロールできるなんて勘違いをしています。

そして、無意識はときに自我意識を死へ誘うことさえするものなんです。だから、無意識は自我意識に従属するものではなく、無意識は自律的に動くことができる存在なんです。まるで他者のように…。

それに関連した話があるのですが、2022年に私が書籍『感性で紐解くヌーソロジー』を出版したことを記念して、東京でナチュラルスピリット社主催のワークショップを開催したのですが、その打ち上げの席で社長の今井さんがお話されていたことがとても興味深かったです。

「2025年はちまたでいろいろ言われている年ですが、何かが起こるんですかね?」的な話で盛り上がっているとき、今井社長が「とある霊能力者の方が、最近はたくさんの悪霊がこの世に出てきてさまよっている、と話していましたよ」と教えてくれたんです。

私はこの話を聞いて、「あ、その霊能力者さんは良い感性を持っているな」と思ったんです。私はそういった話をそのまま受け取るのではなく、深層心理学的な観点で変換して解釈するので、そうするとその話はこういう現象として捉えられます。その悪霊たちは現代人の自我意識によって殺され続けてきた無意識が悪霊と化したものであり、それらが怨念を持ちながら自律的にさまよっているのだろうということ。

生霊ってそういう類いのものだと思うんですよね。無意識が自律性を持っているから、生霊という現象が成り立つのだと思うんです。

心霊現象がすべて心理的なものが起因しているとは断言できませんが、でも心霊現象と心理的現象って結構関連性があったりするんですよね。それを幽霊と捉えるか、自分の無意識と捉えるか、というだけの違いだったりすることがよくあります。

そういったことも含めて、再度無意識の性質を考えてみると、無意識は自我意識のことをあたたかく見守ってくれる天使のような存在だとか、どんなに亭主が外で遊び回ってきても、家の中でずっと待っていて、帰ってきたら優しい笑顔で「おかえりなさいませ旦那様」と言ってくれるような存在だとか、そういった認識はとんでもない勘違いだということが言えます。

無意識は自我意識に愛想をつかせて、一人で歩き回ります。亭主が見ていないところで、他の男性と会っているかもしれません。

natan
natan

ま、これは比喩ですけどね。

もちろん、無意識とつねに良好な関係を築いている人にとっては、無意識は最高で最強の相棒です。でも、自分の無意識が今現在どういう状態にあるかなんて誰にもわかりません。悪霊化しているかもしれないし、ずっと自我意識に背を向けて自我意識と向き合おうとしていないかもしれない。もしくは、とんでもない構ってちゃん、メンヘラ、悲観主義になっているかもしれない。

変わるのは無意識ではなく自我意識側である

ですから、これから私たちは無意識と自我意識の連携によって意識成長を図っていかなければいけないわけですが、間違っても無意識の方を変えさせようという意図のもと、無意識を目覚めさせようとしないでください。

変わるのはあくまでも自我自身です。自分のことを省みないで無意識の方を変えようとするのはお門違いです。そんなことをしても低俗化した無意識しか出てこないです。

自我の役割は、無意識の思いを受け取って、現実的に行動して形にしていくことです。無意識が人生を魔法のように変化させてくれるのではありません。まずは自我自身が自分を変え、そして人生を変えていくんです。それが自我の役割です。

無意識は自我意識が苦労しながらも、自分自身と人生を変化させていこうとするその姿をジッと見ています。ユング心理学でいうグレートマザー、『千と千尋の神隠し』の映画解説でも触れた湯婆婆のように、厳しく目を光らせて見ています。自我意識は無意識に信頼されるような存在にならないといけないんです。

無意識と折り合いをつけていこう

鏡

私はユングの無意識に対する考え方が好きです。ユングは無意識に対して、「無意識と折り合いをつけていくことが大切だ」と、「折り合いをつける」という言い方をするんですね。無意識をしっかり他者存在と受け止めて、人間関係を構築していくように謙虚な姿勢で歩み寄っていくというユングの考え方にとても共感します。

「無意識を我がものに!」だなんて自我の傲慢です。逆に、自我意識の方が無意識をリスペクトしなくてはいけないし、ときにはひざまずくことも必要だと思います。

自我意識は無意識を単にもう一つの意識形態としか捉えていません。実際は、無意識には構造性や階層性があり、無意識も人間同様さまざまな人物像を持っているんです。ユング心理学ではそのさまざまな人物像を元型という概念として語ります。そして、無意識に対してゆっくり一歩一歩、歩みを進めていくことの重要性を教えてくれます。

私たち自我意識が第一に向き合わなければいけないものは、影という元型です。それは、自我が生きられなかった部分、自我が抑圧した部分が一つの生命体となって内的世界に存在しているので、まずはその影と向き合わなければいけないと言います。『千と千尋の神隠し』の中では、カオナシに該当するものですね。

この影という元型は、自分とは丸っきり正反対の特徴を持っています。自分がもっとも嫌っている部分を持っている存在だからこそ、ここと向き合うのはかなり大変な作業になります。伝説やおとぎ話の中でも、英雄もかなり苦労しながら、そして恐怖の中で影と向き合っています。

第二に、影を自分の中に統合させられたら、今度は、無意識の中に住まう女性心であるアニマ、無意識の中に住まう男性心であるアニムスと向き合うことになります。この段階での向き合い方を模索しているのが、私が提唱しているコスモ・ライフォロジーという思想です。人間の男女関係を参考にして、あれこれ方策を立てています。

そして、そこで一旦内的世界と向き合う過程が一つ終了すると思いますが、それ以降はまた新しい内的世界と向き合い続けていくことになると思います。

このように、外側の世界に何十億人という人間がいるように、無意識の世界にもたっくさんの内的存在が住んでいて、その存在たちと自我意識は折り合いをつけ続けていかなければいけないんですね。

だから、無意識と一言で言っても、それは単なる一つの意識形態ではなく、たっくさんの内的存在の集合なんです。だから、日本人は古来からそれらを八百万の神々と表現してきたのだと私は思うんです。八百万です、たっくさんの内的存在が無意識界に住んでいるからこそ、無意識を自我意識がコントロールできるなんてありえないんです。それは自分一人の力で何十億人という人類を支えるようなものだからです。

そこにいるのは八百万の存在たち、だからこそ謙虚な気持ちを持って、一歩一歩意識成長に励んで、内的世界に住む者たちと折り合いをつけていかないといけないんですね。

影と向き合うこと、アニマ、アニムスと向き合うことは、自我に与えられた最初の課題のようなものだと思います。そしてそれで終わりではない。課題はまだまだその先もあります。つねに昇格試験を受け続けるといった感じですね。

無意識界は外的世界と別の論理体系を持っている

懐中時計

無意識というのは、外側の世界とはまったく別の論理体系や世界観を持っています。ユングによると、無意識は外的世界とは違って、時間が限りなくゆっくりと脈打つ世界であるため、無意識が自我意識に接触を図るときは、怪談話に出てくるような異質な存在として出てきたり、数千年前のような太古的な姿をとったりするそうです。

私たちが睡眠中に見る夢もそうです。夢は無意識の世界であり、それは無意識の言語で表現されている世界でもあります。そして、そこには心の全体性である自己(セルフ)からのメッセージも込められています。夢は摩訶不思議で、ときにハチャメチャで、意味不明な世界ですよね。私たちが未だ夢の正体やその内容を解明することができないでいることは、私たちが未だに無意識を理解できていないことの揺るぎない証拠です。

だから私たちが無意識を正しく理解していくためには、深層心理学的な知識や、神話やおとぎ話から得る知識を身につけることが必要で、そして自分の内側を掘り下げることによって、無意識が意図することを読み取ったり、夜見る夢からメッセージを受け取ったりできるようになるなど、自我側が無意識側に歩み寄っていく努力をしないといけないんです。

世界は意識界と無意識界の二つで構成されています。無意識の世界は目に見えないので、ときに幽霊として、ときに神々や精霊として描かれたりします。

そして、無意識はそこに住まう者たちの集合的な意識でもあるため、自我意識が無意識と上手く折り合いがつけられずにいると、無意識は自我意識に憑依して暴れることもあります。だからユングは「人間の心は安全に統合されていると言うには程遠いものだ」と話すんですね。

無意識によって憑依され、人生を滅茶苦茶にされることは、言い換えると、内的な存在たちの氾濫でもあると私は思います。自我意識というのは、そういった存在たちと折り合いをつけていかなければいけない、大変難しいミッションを持っているんです。

私はつねに謙虚な気持ちで内的世界と向き合っています。誠心誠意対応すれば、内的世界は厳しくもあたたかく私を導いてくれるからです。そこにはいつも感謝の言葉があります。「○○に気づくことができました。いつもありがとうございます」というように。

あと、世間体がどうこうではなく、内的世界にとってこれは失礼にあたるなと思ったことはやらないと決めています。内的世界を先手にして考え行動するという感じですかね。

でも、すべてがすべて内的世界を優先するということもしません。内的世界の意に沿えないときはどうしてもあるからです。それによって内的な存在たちが暴れても、それを鎮められるよう説得することもあります。自我を明け渡さず、しっかり自分の中で対処し折り合いをつけるということですね。

このように、無意識は独自の世界観を持っていて、そして自律性も持っています。だから、自我である私たちはつねに謙虚な気持ちで無意識と向き合っていかなければいけません。ユングはこう言います。「無意識を過大評価してはいけない」と。その理由は、無意識が良くも悪くもなるのは自我意識の成長次第だからです。

というわけで、今日は無意識の自律性についてのお話でした。今日のお話がみなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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