本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回は、神世七代についてお話をしました。今回は、おのごろ島の誕生シーンについてお話したいと思います。
まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。
原文/読み下し文/現代語訳
於是天神諸命以 詔伊邪那岐命 伊邪那美命 二柱神
修理固成是多陀用弊流之國 賜天沼矛而 言依賜也
故二柱神立[多多志] 天浮橋而 指下其沼矛以畫者
塩許々袁々呂々迩畫鳴[那志]而 引上時
自其矛末垂落塩之累積 成嶋 是淤能碁呂嶋
ここに天つ神諸の命もちて、伊邪那岐命、伊耶那美命、二柱の神に、「このただよへる國を修め理り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。故、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして畫きたまへば、塩ここををろろに畫き鳴して引き上げし時、その矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。これおのごろ島なり。
天つ神一同ののお言葉で、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神に、「この漂っている国を修め作り固めて完成させなさい」と仰って、天の沼矛を与えて、御委任なさった。
そこで二柱の神は、天の浮橋にお立ちになって、その矛を指し下ろしてかき回した。塩コオロコオロとかき鳴らして引き上げた時、その矛の先から滴り落ちた塩が重なり積もって島となった。これがおのごろ島である。
これが今回取り上げるシーンです。
解説
時代が下ると神はモノに姿を変える説
伊邪那岐命と伊邪那美命はこのシーンで、天つ神から「クラゲのように漂っているこの国を修め理り固め成せ」と命じられます。前回までは、伊邪那岐神、伊邪那美神というように、神と呼ばれていましたが、上位の神から任務を命ぜられると、それが「命」に変わるようです。
さて、この時点ではまだ、世界はクラゲのように漂い、形もままならない状態だったようです。そこでイザナキとイザナミは、天つ神から天の沼矛を賜り、天の浮橋に立ちます。通常このシーンは、何の疑問も持たず、そのまま読み進められてしまうところですが、私は『古事記』全体を通して考えたとき、ここでいくつかの仮説を思いつきました。
一つは、時代が下ると、これまで上位にいた神々はその姿を変え、今度はモノなどに変化して登場してくるのではないだろうかというもの。このシーンでいえば、天の沼矛と天の浮橋は、天つ神が姿を変えたもの、もしくは、天つ神の分身だということ。
正解はわかりませんが、後世の神々は先代の神々を継承するという構造上のルールがあるとするならば、後世の神々が用いるモノも、先代の神々の分身として考えてみてもおかしくはなさそうだなと思いました。
縦と横の構造
もう一つの仮説は、少しマニアックな構造上のルールで、それは、天の沼矛と天の浮橋の形状を通して、縦と横の関係性が暗に示されているというもの。
この縦と横の関係が『古事記』内では結構用いられているなと私は感じていたので、天の沼矛や浮橋は、物語における縦横構造の最初の定義でもあるのかなと思いました。
さて、以上の仮説を採用しながら、さらに先を読み進めてみたいと思います。
塩について
イザナキとイザナミは、天つ神から天の沼矛を賜って、クラゲのように漂っている国をかき混ぜます。そして、矛の先に付いたのが塩だと『古事記』では言われています。
塩は生命活動に欠かせないものです。一般的に、『古事記』で描かれるこの塩は、生命を育む海水のこと、つまり海を指していると言われています。その海をイザナキたちはかき混ぜているとのこと。
その塩について考える前に、まずは尾方昇さんの書籍『塩のちから なぜ塩がないと人は生きられないのか』を参考にして、塩の基本情報から整理していきたいと思います。
塩の主成分は、プラス電気を帯びたナトリウム(Na+)と、マイナス電気を帯びた塩化物(Cl–)がくっついたものです。
まだ地球が生まれたばかりの頃、地表の温度は1500度以上もあり、地球は地面から噴き出る水蒸気や火山ガスに包まれていたため、その当時、まだ海はありませんでした。海ができたのは、地球が誕生してから約6億年も後のことです。
地表が冷えてくるとともに、地面から噴き出していた水蒸気が雨になって、低い場所にたまって海になりました。この雨は、塩素を含んだ酸性の雨だったので、岩の中にあるナトリウムなどの成分を溶かし出しました。そして、海の中で塩の主成分であるナトリウムと塩素が出会い、海水はしょっぱくなったと言われています。しかし、海水の中では、ナトリウムと塩素は別々に存在しているそうです。
塩は海に存在しているだけでなく、岩塩といって、塩が岩のような塊として存在しているものもあります。日本に岩塩はないので、古来より日本の塩作りには海水が用いられ、その海水を煮詰めることで塩を作ってきました。
以上の情報を頭に入れた上で、イザナキたちの行動を見ていきましょう。
塩作り起源説?
イザナキとイザナミは、塩をこおろこおろとかき鳴らしたとのこと。これは先ほどの塩の情報をもとに考えると、ナトリウムと塩素を魔法の杖である天の沼矛でかき回すことによって結合し、結晶化した塩を作り出しているのかもしれない、というイメージが私の頭の中に浮かんできました。
出来上がった塩の活用法について考えてみると、塩は生命活動を維持するために必要なものですが、それだけでなく、ツクヨミが統治する食国を支える調味料や、人間の暮らしを支えてくれる物を作るときに欠かせない塩(工業用の塩)といったように、塩はあらゆるものの創造に欠かせないものだということも見えてきます。ですから、単純にこのシーンを、イザナキとイザナミがあらゆる創造の一番最初に塩を作ったと考えることはできるなと思いました。
ですが、さらに思考の抽象度を上げて考えてみると、こうも言えます。それは、あらゆる創造に欠かせない大切な何かを、『古事記』は創造の一番最初に、塩に象徴させて語っているのかもしれないということ。
塩を象徴として用いると、そこから白い色だったり、ザラザラした感触だったり、しょっぱさだったり、腐るのを防ぐ殺菌作用だったり、湿度が高いと水分を吸い、湿度が低いと水分を放出するといった湿度調節機能だったり、塩だけでいろんなイメージを想起することができます。
多分、『古事記』の読み方としては、物質的な塩の生成として読むよりは、塩が象徴していることを読み取る方が、正しい読み方かもしれません。塩は、何かを強くしたり、安定させたり、調整したりするもの。「いい塩梅」と言うときの「塩梅」。そのように調整された中において創造がはじまる、ということを『古事記』は塩を通して伝えているのかもしれないなと思いました。
さて、そういったことを頭に置きつつ、お話を先に進めましょう。
ここををろろに
魔法の杖である天の沼矛をかき鳴らす音「こおろこおろ」。でも、原文をそのまま読むと「こおろこおろ」とは書いてないんですよね。「ここををろろ」という音になっています。
この件については、あくまで私はこう感じるとしか言えないんですが、私はこの「ここををろろ」という音は、ナトリウムと塩素を結合させるための呪文のようなものに感じるんですね。錬金術的な呪文みたいな感じです。
また、「ここををろろ」を頭の中で反すうしていると、私の中に、次第にある思いが引き出されてきたんです。それは「心を込めて」という思いです。
「ここををろろ。ここををろろ。心を込めて。心を込めて」という感じ。直前の文字に塩があるので、それを含めて現代語訳してみると、「塩を心を込めて混ぜましょう。はい、そうしましょう」みたいな雰囲気になるなと。
イザナキの誘う男神と、イザナミの誘われる女神の要素を入れてみました(笑)
ぬか床宇宙論
そう考えてみたとき、私は「あー、これ、ぬか床っぽいな」と思ったんです。「なんでここでぬか床が出てくるんだ?」と思われるかもしれませんが、ぬか床も一つの象徴として考えてみてください。
ぬか床は、日本の伝統食であるぬか漬けを作るためのものですが、ぬか床を作るときは、最初、米ぬかに塩水を入れるところから始まります。そして、そこに昆布やかつお節、煮干し、唐辛子や捨て野菜を入れて、それを毎日かき混ぜることで、まずは床全体を発酵させます。
発酵によって、ぬか床に乳酸菌や酵母などの微生物が繁殖することで旨味が生まれます。その発酵したぬか床に野菜を漬けると美味しいぬか漬けができるわけですが、この和食の発酵の過程に見られる微生物の繁殖と共存、そして微生物の力によってさまざまなものが変化し生み出されていく様子が、宇宙そして大地が誕生し、そこを舞台にいろんな生態系が生まれ育っていくという過程に似ているなと思ったんです。
現代人には科学があるので、世界のあらゆるものを科学的な視点で考察するわけですが、古代において、科学はまだ生まれていません。ですが、料理というのは、人間が火を持ったときから行われてきたことで、その歴史は科学よりも古いです。そして、食材を焼いたり、茹でたり、蒸したり、また、材料を混ぜたり、発酵させたり、熟成させたりというのは、それは化学反応が起こってのことなので、だから、料理ってじつは立派な科学だと私は思うんです。
そう考えてみたら、古代人が科学の代わりに料理の工程を用いて万物の創造を語るというのは、あり得る話だなと私は思ったんです。しかも、天つ神はイザナキとイザナミに「この国を修め理り固め成せ」と命じたわけです。この「修め理り」の理を「ことわり」として捉えるだけでなく、それを「つくり」と訓ますことから、料理の理とも読めるなと私は思ったんです。
だから、塩に話を戻すと、ぬか床をこしらえ、床全体を発酵させるときのように、『古事記』は万物創造に欠かせない床作りを、塩をスタートにして語っているのかもしれないなと私は思ったんです。
もしこの説に名前をつけるとするならば、「ぬか床宇宙論」なんていうのはいかがでしょうか?(笑)
この考えは、このシーンの最後に登場するおのごろ島をどう考えるか、ということにも繋がってくると思います。
おのごろ島をどう考えるか
語呂合わせ説
天の沼矛で「ここををろろ」とかき鳴らして、その矛の先に塩が付いて、それが滴り落ちて積み重なってできたのがおのごろ島。
おのごろ島は「自ずと凝る」「凝固する」という意味を持っているそうです。私としては、それが塩で出来た島だとすると、そこからイメージするに、色も白そうだなと思いました。
でも、昔の塩は今みたいに真っ白ではないみたいですけどね。
また、このおのごろ島の名前の「ごろ」という部分が、語呂合わせの「ごろ」っぽいなとも感じました。古事記の読み方とその特徴の回でもお話したように、『古事記』は言葉遊びをしたり、韻を踏んだりするので、「そういう風に今後読み進めていってね」という指示的な意味もあるのかなと思いました。
何かしらのルールを持つ島説
さらに、「ごろ」の「ご」は囲碁の「碁」という漢字が当てられているので、何らかの決められた範囲の中で、決められたルールを持つ島なのかなとも思いました。塩から連想される白という色。それは白い紙、もしくはキャンパスともとれます。
その白い島をキャンパスにして、そこに何かをこれから見立てていくのかもしれません。この件については、次回の話で出てくる八尋殿が関係してきそうだなと睨んでいます。それについては後日お話しますね。
このように、私はおのごろ島を物理的な島ではなく、何かしらのルールを持つ島、または白いキャンパスのような領域として考えているので、それは先ほどお話しした、万物創造のための床作りと本質を同じくしているなと感じています。つまりそれは、万物を創造するための舞台だということ。
このシーンはまだ抽象性が高いシーンなので、「塩とはこういうことだ」と答えを絞ることは難しいと考えます。とりあえず私は、宇摩志阿斯訶備比古遅神の「うまし」と「かび」もあって、料理を通してぬか床を万物創造の舞台として考えてみたという感じです。
「ここををろろ」を味わってみよう
さて、最後にもう一度「ここををろろ」に話を戻して、今日のお話を終えたいと思います。
イザナキとイザナミは、これからあらゆるものを創造していくわけですが、それらを「ここををろろ」、心を込めて創造したのかもしれないなと思ってみたら、私はなんだかとっても嬉しいなという、ほっこりとした気持ちになりました。
その他に、この音は鳥が鳴いているような音にも聞こえる感じがします。喉を鳴らしているような音です。鳩のように「ポッポー、ポッポー」じゃないですけど、なんか喉で鳴る、こもった音のようにも感じます。
だから、私としては、「ここををろろ」を「こおろこおろ」と訳してしまうのは、少しもったいない気がしています。この「ここををろろ」には、いろんな意味や思いが込められているかもしれないからです。
以上のことから、私はここをあえて「ここををろろ」と訓んで、その音から広がっていくイメージを、皆さん一人ひとりにじっくり味わっていただきたいなと思っています。『古事記』の世界は、その味わいの、さらにその先に広がっているからです。だから、みなさんもぜひ、「ここををろろ」と繰り返し唱えてみてくださいね。
というわけで、今日はおのごろ島の誕生シーンについてのお話でした。
今回のシーンでは、塩が象徴として用いられていましたが、神話の象徴読みは、象徴されているパーツを字義通り捉えるのではなく、そこから想起されるイメージの方を捉えることが大切だと私は思います。その想起されたイメージの中で、神話が伝えたいことを探っていく形になります。
塩から広がるこれからの『古事記』の展開がますます気になりますね。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!