本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回は、イザナミがホトを焼き病に臥せる中、排泄したものから生じた神々についてのお話をしました。今回は、イザナミの神避りについてお話したいと思います。
まずはいつものように、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。それでは始めます。
原文/読み下し文/現代語訳
故尒伊邪那岐命詔之 愛我那迩妹命乎 謂易子之一木乎
乃匍匐御枕方 匍匐御足方而哭時 於御涙所成神 坐香山之畝尾木本 名泣澤女神
故其所神避之伊邪那美神者 葬出雲國与伯伎國堺比婆之山也
故尒して伊邪那岐命詔りたまひしく、「愛しき我がなに妹の命を、子の一つ木に易へつるかも」と謂りたまひて、すなはち御枕方に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本にまして、泣澤女神と名づく。故、その神避りし伊邪那美神は、出雲國と伯伎國との境の比婆の山に葬りき。
伊邪那岐命は「愛しい我が妻を、一つの子どもに替えてしまった」と言って、枕元に腹ばい、足元に腹ばって泣きわめいた。そのときの涙に成った神は、香山の畝尾の木の本にいる、泣澤女神である。そして、伊邪那美の遺体を出雲の国と伯伎の国との境の比婆の山に葬った。
それでは今日の解説に入ります。
解説
大地母神の遺体のその後
イザナキはイザナミが死んでしまったとき、「愛しき我がなに妹の命を、子の一つ木に易へつるかも」と言いました。これは、今日のお話、そして今後の物語を理解する上で、とても重要なポイントになります。ちなみに、「なに妹(汝妹)」とは、女性を親しんで呼ぶときの言い方です。
「愛しき我がなに妹の命を、子の一つ木に易へつるかも」から、「イザナミの命は子へと姿を変えた」と解釈できます。世界中にある神話の中にも、大地母神が死んだとき、その遺体の各パーツから世界のあらゆるものが生まれたという話があります。
たとえば、北欧神話に出てくる巨人ユミル。ユミルが死んだとき、ギンヌンガガプという、世界の創造の前から存在していた巨大で空虚な裂け目の中央にユミルの遺体を置くことで大地が作られ、骨は山々、血は湖や海と川、脳からは雲、歯と骨からは岩石、髪からは草花が成ったと言われています。
また、中国には盤古という天地開闢の創世神がいて、その神が死んだとき、目からは太陽と月、手足は山、血は川、肉は肥沃な大地、骨は鉱石、髪は草木に成ったと言われています。盤古は大地母神ではないようですが、大地の神であることは間違いないと思われます。
このように、イザナキの言葉と世界各地に伝わる大地母神の神話から、イザナミの遺体もそうなる運命にあるということが読み取れます。
イザナキの豪快な泣きっぷりの不思議
さて、イザナキはイザナミの枕元と足元で、腹ばいになって泣きわめいたとのこと。なんとも豪快な泣きっぷりですよね。それほど悲しかったのだと思われます。
じつは、この豪快な泣きっぷりは、後にスサノヲがこれを受け継ぐんですよね。スサノヲはママっ子だと言われていますが、その根源を辿ると、イザナキの泣きっぷりがスサノヲに継承されたからそういうキャラクターになったのではと私は思うんです。
また、イザナキの泣きっぷりの背景には、イザナキの幼さが暗に隠されているような印象も受けます。その意味が、黄泉の国を訪問したときわかってきます。この件については、追々お話していきますね。
さて、今回イザナキはイザナミの遺体を前にして激しく泣いたわけですが、これは神生み第一弾において、水の神である沫那藝神、沫那美神、そして、頬那藝神、頬那美神が生まれたとき、私が「大地誕生において、神はこれから先、涙を流すことになる」とお話したのを覚えていますでしょうか?今回のシーンがちょうどそれに該当すると思われます。
原始の地球において、熱せられた大地から水蒸気が上がって雲となり、その雲が雨を降らせることで海が生まれた。海を形成するほどの雨の量、それが今回イザナキが大いに泣きわめいたという部分に符合していると思われます。
泣澤女神とは
そして、イザナキの涙から生まれた泣澤女神。この女神が、たぶん、海の形成に符合する存在なのかもしれません。泣澤女神とは、一体どんな存在なのでしょうか?まずは、名前にある「澤(沢)」という言葉から考えてみたいと思います。「沢」にはいろんな意味があるようで…
- 山間部の浅い谷のこと
- 水が溜まって草木が生えている湿地帯のこと
- 潤っていること
- 豊かな恵みがあることetc
また、これまでの神生みの一連の流れも振り返ってみると、最初に海や川、山や渓谷に関する神々が誕生し、次にその神々の要素が反転して、食物や火に関する神々が生まれ、そして、最後の神生みでは、また先代の神々の要素が反転して、今度は地熱エネルギーや温泉を象徴する神々が生まれました。
そのように『古事記』には、先代の神々が反転して次のシーンに関与してくるというルールがあるので、泣澤女神も同じく、先代の神々の要素(水の流れや水が溜まることなど)を継承しつつ、今回は沢に関する自然形態の誕生を語っていると思われます。
ストーリーとしては、イザナキの涙がさわさわと流れ落ち、それが沢を形成した。沢の周囲には草木が生え、湿地帯が出現する。そして、湿地帯の出現は豊かな生態系をもたらす。そのような生命あふれるみずみずしい場所を象徴するのが泣澤女神、という感じかなと思います。
イザナキの悲しみの涙は、泣澤女神となったわけですが、神の悲しみの涙は、葦原中国やそこに住む生き物、そして人間にとって、豊かな自然の恵みをもたらしてくれる涙でもあるということなのかもしれません。これは前回お話した、イザナミの苦しみから生まれたのが温泉で、それを私たちは享受しているということと似ていますよね。神の苦しみは、人間にとっての恵み。神と人間の世界観は反転しているようです。
香山の畝尾の木の本とは?
さて、泣澤女神関連で考察しなければいけないことは、まだまだあります。この女神は、「香山の畝尾の木の本」にいると言われています。「香山の畝尾の木の本」とは、なんだか変な表現ですよね。沢を象徴する女神がいる場所は妙な木の下……。
このように、『古事記』が変わった表現をするときは、その言葉に何かしらの伝えたい思いや情景を秘めている場合が多いです。ですから、「香山の畝尾の木の本」という言葉を一つずつ分解しながら、『古事記』が伝えたいことを考えてみたいと思います。
香山について
まずは香山について。『古事記』解説書によると、香山は実際に存在する山として解説されています。ですが、私の考察では、一旦地名は横に置いておいて、シンプルにその言葉の意味を捉えていきたいと思います。
香山という言葉から、何やら香しい山がイメージできます。前回の話との関連で考えてみると、地熱エネルギーによってボコボコと大地が沸き立ち、熱水が噴出したとするならば、今回のシーンでは、前回のシーンの要素を引き継ぐ形で、大地が何やら熱を持って香っていると考えてみると良いかもしれません。つまりそれは、山が燃えている、もしくは山が燃えた後の煙の匂い、それを香山と言っているのかもしれないということです。
そのように考えたとき、私はピーン!ときました。今回のシーンは、イザナミの死を悲しむシーンです。そこに煙の匂いが立ち込めているとするならば、それはお線香のような香りかもしれないと。香山という言葉には、良い香りのイメージがあり、また、お線香で定番の香りは白檀という香りだからです。もしかしたら、このシーンは、ただイザナミの死を嘆くだけでなく、香山という言葉を通してお葬式のようなシチュエーションも物語っているのかもしれないなと思いました。
畝とは
そう考えたとき、次に出てくる「香山の畝尾」の畝の意味も見えてきました。
畝は、畑や水田において、種を蒔いたり苗を植えたりするためのこんもりとした丘のことを言います。そして、たぶん、畝それ自体がイザナミの遺体が横たわっていることを象徴したものだと思うんです。これが先程お話した、世界を創造する大地母神の話にも繋がってくるんです。
『古事記』は畝という言葉を用いることで、「畝となるイザナミの遺体から、これからいろんな生態系を生み出すよ、育てるよ」ということを伝えているのだと思うんです。
泣澤女神が持つ要素もそうですよね。沢のような湿地帯に新しい生態系が生まれるということ。だから、泣澤女神が持つ要素、イザナミの遺体が横たわっている様子、そして畝は本質を同じくしているのだと思います。つまりそれは、命を育むための土台だということ。
イザナキの涙がもたらしたものとは
そのように考えてみると、イザナキがイザナミの枕元と足元で泣いたことの意味もなんとなくわかってきました。それは、イザナミの遺体を象徴する畝の両端でイザナキが泣いたということ。その行動によって、イザナキの涙は畝を潤し、農作物などが育つための条件が揃ったと読むことができます。
となると、今回はイザナミの死を悲しむシーンではあるけれど、イザナキとイザナミは自分たちを犠牲にしながらも、別の形で新しい命を生み出す準備をしていると考えることもできるなと思いました。
また、畝に水が引かれる様子というのは、一連の神生みの中で、雲が生まれ雨が降って海ができる。山や渓谷ができて、そこに川の流れが生じるといったことの縮図が、このシーンでも繰り返し表現されているなとも思いました。
出雲国、伯伎国、比婆の山とは
さて、イザナキはそのように畝の両端で泣いたとします。すると、その涙に成った泣澤女神は畝の尾、つまり畝の端のどちらか一方にいると読めます。それが「香山の畝尾の木の本」。
「木の本」。なぜ畝の端に木が立っているんだろう。
うーん、よくわかりません。
こういうときは、考察を先に進めながら考えることにしましょう。というわけで、出雲の国と伯伎の国、そして比婆の山について考察をしてから、改めて「香山の畝尾の木の本」について考えてみたいと思います。
イザナミの遺体は、出雲の国と伯伎の国との境の比婆の山に葬ったと言われています。出雲の国は島根県、伯伎の国はお隣の鳥取県だと言われていますが、ここでも地名は一旦置いておいて、「何やら出雲と伯伎という場所がある」というシンプルな思考でいきたいと思います。
出雲国はイザナミの頭説
まずは出雲の国から。出雲の国は、その漢字から「雲が出ている国」と読めます。それは方向で言えば、上ですよね。上とは、今回のシーンで言えば、イザナミの頭ということになるかと思います。
後のストーリーで、スサノヲが高天原から追い出されて、最初に向かう場所が出雲の鳥髪という場所です。鳥の髪、髪の毛、それは頭です。だから、本当の出雲とはイザナミの頭のことなのだと私は一人で勝手に思っています。
正しいかどうかはわかりません(笑)
伯伎国はイザナミの脚説
そして伯伎の国は、出雲の流れでいけば、イザナミの脚ということになるかと思います。なぜそうなるかというと、伯伎の国を音をもって訓んでみると、「お母さんの木の国」と読めるからです。木の国は紀伊の国(和歌山県)だそうですが、ここでも地名は置いておいて……。
木の国は、オオクニヌシが登場するシーンで出てきます。そして、八十神に追われたオオクニヌシが、木の俣から逃げるという展開があります。「俣」は二方向に分かれることを意味するので、木の俣と脚の形状から、伯伎の国はイザナミの脚のことかもしれないなと私は考えました。
比婆の山はイザナミの胴体説
ということで、あくまでも私の仮説ではありますが、イザナミの頭を出雲の国と呼び、脚を伯伎の国と呼んで、出雲の国と伯伎の国の間にある比婆の山に遺体を葬ったと仮定してみると、その比婆の山はイザナミの胴体の部分だと言えるかもしれません。
大地母神の神話を参考にすると、その胴体部分が、今後、葦原中国の大地になるのかもしれません。人間の胴体の中には、食べ物を消化吸収する臓器、腸があります。その腸にはたくさんの腸内細菌が住んでいて、大地の土壌の中にも、同じく、たくさんの菌が住んでいます。人間の胴体は大地の縮図。それをイザナミの胴体が象徴しているのかもしれないなと思いました。
香山の畝尾の木の本とは?Part.2
そして、ここまで思考を進めてきて、私はようやく泣澤女神がいる「香山の畝尾の木の本」がどこなのかが見えてきました。私が考えるに、たぶんそこは、イザナミの股だと思うんです。つまり、ホト(女性器)です。そこに泣澤女神はいるのだろうと。
なぜイザナミのホトに泣澤女神がいるのかというと、香山を考察したとき、お線香の要素を感じ取ったわけですが、ホトという要素も含めて再度香りについて考え直してみたら、私の中にあるものが浮かんできたからです。それは香木です。
香木とは
香木というのは、広い意味では、樹木から採れる香料全般のことで、通常は伽羅・沈香・白檀を指します。簡単に言えば、お香のことです。お線香はお葬式のイメージが強いので、お香と感じないかもしれませんが、お線香も立派なお香です。そして香木は、その欠片に熱を与えることで、立ってきた香りを楽しむことができるというものです。
奈良の正倉院には蘭奢待という香木が保管されていて、その蘭奢待の香りを、織田信長など時の天下人たちは求めたそうです。その蘭奢待は、杏仁豆腐の杏仁のような甘い香りがするそうです。
「香山」「香木」「甘い香り」「イザナミのホト」というワードを頭の中でグルグルと巡らせてみたとき、「あ、そういえば、『古事記』では、沢のような、水が溜まっているような場所に木が立っていて、面白いことに、その木の周辺で男女の神々が出会って恋に落ちるという展開があるなあ」と気づいたんです。もしかしたら、その木が香木なんじゃないかなと。甘い香りというのは、男女の色恋には欠かせない香りですよね。
フェロモンとしての香木
また、蘭奢待を調べていく中で、面白いことも発見したんです。
蘭奢待の名前の由来なんですが、それは「蘭麝」から取られたものだそうです。蘭麝とは、蘭の花と麝香のことで、麝香とは、雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥したもののことを言うそうです。
この香りはどんな香りなのかというと、じつはこれ、ムスクだそうです。ムスクといえば、香水では定番中の定番といった香りですよね。天然のムスクは、ジャコウジカの雄が持っている匂いだそうです。
そして、この天然のムスクは薬として、また媚薬としても効果を発揮するそうです。つまり、フェロモンということ。あの絶世の美女クレオパトラもアントニウスを振り向かせるために、このムスクの香りをまとっていたと言われています。
このように、天然のムスクは有史以前から人々に愛されてきたわけですが、そのためにたくさんのジャコウジカが殺され、今現在、絶滅危惧種に認定されているそうです。ワシントン条約で捕獲が禁止されたことを受け、天然のムスクに似た合成のムスクが開発され、それが今現在私たちが楽しんでいるムスクの香りになります。
そして、この話が今回の話にも繋がってくるんですね。『古事記』にはこれまで、たくさんの「鹿」という漢字を名前に持つ神々が生まれていました。ジャコウジカへの布石は、すでにたくさん散りばめられていたというわけです。そして、今回出てきた香山は、悲しみを表すお線香の香りだけでなく、喜びを与えるフェロモン的な香りも持っているのだと思うんです。
以上を踏まえると、泣澤女神がいる「香山の畝尾の木の本」はこういう場所だと言えます。香山はお香のような香りが漂う場所。畝尾の木の本は大地母神イザナミの胴体の端、つまりホトであり、そこにいるのが湿地帯を象徴した女神、泣澤女神。そして、甘い香りに包まれたその場所が、新たな神々の性愛の場所となる、という感じ。
上手くまとまりました!←自画自賛(笑)
なんてセクシーでロマンチックな話なんでしょう!
今回のシーンはイザナミの死を嘆くだけのシーンかと思いきや、「香山の畝尾の木の本」というたった九文字(原文では七文字)で、イザナミの遺体が新たな生態系を育む畝に変わること、そして、泣澤女神がいる場所が後世の男女神の性愛の場所になること、そこがイザナミのホトだということを伝えていたんですね。
そのような答えに行き着くための重要なキーワードが「香山」。香山から感じ取った煙の匂いをお線香の香りと捉えた場合、今回のシーンは死を描いているシーンとなり、逆に煙の匂いを蘭麝の香りと捉えた場合、今回のシーンは新しい生(それは性愛と新しい命の誕生)の予感を告げているシーンにもなるということ。その生と死の両方を象徴したものが香山。
ということは、『古事記』は出来事の一側面だけを語るのではなく、とあるキーワードを通して、死の先には新しい生がある、悲しみの裏には喜びがあるといったように、物事の二面性を同時に語るという、とんでもない手法をやってのけているようですね。
いや~、すごいです!人間技じゃないですよね…。
補完関係にある男女神
というわけで、以上がイザナミの神避りについてのお話でした。最後に、今回のシーンを考察する中で、私がようやく気づいたあることについてお話をして、今日のお話を終えたいと思います。
私が気づいたこと。それは、イザナキの「ナキ」とは泣くこと、そして、イザナミの「ナミ」は涙の「なみ」を意味していたのではないだろうかということ。そこから考えるに、男女神は夫婦という関係性だけでなく、お互いを補完しあう関係でもあるのかもしれないなということに、今更ながらに気づきました。男神が行動、女神がその結果を象徴しているということ。
だから今回、イザナキの泣くという行動によって、結果として涙が流れ、そして女神が生まれたのだと思うんです。男女神の違いは、外から見るか、内から見るかといったように、物事を捉えるときの視点の違いのことを象徴しているのかもしれません。これは先程お話した、物事の表と裏を同時に語る『古事記』の手法と本質を同じくしているのだと思われます。
ということで、今日の解説はここまでとさせていただきます。次回は、イザナキによって火の神様が殺されるシーンについてお話したいと思います。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!