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【ろじろじラジオ】第55回放送☆ユング心理学で紐解く『千と千尋の神隠し』

No55:千と千尋の神隠しアイキャッチ ユング心理学
natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第55回放送時のトーク内容全文をご紹介します。

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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

前々回の放送では、心の構造である四位一体について、そして、前回の放送では、女主人グレートマザーと、男性性、女性性の関係についてお話をしました。そのお話の後半で、女主人グレートマザーと男女の協働作業が、ジブリ映画の主題になっているとお話しました。

ということで、今日は『千と千尋の神隠し』を取り上げて、ジブリの世界を心の深層世界として捉えながら、ユング心理学をベースに映画解説をしてみたいと思います。映画すべてに触れるのは時間的に無理なので、ポイントとなる部分を8つピックアップして解説していきたいと思います。

ピックアップするポイント8つ

  1. 不思議な世界への入り口
  2. 油屋とは
  3. ハクとの出会い
  4. 釜爺から湯婆婆への流れ
  5. カオナシの正体
  6. 沼の底と銭婆
  7. 現実世界への帰還
  8. 初潮が意味すること

【1】不思議な世界への入り口

不思議なトンネルを抜けると…

トンネル

10歳になる千尋は、親の都合で転校を余儀なくされたため、この物語は引っ越しをするシーンから始まります。ひ弱で、甘えん坊で、まだまだ幼さの残る千尋。

お父さんが道を間違えたのか、車は森の中をどんどん進んでいってしまいます。そして、目の前に現れる風変わりな建物と薄気味悪いトンネル。不気味さを覚えながらも、好奇心から、千尋の家族は車を降りて、トンネルの中をどんどん進んでいきます。そしてそこに現れる駅、さらに駅構内を抜けると、外には草原と小川。

不思議なトンネルから駅構内を抜け、細い小川を渡るそのシーンは、深層心理的にいえば、無意識の世界へ足を踏み入れたことを象徴していると思われます。川の側にあるカエルの石像。神話やおとぎ話などにおいて、カエルは意識界と無意識界をつなぐ橋渡し役を担っています。

このカエルの石像が、飲食店街に入ると魚に変わっています。爬虫類から魚類へと生物進化の逆をいっているので、陸から海へ、意識界から無意識界へという流れとして捉えていいんじゃないかなと思っています。

この一つ目の駅は、後半のシーンにある銭婆へと向かう駅と合わせると、全体像が見えてくる形になります。その件については後半で触れますね。

湯婆婆のモデルはキルケ?

豚

千尋たちは摩訶不思議な飲食店街に足を踏み入れます。人気のない街。いろんなところに描かれる不気味な眼のマーク。じつはこの眼もとても重要な意味を持っているので、これについても後半で触れます。

さて、お父さんとお母さんはその飲食店街で、店主への断りもなしに食事を始めてしまいます。このことがきっかけで、二人は豚にされてしまいます。

豚にされてしまう理由は、この物語に出てくる湯婆婆がギリシャ神話のキルケという魔女がモデルになっているからかなと思います。神話では、キルケが英雄オデュッセウスの部下に毒を盛り、豚にしてしまうというシーンがあるからです。過去の作品も通して考えてみると、宮崎駿監督は神話にとても詳しいのだと思われます。

千尋の両親は、店主のことわりもなしに食事をしてしまったため、豚にされてしまいますが、この映画では礼儀正しさということが重要な態度として描かれています。これは深層心理の観点からみても、ものすごく大切なことを示唆していると私は考えているので、このことについても後で触れたいと思います。

【2】油屋とは

八百万の神々のスパランド

温泉

のちに湯婆婆が教えてくれますが、油屋は八百万の神々が疲れを癒やすお湯屋なのだそうです。日本人のお風呂好きの原点かもしれません。

お風呂屋さんなのに「油」と書かれているのぼり旗などが気になりますよね。たぶん、この「油」は精油のことを指しているのかもしれません。精油とお湯の共通点は浄化、つまりそれらの言葉には身を清めるという意味が込められていると考えます。

キリスト教でも油を用いる儀式があるようで、その儀式によって霊性が高まるとされているようです。身を清め、霊性を高める、まさに油屋は八百万の神々専用のスパランドなのだと思われます。

身を清める場、お風呂場というのは、ユング心理学では女性原理の場だとされています。つまり油屋とは、女性原理を支配しているグレートマザーの聖域を象徴したものであり、そこを支配する魔女の湯婆婆は、グレートマザーをキャラクター化したものだということがわかります。

そして、湯婆婆の双子の姉の銭婆もグレートマザーなのですが、グレートマザーが二人いるというこの構図は、ユング心理学ではあまり見られない、宮崎駿監督ならではの構図だと思います。でもこの構図がとっても重要なんですね。それも後々触れていきますね。

ちなみに、千尋のお母さんと湯婆婆と銭婆は同じゴールドの丸いピアスをしています。これは意識界での母と無意識界での母という、二種類の母親像を描いているということの一つの根拠になるかなと思います。

油屋は性風俗なのか?

さて、油屋に話を戻します。聞くところによると、「油屋で働く女性は遊女であり、油屋は性風俗である」という解釈がされているようですが、私としては、これは半分当たっていて半分は違う、それは男性がイメージする性的なものとは違うと考えています。

前回のお話で、古代ギリシャ人たちは宇宙をコスモスと呼び、そこに愛と美と性を司るアフロディーテをイメージしていたとお話しました。そのアフロディーテもグレートマザーです。

この女性原理の世界は、愛も美も性も一つになった世界、生と死も同時に含む世界であり、すべてが一体となって秩序を保って存在しています。それがワンセットになった世界が神の世界であり、そこに女の本質があります。

ですから、油屋もそのような神聖な場として捉えなければいけないのですが、現代人はどうしても性的なものだけを切り取って見てしまうので、油屋の次元を下げていやらしい場として考えてしまいがちです。

この点に関しては、私も説明するのがたいへん難しいです。性に対する誤った観念があるからです。どう説明しても誤解して捉えられてしまうと思うので、とりあえずここでは「油屋は性風俗なのか?」という問いには、半分あっていて半分違う、という解答にしておきたいと思います。

【3】ハクとの出会い

ハクは千尋のお兄ちゃん説

川

ハクはいつも千尋を助けてくれる王子様的存在であり、ジブリではかならず男女が協力して課題を乗り越えるストーリーが描かれます。

ハクは、のちに自分は川の主であり、千尋が小さい頃川に落ちたその川こそが自分なのだと話します。ジブリにたいへん詳しいオタキングこと岡田斗司夫さんが、「ハクは千尋のお兄ちゃんで、川に落ちた千尋を救う代わりに命を落とした」と話されていました。小さかった千尋はお兄ちゃんの存在を覚えていませんが、その事故がきっかけで、千尋のお母さんは彼女に対して冷たいのだとのこと。

たしかに千尋のお母さんは「千尋、早くしなさい」「千尋、あまりくっつかないで。歩きにくいじゃない」と、冷たい態度をとりますよね。長男を亡くしたお母さんの悲しみが、無意識的に千尋への冷たい態度に現れているという考察は見事だなと思いました。

三位一体構造の千尋家族

ここに私なりの考察を加えると、おとぎ話というのは深層心理の世界を描いたものなので、そこには心の構造である四位一体が描かれる形になります。この物語も、最初はお父さんとお母さん、そして千尋の三位一体構造から始まります。ハクの登場によって今後四位一体構造が布置されていくことが予想されます。

そして、おとぎ話には典型的な母親が冷たいという設定。ときにそれは冷酷な継母として描かれることもあります。シンデレラの設定を思い出していただけるとわかりやすいかと思います。この母親の母性の欠如というのは、主人公を成長や自立へと向かわせるために必須の初期設定になります。

三位一体構造では、家庭内は不穏な状態であり、4を見つけることで、千尋の成長と自立、そして千尋の家族の中にも何か新しい変化が生まれることが予想されます。

四位一体構造の獲得には、千尋とハクの協働作業を通した課題克服が必須になります。その課題をグレートマザーである湯婆婆と銭婆は与えていくことになります。

【4】釜爺から湯婆婆への流れ

釜爺はなぜクモなのか

くもの巣

千尋はハクから「お父さんとお母さんを救うため、そして元の世界に帰るためには、釜爺のところに行って「働きたい」と言うんだ。この世界では働かない者は動物にされてしまうから」とアドバイスを受けます。そして千尋は長い階段を降りていき、アシナガグモのような姿をした釜爺のところへ行って、働かせてくれるよう頼みます。

ここで注目ポイント、それはクモという存在です。古来よりクモは糸を紡ぐ者とされ、それは言い換えると、関係性を構築する役割を担うものという意味があります。ハクが釜爺のところへ行けと言ったのも、釜爺が油屋の人々との最初の関係を繋いでくれるからだと思います。

その役割どおり、釜爺はリンという先輩を紹介してくれます。リンは、最初は千尋に冷たいですが、湯婆婆と千尋が仕事の契約を交わしたあとは、とても優しい先輩として千尋をサポートしていきます。

おとぎ話において女性が精神的に成長していくとき、リンのような目標となる大人の女性像が描かれることがあります。おとぎ話でなくても、現実において女性はロールモデルになるような存在に憧れを抱きます。リンは、千尋が憧れる自立した女性像なのだと思います。

湯婆婆の試練

そんな千尋は湯婆婆のところに赴き、働かせてくれるよう頼みます。しかし湯婆婆は断ります。ここで湯婆婆は千尋にさまざまな試練を与えます。

  1. 家に帰りたいと言わせるために、脅して弱音を吐かせる
  2. 誰がここまでサポートして連れてきたのか口を割らせる

ここでは千尋の意志を貫き通す心の強さが試されています。この最初の試練に合格し、晴れて千尋は油屋で働くことを許可されることになります。

ここでの千尋の態度は、心の成長において自分の無意識と向き合う際に必要な態度でもあると考えます。無意識は、ときに湯婆婆の魔女性に象徴されるように、恐ろしいものとしてたち現れてくるからです。それと真摯に向き合うためには、強い意志と勇気が必要になります。

名前を取られた千尋

契約書

そして、ここで千尋は湯婆婆によって名前を「千」に変えられてしまいます。ハクは「湯婆婆は相手の名前を取って、相手を支配するのだ」と教えてくれます。

原初の女性原理の世界では、そこに属する者の意識は、主体的な意識はまだ薄い状態にあります。そして、その世界は個よりも全体性を重んじる母権的社会でもあるので、名前を取るというのはそういったことを表現しているのかなと感じました。自我が未発達な、母親の保護下にある幼い子どものようなイメージですね。

『千と千尋の神隠し』は自立をテーマにしているので、名前を奪われて支配されてしまうけれど、自分の名前は忘れてはいけない、それが自我として自立するときに必要なんだ、という名前の本質みたいなものを描いているのかなと思います。

坊という存在

さてさて、この契約のシーンではもう一つ興味深いシーンがありますよね。それは坊の存在です。おっきな赤ちゃんですね。湯婆婆は坊を甘やかしながら育てています。この描写が宮崎駿監督の面白いところで、グレートマザーの一側面を描いていると私は感じました。

グレートマザーは、私たち人類の意識を育てる大いなる母であり、子どもたちを優しく包みこみながら、みなを平等に育てようとします。その反面、自分の膝下から離れようとする子どもに対してはとても厳しく、すべてを呑み込み、死に至らしめようともします。

死というのは、物理的なことではなく、子どもの成長においてその成長を止めることを象徴しています。湯婆婆の坊に対する過保護っぷりは、子どもの成長を妨げるものとして描かれていると感じます。宮崎駿監督はそのグレートマザーの一側面を面白おかしく描いているのだなと思いました。

そしてここでわかることは、湯婆婆はグレートマザーの闇の部分を描いたキャラクターだということ。

湯婆婆が呆れながら言っていますが、「つまらない誓いをたてちまったもんだよ。働きたいものには仕事をやるだなんて」と。これは双子の姉である銭婆との約束なのだと思います。ということは、銭婆は油屋の人たち、そして千を自立させる存在だということが見えてきます。これは光であり父性原理の力を持っています。このことについてはまた後ほど触れますね。

【5】カオナシの正体

影

カオナシはいつも千の前に現れて「あっ…、あっ…」と言っている、お面を被った黒い存在です。

あるときとてつもない異臭を放つ汚れた神様が油屋を訪れたとき、千は初めての仕事を任されます。カオナシが千に薬湯の札を与えたことで、千はその仕事をやり遂げます。「カオナシっていいやつじゃん!」と思ったのもつかの間、カオナシは千の気を惹きたい一心で、金で油屋の人々を騙し、そして飲み込み、どんどん巨大化して暴れていきます。

このカオナシは、明らかに、ユング心理学の元型「影(シャドー)」に該当すると考えます。影という元型は、自我の自分が生きられなかったもう一人の自分です。生きられなかったものとは、抑圧した感情や自分が認めたくない部分、そして私利私欲なども含まれます。それが一つの集合体を形成し生命を持ったもの、それが影です。

ユング心理学では、影を認識し、影を統合することが心の成長の第一ステップだと言います。

千は、様子がおかしくなり、また激しく傷をおっているハクを救わなければいけない状況下で、ハクを救う前に、まずは凶暴化したカオナシと向き合うことを決意します。千は力強い真っ直ぐな目をカオナシに向けて、ひどい行為をやめるよう言います。

カオナシは「さみしい…、さみしい…」とつぶやきます。きっと影という元型も、自我に振り向いてほしくて、いつも寂しい思いをしているのだろうなと思います。自我が向き合ってくれないから、凶暴化してしまうんですね。

千は川の神様からもらった苦団子をカオナシの口に投げ、カオナシは猛烈に暴れて嘔吐しながらも、次第に元の姿に戻っていきます。

【6】沼の底と銭婆

沼の底が象徴するもの

線路

ハクがなぜ傷を負っているかというと、湯婆婆から呪いをかけられているからです。さらにハクは、湯婆婆の双子の姉である銭婆からハンコも盗んでいました。

千はハクを救うため、ハクがしたことを代わりに謝るために、銭婆のところに行きたいと釜爺に話します。釜爺は40年前の電車の切符をタンスから出してきて千に渡します。

電車に乗って6つ目の「沼の底」という駅まで行くこと、近頃では帰りの電車はないことなどを千に教えます。ここで、銭婆は6つ目の駅である「沼の底」という地にいるということですが、沼の底とは、深層心理的には、無意識の深みを象徴するものだと考えます。

そして帰りの電車がないことが意味するのは、昔と比べて無意識は意識界との交流が絶たれているということを象徴していると考えます。無意識の深みへ行くことはできても、帰ってこられる保証はないということ。まさに現代の私たちの意識状態のことを指していると感じます。

人が自立へ向かうとき、一度はかならず無意識の深みへ入っていくことが求められます。このときの意識水準の低下は避けられません。そして、それはたいへん危険な旅でもあります。

無意識の深みに至るシーンは、ときに海の中や洞窟、地下室だったりもします。ジブリ作品では『天空の城ラピュタ』でも一度、炭鉱の地下へと下っていくシーンがあります。『千と千尋の神隠し』では、「沼の底」という名の町として描かれています。

沼の底は7つ目の駅

そして、この6つ目の駅である「沼の底」は、じつは6つ目ではなく、7つ目なんですよね。なぜなら、千尋家族は最初この世界に入ってくるとき、すでに一つ目の駅を通っているからです。

natan
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ま、その最初のところを駅としたならば、という話ではあるんですが…。

もしそうだと仮定したならば、そこから数えると「沼の底」は7つ目の駅になります。

7という数字はとても意味深いもので、ヌーソロジーを参考にしてみると、人間の精神構造は7の倍数で脈動していたり、7は宇宙全体からみて中間を意味していたり、観察子ψ7は愛を象徴していたりします。傷ついたハクとその側にいる千を見て、リンが驚いているとき、釜爺が「愛だ、愛」と言ったことが不思議と数字の7に繋がってきますね。

銭婆の役割とは

毛糸

さて、千は銭婆のいるところへ電車で向かうわけですが、そこでも面白い構図が見られます。千、そして虫のようなものに変身させられた湯婆婆の手下と、これまた同じく小さい動物に変身させられた坊、そしてカオナシの四人で向かうことになります。ここも不思議と四位一体構造が布置されていますね。でもここでの四位一体は千が中心で、千が率いる構造になっています。

日が陰り、どんどん暗くなっていく世界の中を、電車は千たちだけを乗せて進んでいきます。暗い沼の底の駅を降りとぼとぼと歩いていくと、一本足の照明が千たちを誘導してくれます。そしてようやく到着した銭婆の家。

銭婆は湯婆婆とは違い、とても優しい魔女です。銭婆の正体は一体何者かというと、銭婆の「銭」は経済を表し、それは男性性を象徴していると考えます。ですから、銭婆はグレートマザーのもう一つの側面、父性原理を象徴しています。そして、銭婆は糸を引き、編み物をしています。これは神話やおとぎ話ではお馴染みのものであり、女性原理を象徴しています。古来より編み物は女性の仕事でした。

ここで「グレートマザーは女性原理(母性原理)でもあり、父性原理でもあるの?」と疑問に思われるかもしれませんが、そうです、グレートマザーは両方の原理を持っています。ここがグレートマザーのあり方のややこしいところなんですよね。

お話戻りまして、編み物などで使う糸というのは、女性の本質である関係性を構築する力を象徴しています。釜爺のクモという存在もそうでしたね。女性のこの関係性を構築する力のことを「エロス」と言います。

女性の自立に必要なこと

長い時間、銭婆の家にとどまっていた千は、銭婆に「おばあちゃん、私ハクを迎えにいかなきゃ。このままじゃハクが死んじゃう」と涙ながらに話します。銭婆は千を優しくなだめ、みんなで紡いだ糸を編み込んだヘアゴムを千にプレゼントします。

ここで私の深読みポイントなんですが、ユング派の河合隼雄先生は、書籍の中で「女性の自立というのは、耐えること、そして時がくるのを待つことだ」と話されていました。千も銭婆にここにしばらくとどまるよう言われています。

油屋で一生懸命仕事をして耐えた千、そしてハクの過ちを変わりに謝ろうとする、その責任を自ら負った千、さらに銭婆の家で時を待つことを求められた千。私としては女性の自立の過程がここに描かれているなと感じます。

これは女性だけに限らず、これまでの放送でもお話してきたように、日本人の自我性が女性的なので、男女問わず、私たち日本人は耐えること、そして時が来るのを待つことを求められていると考えます。

natan
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ハクも言っていましたね、「耐えて機会を待つんだ」と。

第二次世界大戦が終わったときの、昭和天皇の玉音放送の言葉が違った意味をもって心に響いてきます。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、これからもずっと続いていく未来のために、平和への扉を開きたい」。

natan
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平和への扉、それが4なんだろうなと…。

さてお話に戻ると、そうこうしているうちに、ベストタイミングでハクが千を迎えにやってきます。千は銭婆に「私の名前、本当は千尋っていうの」と話し、銭婆は「千尋、いい名前だね。自分の名前を大事にね」と彼女を送り出します。自我の復活です。

そしてカオナシは銭婆の元にとどまるよう言われます。これで影という元型が女性原理の中に相対化された、つまり千尋は彼女の中に影を統合できた、ということになるかと思います。

千尋がハクの背中に乗って帰るとき、今度は千尋がハクを湯婆婆の魔法から解き放ちます。「あなたの名前はこはく川」と。千尋が女性原理の聖なる力を得たことを象徴するシーンだと私は思いました。

【7】現実世界への帰還

真実を見通す力の獲得

目

油屋の入り口で千尋たちの帰りを待っていた湯婆婆は、最後に、千尋に豚の中から両親を探せと命じます。千尋はじっと豚を見つめ、ハッと気づきます。「だめ、この中にお父さんとお母さんはいない」と。「それは本当かい?」と問われ、「うん!」と力強く答える千尋。すると見事大当たり〜!お父さんとお母さんはすでに魔法を解かれ、川の向こうで待っているとのこと。

ここは最終課題をこなすシーンだったと思います。ここで試されたのは、真実を見る目を持っているか、ということだと考えます。本質を見極めること、それは女性の中の男性性の力である直観機能を正しく使うことを意味します。銭婆から受け継いだ男性性の力だと思います。

natan
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たぶん、ユング派なら絶対こういう解釈をすると思います(笑)

そしてこの真実の目と繋がってくるのが、あの摩訶不思議な飲食店街の至るところに描かれた眼の正体です。これまで『千と千尋の神隠し』の舞台は無意識の世界であり、油屋は女性原理の聖域を象徴していると話してきました。

この世界は、言い換えると、魂の世界とも言えます。そして魂についてユングは「魂は球体であり、そのすべての面に眼がついている、という報告がある」と話します。ですから、街の至るところに描かれた眼は魂の眼であり、それは本質を見極める眼でもあるのではないかなと思います。心眼とも呼ばれるものですね。

時間軸が異なる二つの世界

時間

千尋はハクと共にもと来た川の前まで一緒に行き、そこでハクと別れます。「絶対後ろを振り向いてはいけないよ」と言われ、千尋はそれを守ります。人間に戻ったお父さんとお母さんと再会し、再度長いトンネルを抜けると、ようやく元の世界に戻ることができました。

しかし乗ってきた車はホコリだらけで、来たときからかなり時間が経ってしまっているようです。それもそのはず、無意識の世界と現実世界は時間軸が異なるので、浦島太郎伝説にも描かれるように、元の世界に戻ったとき、世界は様変わりしているという展開がお決まりです。

お話冒頭でギリシャ神話のキルケについて触れましたが、英雄オデュッセウスがキルケの館で飲み食いをしていたら、あっという間に一年が過ぎていたそうです。それを考えると、千尋たち一家も、もしかしたら約一年その世界にいたのかもしれませんね。

そして、唯一銭婆がくれたヘアゴムだけが千尋のもとに残されました。ヘアゴムはみんなで紡いだ糸を編み込んだもの。それは女の本質である関係性を構築する力を象徴し、けっして無意識の世界は現実世界と切り離されてはおらず、糸のように細いけれども、確実に互いの世界は編み込まれ、関係しあっているということを伝えていると私は思います。このヘアゴムは、これからの千尋の心の支えになってくれることでしょう。

【8】初潮が意味すること

物語は子宮で終わる

お腹にハート

この物語は、千尋の自立と成長がテーマになっているようで、千尋はこの後大人への成長の第一歩として、初潮を迎えると思います。物語の中で、千尋が「クラクラする…」とか「うっ…」と言って、お腹を抱えるシーンがありますが、ちまたではそのシーンが初潮を迎えた瞬間であると解釈されているようです。

でも、私としては物語のその後に初潮を迎えるという展開の方が個人的には好きです。

natan
natan

好みの問題かって感じですけど(笑)

でも、着実に大人の女性への道を歩み始めたと言えると思います。

前回お話した男性性と女性性の結合を通しての四位一体の達成は、霊的な妊娠を象徴しているとお話しました。この物語では、最後に千尋の初潮という、やはりこれまた女性の子宮内で起こる新しい出来事によって、物語が一つの完成をみるのだと思います。

物語は子宮で終わり、そして、子宮から始まる。これが宇宙の普遍的なサイクルです。

心の世界は礼儀作法が求められる

あと、お話前半で触れた礼儀正しさについて。心の世界というのは、礼儀作法が求められる世界だというのが私の考えです。女性原理の世界というのは、無断で何かをしたり、勝手に足を踏み入れてはいけない神聖な世界です。

日本において神社への参拝にも礼儀作法が求められますよね。その理由は、神社も女性原理の場所だからだと思います。神社の鳥居は女性器を表していること、そして、そこから続く参道は子を生む産道でもあること。手や口を清め、そして神様に自分の名を名乗り、そして日頃の感謝を伝えること。

日本は、心の世界を大切にする文化を持った国です。物語の中でも、礼儀正しさが求められていますが、それは大人になるためには必須のものであり、また、私たちが無意識との関係性を構築していくときにも、それが求められることを教えてくれているのだと思います。

これがしっかりできないと、千尋の両親のように豚にされてしまったり、前回お話したように、ギリシャ神話においてグレートマザーによって王子アクタイオンは殺されてしまいます。神聖な世界、それが女性原理の世界です。

おわりに

というわけで、今日は『千と千尋の神隠し』をユング心理学を通して見てきましたが、いかがだったでしょうか?この作品は、第75回アカデミー賞で、アカデミー長編アニメ映画賞を受賞しました。私としても、この作品は非常に完成度が高く、国を問わず、世界各国の人々の無意識に響く作品だと感じています。

宮崎駿監督の作品は、現代版の神話だというのが私の考えです。女性的な日本人の自我性が、どうすれば自立へ向かうことができるのかということを、監督は作品を通じて私たちに語ってくれていると感じます。

監督が見ている世界は、ユング心理学でいう元型の世界、そこは私たちの集合的無意識の世界です。監督はアイデアを出すことについて、こう語っていらっしゃいます。

考えるしかないんです。本当に考えると、鼻の奥が血の匂いがしてきます。でも浮かばないものはしょうがないですから、そのうちにひょいと出てくるときがあるんですよね。そのために頑張るしかない。これは僕の勝手な考えですが、人間の脳みその表面の部分でものを考えてる、その下に無意識っていう層がありますけど、そのさらに下にはもう少し暗い部分があると思ってます。それでストーリーを考えたり映画を作るときにその意識した部分で作ってると、どっかでつまらないんですよね。ところが無意識っていうのは簡単に出てきてくれないんです。うんと困って表面が疲れ果てると、中からぷっと出てくるんです。でも無意識だけでは足りなくて、その無意識のさらにもっと奥の方から出てくるには、相当血の匂いを嗅がないといけないんです。

【名言集】宮崎駿監督が考える「人生」「仕事」「アイデアの出し方」より

私はジブリとともに生まれ、ジブリとともに育ってきました。小さい頃からジブリが大好きで、『天空の城ラピュタ』は何十回も見たし、セリフも全部覚えるくらい大好きです。

なぜジブリにこんなに惹かれるのか、今になってようやくわかったような気がします。私たちの無意識が求めているものがそこにあるからだと思います。無意識や心の声を聞くことの大切さ、そして、その先では自我の自立が求められていることをジブリは教えてくれています。

心の成長には四位一体構造の達成が必須です。4は女性原理を表します。私たちの意識は未だ三位一体構造です。どうすれば4を獲得できるのか、その過程をジブリ作品は教えてくれています。私は、ジブリがある時代に生まれて、本当に、本当に、幸せだなと思っています。

以上が、ユング心理学で紐解く『千と千尋の神隠し』についてのお話でした。今日のお話が、みなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。

natan
natan

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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