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古事記☆新解釈【17】「黄泉の国=死者の国」じゃない説/黄泉の国②

古事記☆新解釈「黄泉の国②」アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

前回からスタートした黄泉の国の解説。前回の内容を簡単におさらいすると、黄泉の国はストーリー全体を通して、生と死の起源について語っています。そして、その生と死を分かつ要因として、前回のシーンからは三つほど読み取れるものがあり、それは病気、地震、心の貧しさでした。その他、イザナミはイザナキの心を映す鏡でもあったということから、黄泉の国は心を映す鏡的世界でもある、というお話もさせていただきました。

今日お話する内容は、従来の「黄泉の国=死者の国」という認識は本当に正しいのか?ということをテーマに、イザナキが黄泉の軍勢から逃げるシーンに触れながら、その疑問を紐解いていきたいと思います。また、前回触れられなかった生死を分かつその他の要因や、ヨモツシコメの正体についても触れていきたいと思います。

まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。

原文/読み下し文/現代語訳

古事記「黄泉の国②-1」(原文/読み下し文/現代語訳)

於是伊邪那岐命 見畏而逃還之時 其妹伊邪那美命 言令見辱吾
卽遣豫母都志許賣 令追
尒伊邪那岐命 取黒御鬘投棄 乃生蒲子 是摭食之間 逃行 猶追
亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄 乃生笋 是拔食之間 逃行

ここに伊邪那岐命、かしこみて逃げ還りし時、そのいも伊邪那美命「あれはぢせつ」と言ひて、すなはちよもつしこめつかはして追はしめき。
しかして伊邪那岐命、くろかづらを取り投げつれば、すなはち蒲子えびかずらのみりき。これをひろむ間に逃げ行くを、なほ追ひ、またその右のみづらに刺せる湯津津間ゆつつまぐしを引ききて投げ棄つると、すなわちたかむな生りき。これを抜き食む間に逃げ行きき。

古事記「黄泉の国②-2」(原文/読み下し文/現代語訳)

それを見た伊邪那岐命は恐ろしくなり、逃げ帰ろうとしたとき、妻の伊邪那美命が「私に恥を見せたな」と言って、黄泉醜女に後を追わせた。伊邪那岐命は黒御かづらを取って投げ捨てると、そこに山ぶどうの実がなった。これを(黄泉醜女が)拾って食べている間に逃げた。しかし、なおも追ってくる。今度は右のみづらに刺してある湯津津間櫛を引っ掻いて投げ捨てると、そこに竹の子が生えた。これを抜いて食べている間に逃げた。

古事記「黄泉の国②-3」(原文/読み下し文/現代語訳)

且後者於其八雷神 副千五百之黄泉軍令追 尒拔所御佩之十拳劒
而 於後手布伎都都逃来 猶追 到黄泉比良坂之坂本時 取在其坂本桃子三箇待撃者 悉迯返也 尒伊邪那岐命 告其桃子 汝如助吾 於葦原中國所有 宇都志伎青人草之 落苦瀬而患惚時 可助告 賜名號意富加牟豆美

またのちにはその柱のいかづち神に千五百ちいほ黄泉よみいくさへて追はしめき。しかしてかせるつかのつるぎを抜きて、後手しりへでふきつつ逃げるを、なほ追ひ、黄泉よもつひら坂の坂本に到りし時、その坂本にある桃子もものみ三箇みつを取りて待ちてば、ことごとに逃げ返りき。尒して伊邪那岐命、その桃子にりたまひしく「なれあれを助けしが如く、あし原中はらのなかつくににあらゆるうつしき青人草あをひとくさの苦しき瀬に落ちてうれなやむ時、助くべし」と告りて、名を賜ひて、おほかむづみのみことなづけたまひき。

古事記「黄泉の国②-4」(原文/読み下し文/現代語訳)

また(伊邪那美命は)その後ろに、八柱の雷神に千五百の黄泉の軍勢を添えて追わせた。そうして、(伊邪那岐命は)腰に帯びた十拳剣を抜いて、それを後ろ手で振りながら逃げたが、なおも(雷神はその後を)追ってきた。
黄泉比良坂の坂本に至ったとき、そこに桃の実が三つなっていて、それを取って迎え撃つと、びっくりしてことごとく逃げ去っていった。
伊邪那岐命はその桃の実に、「お前が私を助けたように、葦原中国に生きるすべてのものたちが苦しい状況に陥り、悲しみ悩むとき、助けてやってくれ」と告げて、名を賜って、意富加牟豆美命と名づけた。

これが今回取り上げるシーンです。それでは、解説に入ります。

解説

「黄泉の国=死者の国」なのか?

黄泉の国は、恐ろしい姿のイザナミや雷神、ヨモツシコメなどが出てくるので、このシーンを読んだ誰しもが「死者の国って怖い」と感じたことでしょう。ですが、私は黄泉の国は人間が考えるような死者の国ではないという考えを持っています。

今日はその件について、このシーンで特徴的な三つの食用植物に触れながらお話してみたいと思います。

ブドウ、タケノコ、モモの共通点

ぶどう
たけのこ
桃

急にこのシーンでブドウとタケノコ、モモが出てくるので、変な話だなと思った方は大勢いらっしゃるかと思います。でも、よくよく調べてみると、この三つの食用植物には共通点があるんですね。それは、火山地帯に適合した植物だということ。

私が住む山梨県は、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、フィリピン海プレートの3つのプレートが重なり合う場所にあり、世界遺産の富士山は立派な活火山です。その山梨において、日本一の生産量を誇るのがブドウとモモです。そして、竹は日本全国どこにでも生えていますね。

natan
natan

決して黄泉の国は山梨県だと言いたいわけではなく(笑)。

火山地帯に生育するこの三つの食用植物が意味することは、黄泉の国が火山地帯、もしくは日本の大地のような場所を舞台にしているということ。前回の解説でも、イザナミの全身になった雷神は、痛々しい傷や炎症反応を象徴したものでもあり、イザナミの大地母神という性質から、そこに地震という要素が感じ取れるというお話をしました。火山地帯、そして地震という日本にも似た場所、これって死者の国と言えるでしょうか?

natan
natan

地獄っぽさはありますけどね(笑)

食べることは生きること

また、イザナキが投げ捨てたものから成ったブドウとタケノコをヨモツシコメたちはむさぼり食ったそうですが、その様子から、この者たちがとてもお腹を空かせていたということも読み取れます。これは生と死を分かつ要因にも関係してくることで、それは「食べること」。食べることは生命維持には絶対欠かせないものなので、生死を分かつ要因堂々の一位だと言えます。

さて、そうなると、ここでさらなる疑問が湧いてきます。黄泉の国が死者の国であるならば、なぜ食べる必要があるのでしょうか?死者の国なら、食べなくてもいいはずです。それなのに、ヨモツシコメはお腹を空かせていて、しかも、そのむさぼり食う様子から、彼女たちが飢餓状態にあることも読み取れます。

むさぼり食う理由は、黄泉の国が、死者の国ではなく、生者の国だから。黄泉の国は生きた者たちが住む世界。だから、食べることが必要なのではないでしょうか?

神の死は人間の生

なぜ、人は黄泉の国を死者の国と認識してしまったのでしょうか?それは、死んだイザナミが黄泉の国にいるからです。でも、よくよく考えてみると、それは神の視点から見たときの死の国なんですよね。

神が死ぬとどうなるでしょうか?私はこれまで、大地母神であるイザナミは、自分が死ぬことを通して、動植物や人間など生ある者たちが住める世界を創造し、その者たちを育てるための畝になろうとしているとお話してきました。

だから、神が死んで向かう先の世界こそが、この生ある世界だと私は思うんです。この世界を黄泉の国として『古事記』が描くのは、神の視点から見たとき、人間の住む世界が死の世界になっているからです。古事記解説第十五回でもお話したように、神と人間の世界は反転しているからです。

反転した世界とは、鏡に映したような世界だということ。これは前回お話したように、黄泉の国は心を映す鏡の世界ということと繋がってきます。

この思考法でいくと、飢餓状態のヨモツシコメという存在も、じつは私たち人間のことを象徴していたのだということがわかってきます。お腹を空かせている、食べるものに困っているというのは、昭和初期までは当たり前のことでした。飽食の時代に入っても、未だ人類は安定的な食料供給のために、国同士が争っている状態にあります。だから、ヨモツシコメの行動から、食べるために生きるという人間の特徴が見て取れるなと私は思いました。

心の空腹は欲望を生み出す

ただ、『古事記』はもっと深いメッセージをヨモツシコメに込めているはず。そう感じた私は、深層心理学的に「空腹」について考察してみました。すると、心の空腹ということが読み取れたんですね。

心が空腹のとき、そこに生まれるのが欲望です。欲望を持つと、どんなにお金があっても、どんなに良い暮らしをしていても、次から次へと別のものが欲しくなっていき、心を満たすために、あらゆるものをむさぼり食う状態になってしまいます。この心の状態を『古事記』はヨモツシコメと表現したのだと私は思うんです。そこから、ヨモツシコメという存在は、人間がどうしても持ってしまう欲望を象徴した存在だと私は考えました。

爆買い

前回もお話したように、イザナミの恐ろしい姿は、イザナキの貧しい心を可視化させたものでした。今回のヨモツシコメは、イザナキの欲望を表現しています。きっと、『古事記』で描かれる女性という存在は、心そのもののことを象徴しているのかもしれません。

さて、そういったことを踏まえて改めて黄泉の国を考えてみると、黄泉の国というのは人間が考えるような死者の国ではなく、そこは私たち人間の世界であり、そして、ヨモツシコメのむさぼり食う姿から、黄泉の国が人間の世界の中でさらに欲望に関係した世界だということがわかってきます。欲望があらゆる死を招くということで、「黄泉の国=欲望の国=死の国」というのが正しい解釈なのだと私は思います。

ジブリ作品『千と千尋の神隠し』にも、ヨモツシコメに似たものが描かれているのをご存知でしょうか?千尋一家が不思議な世界に迷い込んだとき、千尋の両親が飲食店街で店主の断りもなしに食べ物をむさぼり食ったあのシーン。あの身勝手な両親の態度がヨモツシコメにそっくりだなと私は思います。

千と千尋の神隠し

モモは癒やしの実

さて、ここからはモモについても触れていきましょう。ブドウとタケノコについての詳細な考察は、黄泉の国ではなく、イザナキの禊の場面で具体的に見えてくるものがあるので、後日その件についてお話するとして、今日はモモの方に話を進めますね。

モモは、ブドウとタケノコのように食べられるものではなく、雷神を追い払う強さを持っているようです。このシーンの解説でよく目にするのは、モモは邪悪なものを追い払うことができるという中国由来の風習があるので、それを真似て『古事記』でもモモが用いられているというもの。

「中国の風習が『古事記』の中にあったら、それは日本古来の話ではなじゃないか」と思ってしまいますが、たぶん、これもモモを象徴として用いることで、別の何かを『古事記』は表現したかったのではないかなと私は思うんです。

桃

有岡利幸さんの書籍『ものと人間の文化史 桃』を参考にすると、モモは、つぼみ、花、葉っぱ、若い枝、種子、根っこ、樹脂など、そのすべてが薬になるそうです。つぼみは乾燥させて利尿剤にすることができ、花はごま油につけて洗顔に使えば肌が美しくなるとのこと。また種子の仁(モモの核のさらに内側にある部分)は桃仁とうにんと呼ばれ、浄血剤(病気のないきれいな血にするための薬)になるそうです。

平安時代、この桃仁が全国から宮廷に納められ、それは記録によると、約1025リットル、ドラム缶約五個分にも及ぶ量だったとのこと。それほどモモの種子、桃仁は薬として重宝されていたようです。だから、中国の風習にある、モモが邪悪なものを追い払うというのは、病気を追い払う力を持っているからなのかもしれません。

ヨモツシコメが心の欲望を象徴しているとするならば、反対に、雷神の方は傷を追った心の痛みとして考えることができます。心に負った傷は、治さないでいると炎症し、化膿して、そこからどんどん欲望が湧いてくるようになります。いろんなものが欲しくなったり、勝ちたいという気持ちが強いがために他者を傷つけたりもしてしまいます。ヨモツシコメと雷神はタッグを組んでしまうんですね。

ですから、『古事記』がモモを用いた理由は、人間は心の傷と痛みを抱えていて、それは癒やしたり治したりすることが大切なのだ、ということを伝えるためではないかなと私は考えました。

雷神に対してイザナキは、後ろ手に剣を振って追い払おうとしたけれど、効果はなかったと書かれています。剣を後ろ手に振るというのは呪術的な行為だと言われていますが、私としては、呪術うんぬんかんぬんというよりは、心の痛みに対して、痛みを与える剣で相手を追い払おうとしても、ますます傷口が深くなって痛みが増すだけだと思うんです。だから、その行為は意味がなかった。雷神の怒りをあおっただけ。真に効果があったのは、傷を治してくれるモモの方だった。

このモモは、黄泉比良坂の坂本に成っていたと言われています。イザナキはモモの実三つに対して、「お前が私を助けたように、葦原中国に生きるすべての人々が苦しい目にあって、悲しみ悩むとき、助けてやってくれ」と告げます。読み下し文では「うつしき青人草の苦しき瀬に落ちて患ひ惚む時、助くべし」です。「うつしき」これが「鏡に映った」ということ。

ですから、イザナキも自覚したんだと思います。イザナミの恐ろしい姿、そしてヨモツシコメと雷神は、自分自身の貧しい心、欲望、そして傷ついた心そのものだったのだということを。

意富加牟豆美命から読み取れること

イザナミの妊娠

さて、イザナキはそのモモに意富加牟豆美命と名づけたとのことですが、ここも深ぼってみたら面白いことが見えてきたので、最後にそのお話をして、今日のお話を終えたいと思います。

桃について

先ほどご紹介した有岡さんの書籍を参考にすると、モモという漢字の右側「ちょう」は「はじめ」の意味で、「母となる妊娠の兆しを現すときに食べる木」という意味を持っているそうです。

なぜこのような名称がついたのかというと、モモや梅、杏などをまとめて「ぼう」と呼ぶそうで、それらが妊娠初期のつわりを癒やす特効を持っている果物だからだそうです。モモや梅、杏は甘酸っぱいので、つわりのときでも食べられるというわけですね。そこに、モモが持つ邪気払いの力が合わさって、それら果物を代表する形で、モモが女性の妊娠を象徴するものになったそうです。

ですから、今回のシーンで、ブドウとタケノコはイザナキの身につけたものから成ったのに対し、モモだけは黄泉比坂の坂本に成っていたというのは、そのモモがイザナキとイザナミの子どもであり、モモはイザナミの妊娠を象徴しているからだと私は思いました。

また、黄泉比良坂の坂本は香山の畝尾の木の本に似た音を持っていて、古事記解説第九回でもお話したように、香山の畝尾の木の本は性愛の場所でもあるので、似た音を持った黄泉比良坂の坂本が、今度は妊娠や子どもに関する要素を持っていてもおかしくはなさそうだなと個人的には思います。

アマテラスたちの出現を予言

さて、そのモモの実は三つだったようなので、これは後に誕生するアマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三柱の神の誕生を予言したものだと私は考えています。だから、このシーンも今後展開するであろうロードマップを敷いている可能性があります。

また、モモの意富加牟豆美命という名前には、豆の文字が入っているので、ここにはイザナキの美豆良というヘアスタイルが関係しているように思います。美豆良は顔の横にひょうたん、もしくは豆のさやのように結ばれたヘアスタイルで、その美豆良スタイルとモモの意富加牟豆美命という名前、そしてイザナキの顔から生まれるアマテラスたちの身体的な位置は関連性がありそうだなと私は考えています。

というわけで、今日は、黄泉の国は死者の国ではなく、人間の欲望を映した世界だということ。そして、モモの実を通して、人間の心の傷を癒すことの重要性、またこのシーンは新たな神々の出現を予感させるシーンでもある、というお話でした。

最後に

今日触れたヨモツシコメという存在。この「しこめ」の「しこ」は、「醜い」と書くだけでなく、「色許」と書く場合もあります。これは、後に出てくるオオクニヌシの別名、あしはらの色許男しこをで用いられるものですが、意味は「色男」です。

ですから、ヨモツシコメも音の印象から「色女」の要素を感じ取れるのですが、黄泉の国ではなぜか「醜い女」になっています。それはなぜなのでしょうか?私が考えるに、たぶん、ヨモツシコメが人間の欲望のはけ口の対象になっているからだと思います。たとえば、遊女のように…。

黄泉醜女とは

でも、私は思うんです。黄泉の国が欲望の世界だとするならば、そこにいる恐ろしいイザナミ、そして雷神やヨモツシコメは、欲望を背負わされた存在なのではないだろうかと。なぜなら、イザナキの心を映す鏡がイザナミだからです。映されているからこそ、背負わされているのだと私は思うんです。

黄泉の国を恐ろしい世界と解釈するのは簡単です。しかし、黄泉の国が鏡の世界にもなっていて、そこに欲望が映しだされているとするならば、今度はそれを映している主体それ自身を問う必要性が生じてきます。その主体はイザナキです。しかし、もっと言えば、イザナキだけでなく、『古事記』を読んでいる私たち自身をも問う必要性が出てきます。黄泉の国を恐ろしい世界と認識している、その意識を持っているのは私たち読者だからです。

黄泉の国のシーンは、『古事記』におけるこれまでの読み方を大きく変える転換点だと私は思います。『古事記』は読者である私たちの心をも映しているからです。そのような意識を持てたとき、神話は初めて「心話」になります。「ああ、古事記で書かれていることは、自分の中で起こっていることでもあったのか」と知ることができます。

ぜひ、今後の『古事記』もその意識をもって読んでみてください。きっと深い学びが得られるはずです。それでは、次回も引き続き、黄泉の国のお話をしていきますね。

natan
natan

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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