本日のトーク内容
解説
はじめに
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回は、イザナキとイザナミが行った国土作りは、世界創造でいえば豊かな土壌作り、身体宇宙論でいえばお腹作りで、最初に生まれたヒルコは赤血球を構成するヘモグロビンを象徴しているかもしれない、というお話をさせていただきました。
今回は、イザナキの禊シーンの再考察から見えてきた新しい発見と、前回同様、身体宇宙論をベースにお腹と血液に注目しながら、そこにイザナキとイザナミが生んだ生と死がどう関わってくるのかについてもお話してみたいと思います。
前回のおさらい
まずは、前回のおさらいから。古事記はその宇宙観が身体をベースに展開しているので、大地創造物語と身体形成は同時進行で語られていくという特徴を持っています。ですから、イザナキとイザナミの国土作りは、大地創造でいえば土壌作り、身体宇宙論でいえば肉づきの土、つまり胃袋やお腹を作る物語として読むことができると私は考えています。
イザナミが火の神カグツチを生んだところからお腹作りの話が始まったようで、イザナキが禊で腹を括ることで腹部の形成が完了したと考えます。今回、その禊シーンを再考察してみたら、古事記は腹部に関することを語りながら、同時に膨張、収縮というお腹の動きまでも語っているということが見えてきました。
古事記はお腹の膨張に焦点を当てている
お腹は柔軟性を持っているので、満腹になれば膨らみ、空腹になれば凹みます。この膨張、収縮の動きはお腹だけでなく、心臓や肺といった臓器も持っている動きなので、だから禊シーンはメインではお腹のことを語りつつ、同時に心臓や肺の誕生も語っていたのだと思われます。
このお腹の膨張、収縮という頭で禊シーンを再度眺めてみたところ、古事記はとくにお腹の膨張の方に注目をしているということがわかってきました。なぜなら、陣痛を象徴する和豆良比能宇斯能神からはお腹が臨月のように大きい様子が読み取れますし、飽くなき食欲を象徴する飽咋の宇斯能神からはお腹をパンパンに満たす様子が感じ取れるからです。
それだけでなく、黄泉国では雷神が出てきましたが、雷神と言ったら太鼓。その太鼓の要素も禊シーンに引き継がれているようで、大きなお腹は別名「太鼓腹」とも言われるので、黄泉国との関連性で考えてみても、やはり古事記は大きなお腹のことをなぜか重点的に語っているようです。
お腹の膨張が語る生と死
ではなぜ、古事記は大きなお腹のことを語るのでしょうか?私が考えるに、それは、大きなお腹にイザナキとイザナミが生んだ生と死が象徴されているからだと思います。どういうことかというと、まずはどういうタイミングでお腹が太鼓腹になるかを考えてみると、三つほど挙げられるんですね。
一つは、満腹になったとき。二つ目は出産間近の臨月のとき。三つ目は病気です。一番目と二番目は、命が繋がることを意味するので、生に関係しています。その反対に、三つ目は死に関するもので、飢餓や病によって腹水が溜まるとき。それは、死が差し迫っている状況でもあります。飢餓とは逆で、食べ過ぎも死を招きますよね。出産も、ときには死を招くことがあります。
だから、お腹がパンパンに膨らんだ状態というのは、生と死の両方を象徴した姿だと言えるんですね。より正確に言えば、お腹の膨らみが生と死の両方を内包している、ということだと思われます。それがイザナキとイザナミが生んだ生と死の姿(カタチ)である、ということを古事記は語っているのではないかなと私は考えました。
さて、そういったことが見えてきた私は、せっかくなので、さらに病気が原因で大きくなるお腹についていろいろ深堀ってみることにしました。そうしたら、古事記が描く死の側面がとても恐ろしい、ということを知りました。また、それと同時に、生と死を内包するお腹の膨らみが語る物事の本質といったものも見つけることができ、さらに、死の恐怖を何とか乗り越えたいとする、古事記の強い思いも感じ取ることができました。ここからは、その死に関するお腹の膨らみについて、事例をあげながら私の考えをお話していきたいと思います。
お腹の膨張が描く死の恐怖
日本住血吸虫症について
お腹が大きくなる病気はいろいろ挙げられると思いますが、私が一番に興味を持ったのは、地方病と呼ばれる奇病でした。私は山梨県に住んでいて、ここ山梨には住民たちが長きにわたって地方病を患ってきた暗い歴史があります。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、日本住血吸虫症と呼ばれるものです。ここからはその病について、小林照幸さんの書籍『死の貝』を参考にしながら、古事記が描く死の側面についてお話していきたいと思います。
地方病のことを昔から地元の人たちは「水腫脹満」と呼んでいて、その奇病は、血便からはじまり、症状が収まると、今度はどんどんお腹が膨らんできて、全身の皮膚が黄色くなってやせ細り、介助なしで動けなくなったら確実に死んでしまう病気です。その当時、山梨に嫁ぐ人がいれば、「棺桶を背負っていけ」とまで言われていたそうです。
症状
この病気にかかると、発育不良が起こるそうで、18歳くらいの人でも10歳前後の顔立ちと体格で、陰毛やヒゲも生えず、思考力も子どものままだそうです。この病気は、記録によると、武田勝頼が生きていた時代からあったそうなので、何百年も山梨の人々を苦しめてきた病気だったようです。
山梨県は、明治37年頃、岡山大学医学部の桂田富士郎先生に助けを求め、桂田先生と地元の先生のご尽力もあって、この病を起こす犯人を見つけることができました。それが日本住血吸虫と呼ばれる寄生虫です。
この寄生虫は、卵から孵化するとミラシジウムという段階で、ミヤイリガイという淡水性の巻き貝の中に寄生します。ミヤイリガイの肝臓や腸の周辺、内部に寄生して、血液やリンパ液などの体液をむさぼり吸って成長し、セルカリアという幼虫に変態したら貝を出て、水中を泳ぎ、付近にいる人間の皮膚から体内に侵入します。
体内に入ったらそこで成虫になり、肝臓付近にある門脈という場所で住血吸虫のオスとメスは交尾をし、何千個という卵を人間の体内に植えつけます。住血吸虫は肝臓に送られる新鮮な血液をむさぼり吸うので、宿主(本来は「しゅくしゅ」と言いますが、わかりやすさを優先して「やどぬし」と言いますね)である人間に栄養が回らず、いつまでたっても幼い体型になってしまうんです。
吸虫類が引き起こす死の側面に隠された本質とは?
この住血吸虫を発見するキッカケになったのが、18世紀半ばに発見されていた「カンテツ」という吸虫類の一種です。これも肝臓に寄生するのですが、この「カンテツ」。漢字ではこう書くんです。肝臓の蛭です。ヒルコのヒル。
この発見によって、偶然興味を持ったこの病が古事記と深く関わっているということがわかってきました。それだけでなく、古事記が語るお腹に関する一連の話と吸虫類との関係性から、お腹の膨張が内包する生と死には共通する本質があるということもわかりました。その本質は何かというと、それは幼児性です。
住血吸虫の場合、宿主に寄生して血液や体液をむさぼり吸うことで、宿主の弱体化おかまいなしに、ただただ自分の欲望だけを満たしていきます。宿主もそのせいでずっと幼いままです。そこには幼児性という本質があり、イザナキがカグツチを殺してしまったのも、彼の心がまだまだ未熟だったからです。
また、黄泉国はそんなイザナキのあくなき欲望を映し出す世界でもありました。そこで登場したヨモツシコメも、ブドウやタケノコを貪り食っていましたよね。
さらに、妊娠時における胎児のあり方も考えてみると、胎児は母親を宿主として、母親から栄養や酸素を与えてもらいながら、何不自由なく成長していきます。良い悪いという観念は抜きにして、ここにも幼児性が現れています。
以上のことから、古事記が描くお腹の大きな膨らみは、生と死の象徴ということだけでなく、幼児性の象徴でもあるということがわかりました。それは言い換えれば、幼児性は死と密接に関係している、といも言えます。
住血吸虫症と古事記の関わりについて①桃
さて、住血吸虫の話はこれで終わりではなく、ここからより深くこの話が古事記と関係していることがわかってくるんです。山梨県は、岡山大学の桂田先生に助けを求めたとさっきお話しましたが、山梨と岡山にはある共通点があるのですが、皆さんはわかりますか?
それは、桃です。山梨は桃の生産量日本一で、岡山は桃太郎伝説の地です。明治時代はまだ山梨県はフルーツ栽培をしていないのですが、住血吸虫が寄生したミヤイリガイは、田んぼや湿地帯などに生息しているため、それを根絶するための一つの策として、農業改革が行われたそうです。多くの農家さんはお米栽培をやめて、フルーツ栽培に転向しました。山梨県がフルーツ王国になった背景には、住血吸虫症が関係していたというわけです。
そんな桃を栽培する山梨と、桃太郎伝説で有名な地、岡山の先生がタッグを組んで地方病解明に挑んだというこの話。桃といえば、黄泉国で雷神を追い払った桃に対してイザナキは「葦原中国の人々が苦しんでいるとき、助けてやってほしい」と言っていましたよね。その言葉どおり、本当に桃は山梨の人々を助けてくれました。住血吸虫症の話を知ったとき私は、「この病を通して神話が動いた!」と、とても感動しました。
また、こうも思いました。フルーツというのは、死の恐怖を乗り越えた先に実る、天国の食べ物と言えるかもしれないと。ご先祖様たちの長年の悲しみ、たくさんの苦悩、涙、そしてそれでも生きたいと思う強い想いを記憶に留めるこの大地の上で、今年もまた元気に実をつける果物たち。それを考えると、実一つひとつがご先祖様の魂のように感じられてくるなあとしみじみ思いました。
ちなみに、桂田先生は、言ってみれば桃太郎を象徴するような方だと言えると思うのですが、桂田先生の下のお名前を見てみると、なんと、富士郎先生。山梨といったら富士山。偶然では片付けられない、奇跡の一致!
住血吸虫症と古事記の関わりについて②橘小門
さらに、まだまだこの病は古事記との興味深い関連性を教えてくれるんです。住血吸虫症になると、全身の皮膚が黄色くなると言いましたが、それはまるでみかんの皮のような色だそうです。みかん。そういえば、イザナキが禊をするために訪れた竺紫日向の橘小門の阿波岐原にも、橘というミカン科の木の要素が入っていましたよね。また、橘小門の「小門」も、住血吸虫が産卵する細い門脈を指しているような印象も受けます。
住血吸虫症と古事記の関わりについて③病に負けない強い想い
この住血吸虫症の最大の発症地は山梨県ですが、その他、広島、佐賀、福岡でも起こっていて、広島では片山病、福岡ではマンプクリンと呼ばれていたそうです。
ちなみに、世界最古の住血吸虫感染は、中国湖南省長沙で発見された約2200年前の女性のミイラだそうです。未だに住血吸虫は世界中で猛威を振るっており、今でも約2億人が感染しているそうです。しかも、住血吸虫症を完全に治療するための薬はまだないそうです。
この病気を日本は官民一体の力によって、100年あまりをかけて克服することに成功しました。『死の貝』の著者小林さんは、「日本が世界に冠たる衛生大国になったのは、何よりも寄生虫病を克服したのが大きい」とおっしゃっていました。フィラリアも日本が世界で初めて克服しましたもんね。たぶん、衛生状態を整えることの大切さを、イザナキの禊シーンが物語っていたのではないかなと思います。
また、古事記解説第24回でイザナキの禊がヒルコと深く関わっているとお話しましたが、古事記がなぜそういった物語を語るのかというと、イザナキが禊を通して自身の幼児性を克服したということを語る以外に、長きに渡って人類を脅かす住血吸虫というヒル的な存在との闘いに日本人は負けないぞ、という強い想いもあったからではないかなと私は思いました。
イザナキの幼児性を象徴したのがヒルコで、ヒルコを生んだのはイザナキ。でも、彼が桃の実に対して「苦しんでいる人々を助けてやってほしい」と言ってくれたからこそ、日本人は寄生虫病を克服することができたと私は思うんです。彼自身、禊を通してしっかり腹を括りました。それを考えると、やはりイザナキは日本人にとって偉大な父であることは間違いないと思います。
日本住血吸虫症撲滅に対する私の感想
ということで、以上がお腹の膨らみが描く死の側面についてのお話でした。今日参考にした『死の貝』という本は、読む手が止まらなくなるくらい、面白い本でした。ときに涙を流しながら読み、命の尊さと重さを感じつつ、生きることの意味を深く考えたくなる、そんな本でした。
「水が怖くて百姓やってられるか!」という農家さんの言葉が、胸に響きました。飲水、そして田んぼの水、生きるための水が死を招くだなんて。生と死がこんなに密接に関わっている事例は、今の時代ほとんど見かけません。生きることの背後に死があるだなんて。
私はこの地にそういった暗い歴史があることも知らず、棺桶を背負うことなくお嫁にくることができました。過去の偉人たち、そして大地に眠るご先祖様たちに改めて深く感謝したいなと思います。
【新宇宙論説】古事記は宿主制を持っている!?
さて、ここからはガラリと話の雰囲気を変えて、住血吸虫について知っていく中でふと思いついた、新しい宇宙観について私の仮説をお話して、今日のお話を終えたいと思います。
吸虫類は、卵から孵化したあと、宿主となる巻き貝を探し求め、寄生します。巻き貝の体内は天敵がいない世界なので、吸虫類は心置きなく貝の栄養を吸い、そして幼虫に変態していくのだそうです。幼虫になったら貝を出て、今度は人間に寄生して、そこで成虫になります。
この話を知ったとき、「そういえば、イザナキの禊シーンでも、貝の要素を持った甲斐弁羅神なる存在がいたなあ」ということを思い出しました。しかも、住血吸虫症の大発症地である山梨県は、甲斐の国とも呼ばれます。
禊、巻き貝、住血吸虫、アマテラスたち三貴子誕生という展開に対して、もっと大きな視野でそれらを捉えたとき、何か新しい発見はないだろうか。古事記が教えたがっているもう一つの宇宙の仕組みがありそうな気がするけれど、それは一体何だろう。私は漠然とそう思い、そこからあれやこれや考えた結果、一つの驚くべき仮説を思いつきました。それは、「もしかしたら古事記の身体宇宙論は、宿主制を持っているのかもしれない」ということ。
なぜそう思ったかというと、私たちが住むこの世界にも、巻き貝に生息する吸虫類同様、人類の天敵が存在しないからです。自然災害や動物、ウイルスの脅威は横に置いておいて、たとえば人類を滅亡させてしまうほどの強い力を持った生命体は、今のところ現れていないですよね。なぜかこの世界は、人間に都合良くできているなと私は思うんです。しかも、貝の栄養をむさぼり吸う吸虫類のように、私たち人間も地球の資源をとことん搾り取っています。
そして、前回もお話したように、宇宙は卵として誕生し、その中が細胞分裂をしていくように世界と私たちの身体が出来上がってきたとするならば、やはり私たちは大きな存在の中で生きているのだと思うんです。今日の話も踏まえれば、もしかしたらこの世界も何らかの巻き貝の中かもしれない…。だいそれた発想ではありますが、でも、その仮説もあながち間違ってないのでは?と思わざるを得ない話もあるんです。
それを教えてくれるのは地震です。しかも漢字の「地震」です。地震の漢字を見てみると、「震える」を意味する漢字は、雨に辰と書きます。この辰、原義がじつは「はまぐり」を意味しているんです。大昔、チャイナの人々は地震ははまぐりが起こしていると考えていたそうで、だから「震」という字にはまぐりを表す辰の字を当てたのだそうです。
大地そのものが貝、それが震えて地震となる。ということは、私たちは貝の世界に住んでいることになるわけで。仮にそうだとすれば、私たちはなぜ貝の世界に生きているのでしょうか?私たちも次の変態、次の進化をするためにこの世界に生きているのでしょうか?そう考えてみると、なんだかこれまでの宇宙観が、ガラガラと音を立てて崩れていきそうな感じがしますね。
ま、これはあくまでも私の仮説なので、冗談半分で聞いてくださいね(笑)
でも、こういった仮説は「人生とは何なのか」「何のために自分は生きているのか」を考える良いキッカケになると思うんです。みなさんもこの機会に、貝の中で生きる自分自身をイメージしながら、「生きる意味とは何ぞや?」を考えてみてはいかがでしょうか?面白い発見ができるかもしれませんよ。
ちなみに、卵もいつかは孵化して、鳥となって外に羽ばたいていきます。そう考えると、この宇宙にも外なる領域があるのかもしれないですね。いやはや、宇宙へのロマンは尽きませんね。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!