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古事記☆新解釈【39】馬の皮と衣の秘密/レヴィ=ストロースで読み解く古事記

馬の皮と衣アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

前回は、高天原においてスサノヲが屋敷の天井から投げ落とした馬は、生物学的側面から考えると、それはタツノオトシゴではないだろうかというお話をさせていただきました。今日は、再度その投げ落とした馬に注目しながら、陰を突いて死んでしまう機織り娘との関係性についてお話したいと思います。

まずは、前回も読み上げましたが、もう一度該当する場面の読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。

原文/読み下し文/現代語訳

古事記「天岩屋戸①-1」(原文/読み下し文/現代語訳)

天照大御神 坐忌服屋而 令織神御衣之時 穿其服屋之頂 逆剥天斑馬剥而 所堕入時 天服織女見驚而 於梭衝陰上[富登]而死
故於是天照大御神見畏 開天石屋戸而 刺許母理坐也
尒高天原皆暗 葦原中國悉闇 因此而常夜徃
於是萬神之聲者 狭蠅那須滿 萬妖悉發

天照大御神、忌服屋いみはたやして、神御衣織かむみそらしめたまひし時、その服屋のむね穿うがち、天斑馬あめふちこま逆剥さかはぎに剥ぎておとし入るる時、天服織女あめはたおりめ見驚きて、陰上ほときて死にき。
かれここに天照大御神見かしこみて、天石屋戸あめいはやとを開きて、さしこもりますなり。しかして高天原皆暗く、葦原中国ことごとくらし。
これによりて常世往とこよゆきき。ここによろづの神のこゑは、さばへなす満ち、萬の妖悉わざわひことごとおこりき。

古事記「天岩屋戸①-2」(原文/読み下し文/現代語訳)

天照大御神は忌服屋にいらっしゃって、神に献上する衣を織らせていたとき、須佐の男命がその服屋の天井に穴を空け、まだら模様の馬の皮を逆方向に剥いで落とし入れると、天服織女はビックリして、梭で陰を突いて死んでしまった。
これを見た天照大御神は恐ろしくなり、天石屋戸を開いて中に籠もってしまった。すると高天原と葦原中国のすべてが暗い闇に包まれ、夜ばかりが続いた。
そして、たくさんの神の声はうるさい蠅のように満ち、たくさんの災いが至るところで起こった。

では、早速解説に入りましょう。

解説

これまでのおさらい

まずはおさらいから。この直前のシーンでは、スサノヲがアマテラスの営む田畑を荒らしているにもかかわらず、彼女はそれを咎めず、逆にその行動を擁護する姿が描かれていました。

アマテラスがなぜスサノヲを咎めなかったかというと、古事記解説第36回でお話したように、私は両者がうけいの結果から紳士協定を結んだからだと考えています。その協定内容は、文化と創造を象徴するアマテラスと、自然と破壊を象徴するスサノヲがタッグを組んで、文化刷新のために適度な破壊を行っていくこと、つまり代謝のサイクルを生み出していこうというものです。それは、スサノヲに邪心がないことがうけいで証明されたため締結された協定でした。

しかし、スサノヲの行動はますます激しくなっていき、今回のように屋敷の天井から皮を剥いだ馬を投げ入れたことで、そこで衣を織っていた機織り娘の女性器(陰)に梭が刺さってしまい、その子が死んでしまうという大事件が起こってしまいました。

梭というのは、機を織るとき横糸を通すための道具で、シャトルとも言います。それが刺さってしまったんですね。さすがにこれにはアマテラスもたいへんショックを受けたようで、そのせいで彼女は天石屋戸に閉じこもってしまい、世の中に災いが起こってしまったというお話です。

梭(シャトル)

ということで今日お話するテーマは、スサノヲが投げ入れた馬は一体何を意味しているのかについて、二つの側面からお話します。一つは、神話学的構造から、二つ目は生物学的側面から解説します。そして、そこに機織り娘がどう関わっているのかについてもお話していきます。

①神話学的構造からの読み解き

レヴィ=ストロースの気づき

まずは、①神話学的構造について。

アマテラスは文化、スサノヲは自然を象徴する神で、古事記解説第36回で詳しくお話したように、とくにスサノヲは自然の力の中でも、主に毒に象徴されるような破壊力を持った神様でもあります。ですから、アマテラスの田畑を営むという文化的行為に対して行われたスサノヲの破壊行為は、神話学的に言えば、文化に対する自然の介入と言えます。

じつはこれ、人類学者レヴィ=ストロースの考察を参考にしたものです。レヴィ=ストロースは、長年アメリカ大陸の先住民であるインディアンたちの神話研究をしていて、その神話の中にたびたび文化を破壊する自然の力として、毒が登場することに気づきました。そういった神話は、インディアンたちが毒の力を用いて漁業をするという、高度な文化的技術を獲得するに至った起源を語っているんですね。

この漁労方法がとても面白くて、インディアンが毒を持つ葛という植物を輪切りにして、それを川に投げ入れると、毒によって魚が死んでプカプカ浮いてくるので、短時間で大量に魚を獲ることができるというものです。だから、毒は人間を殺す力を持っているけれど、同時に文化的行為にも用いられるという、毒の二面性をインディアンの神話は語っているんですね。

馬の皮と衣①

この考え方を私もスサノヲの行動に当てはめて検証してみたところ、彼の破壊行動には文化的営みを促進する有益な側面がある、ということに気づきました。

インディアン神話との共通点

また、インディアンの神話は面白いくらい古事記考察の参考になる、いや、もっと言えば、インディアンの神話と古事記、または日本の昔話には面白いくらいに共通点が多いことにも気づきました。複数ある共通点の中で、今日の話に合うものをピックアップすると、それは人間と動物、または人間と植物は、お互いの世界を自由に行き来できるというものです。

日本昔ばなしで見てみると、キツネやヘビが美しい女に化けて、その女と人間は結婚したり子どもを持ったりします。ですが、結局そのキツネに騙されて終わるというのがお決まりのパターンですが、インディアンの神話でもそうなんです。

レヴィ=ストロースは言います。「自然の領域から文化へ侵入してくる存在は、毒の要素を持ち、ときに誘惑者やトリックスターという姿をまとって出てくる」と。だから、スサノヲにも少なからず誘惑者やトリックスターという側面があるのだろうなと思います。ちなみに、トリックスターとは嘘つきやいたずら者のことです。

機織りと馬の皮②

裏返しの世界

さて、自然と文化が関係しあう世界の中で、レヴィ=ストロースが注目したのは、自然に属する者が文化的行為を真似たとき、それは裏返しに表現されるというもの。

裏返しとはどういう意味かと言うと、たとえば料理をする場合、インディアンたちは狩りで獲ってきた肉を燻製にして保存するそうなんですが、その肉は皮をつけたままトロ火で長時間炙ります。しかし、動物(神話ではカエル)がそれを行うとき、皮を剥いで、その皮を火の中に入れて、皮なしの肉に火を通すということをしていました。また、人間がキレイな飾り玉で全身を飾るとき、動物(神話ではバク)は全身を汚いダニで飾っていました。

このように、自然に属する者が文化的行為を真似たとき、裏返しの行動をとることにレヴィ=ストロースは気づいたんですね。これと似たことが古事記にも描かれていると私は気づきました。それが、皮を逆剥ぎにした馬を屋敷の天井から投げ落としたことです。

natan
natan

古事記は「皮を逆剥ぎにした馬」、そして「屋敷の天井から投げ落とした」と、つまり「スサノヲが逆のことやってるよー!」と親切に教えてくれていたんですね。

馬の皮と衣③

スサノヲが馬を投げ落とした理由

というわけで、自然と文化の交流は裏返しになることをご理解いただきつつ、ここから今日の本題に入ります。自然側に属するスサノヲが、行動は裏返っていたとしても、それを通して彼がやろうとしたことは一体何だったのでしょうか?

アマテラスに生肉を献上するため

皮を剥いだ馬そのものを考えてみると、それは今まさに殺されたばかりの馬であり、見方を変えれば、その肉は新鮮そのものだと言えます。新鮮ということは、それを食べるということが何となく想像できます。

食べると言えば、直前のシーンに「新穀を召し上がる御殿でスサノヲが暴れた」という記述があるので、栽培した穀物を食べる場所があるということが読み取れます。ということは、古事記は「食べること」の対称性を取るために、今回のシーンで馬の生肉を登場させている可能性があると言えます。

アマテラスが育てているのは文化的行為によって得られる穀物。そして、スサノヲが献上したのは自然的行為によって得られる生肉。レヴィ=ストロースが言ったとおり、文化と自然がキレイに裏返っていますね。

つまり、スサノヲが皮を剥いだ馬を投げ落とした理由は、アマテラスに新鮮な生肉を献上し食べてもらうためだったと言えます。そしてここでふと気づくのは、高天原で起こる一連の出来事が何やら「食べること」を重視しているらしい、ということ。それは一体なぜなのか、答えは後半で触れますね。

馬の皮と衣④
衣との対称性を取るため

さて、馬が投げ入れられた謎はこれで解決、ではありません。古事記はなぜか、その馬はまだら模様だとも語っています。まだら模様の皮を剥いだと言っているということは、皮を剥がされた馬ではなく、皮の方にも意味があるということを古事記はほのめかしています。

皮を剥がされた馬ではなく、まだら模様の皮を投げ入れたとしてみると、もう一つあるものとの対称性が取れることに気づきます。それは、機織り娘が織っていた衣です。文化的要素が機を織って作った衣であるならば、自然がそれを真似たとき、衣ではなく皮になると言えるからです。見事に文化と自然が裏返っていますね。

馬の皮と衣⑤

②生物学的側面からの読み解き

まだら模様の皮が示唆すること

では、そのまだら模様の皮が何を示唆しているのかというと、ここから二つ目の生物学的側面が絡んできます。答えを先に言ってしまうと、それは脱皮に見られるような生物学的成長の一過程だと私は考えます。

古事記解説第37回と38回で、スサノヲは水に関係した神だとお話しましたが、今回も水生動物で、とくにまだら模様を持つ生物はいないだろうかといろいろ調べてみたところ、ある動物がヒットしました。それは、アザラシです。

アザラシにはゴマのような斑点模様があるわけですが、このアザラシの皮をテーマに語ったアイスランドの民話があり、それが解決のヒントを与えてくれました。

アザラシ

内容を簡単にお話すると、アザラシは海からあがるとその皮を脱いで美しい人間の女に変身します。あるとき男がその皮を盗んだためアザラシは元の姿に戻れなくなり、結局その男と結婚することになりました。しかし、後に皮を取り戻した妻はアザラシの姿に戻って海に帰っていったというお話です。

この民話はどこか羽衣伝説にも似ている印象ですが、これは自然的存在が文化的存在へと強制的に変えられた話として読めます。それが動物の皮を通して行われているわけですが、そこから考えるに、古事記もまだら模様の皮を通して世界の移行を語っていると言えます。たぶん、この手の話は、精神的もしくは肉体的な成長がテーマなのだと思われます。

自然は自由な性格をしていますが、文化の世界は決められたルールで生きなければいけません。人間も、子ども時代は自由に暮らしていられますが、社会に出たらルールに縛られながらも少しずつ大人な精神へと成長していきます。

神話で出てくる皮というパーツは、そういった「成長」に関することを示唆しているのだと思われます。脱皮が一番わかりやすい一例ですね。ですから、古事記の場合も、馬の皮を通して何らかの成長を語っていると考えられます。

馬の皮と衣⑥

機織り娘との関係性について

では、古事記は誰の何の成長について語っているのでしょうか?ここでようやく関わってくるのが機織り娘です。

この機織り娘の死について、『日本書紀』ではアマテラス自身が梭で身体を傷めたと記されていたり、一書に曰くでは、死んでしまうのは稚日女尊わかひるめのみことというアマテラスの分身のような幼子だったりします。ですから、ここから推測するに、皮をとおして成長を促されているのはアマテラス自身だと言えます。

しかし、アイスランドの民話では、自然の存在が文化的世界へ強制的に連行されているのに対し、古事記は、文化的存在であるアマテラスが強制的に自然側に引き戻されている形となっています。方向性が逆です。皮というパーツが成長を示唆しているのに、文化的存在が自然へと引き戻されているとするならば、それは成長ではなく退行と言えてしまうのですが、これはどう解釈すればよいのでしょうか?

じつは、その答えはアメウズメたちが出てくる場面まで話を進めたときにわかってきます。ですから、今日のところは残念ながらその回答を保留にして、後日改めてお話したいと思います。気になっている方がいたら、すみません!

馬の皮と衣⑦

ということで、以上をまとめると、レヴィ=ストロースを参考に神話的構造と生物学の二つの側面から今回のシーンを見たとき、文化と自然が裏返っていること、スサノヲはアマテラスに生肉を献上していること、そしてなぜかアマテラスの成長が促されていることなどがわかりました。

日食現象とツクヨミ

さて、ここからは今日最後のお話として、さっき私は、古事記は「食べること」を重視していると言いましたが、その理由がじつはアマテラスが天石屋戸にこもって世界に災いが起こったことと大いに関係しているんですね。最後にそのお話をして、今日の解説を終えたいと思います。

アマテラスという日の女神が姿を消してしまうことは、天文学的に言えば、日食が起こったと言えます。古代から日食は災いを招くとされていて、NHK大河ドラマ『光る君へ』を見ていても、日食が起こったとき、宮中には重く暗い嫌な雰囲気が漂い、貴族たちは恐れおののいていました。

なぜ日食がそれほど恐ろしいものだと認識されているのかと言うと、アマテラスが常世に行ってしまったからだと思います。常世とは、あの世に近い世界のことです。つまり、日食は太陽の死を意味しているんですね。

natan
natan

まあ、実際には死んでいないのですが、アマテラスの分身の機織り娘は死んだので、意味としては同じことです。

馬の皮と衣⑧

でも、私はふと思いました。常世に行ったということは、それは黄泉国に近しい世界に行ったということです。そして黄泉国は、古事記解説第17回でお話したように、欲望渦巻く世界であり、そこは身体宇宙論で言えばお腹の世界でもあります。

ということは、アマテラスが行った常世は、生物のお腹の世界の方向と言えるのではないでしょうか?そこから考えるに、今回のシーンはたぶん黄泉国のシーンとリンクさせて読めばいいのだと思われます。

またこの考察から、高天原で起こっている一連の出来事が「食べること」について語られているワケも少しずつ見えてきました。日の女神が姿を消した日食は「日が食べる」もしくは「日を食べる」と書きます。ですから、やっぱりアマテラスは食べる世界に行っていることは間違いない!となれば、彼女に生肉を献上したスサノヲの行動とも繋がってきますね。

さらに、ここであ!っと気づかされたのは、月の神ツクヨミの存在。この神は、夜の食国おすくにを統治する神ですが、食事そして日食現象のことを考えると、今回のシーンに薄っすらとツクヨミの影が見え隠れしてくるんですね。

natan
natan

いや、薄っすらとではないですね。だって、日食は月が太陽を隠してしまうことで起こる現象なので、高天原で起こる一連の出来事には大いに月が関与している!

馬の皮と衣⑨

というわけで、最初の問いに戻ると、なぜ古事記が「食べること」を重視するのかというと、私の答えは、今回の出来事にじつは食べる国を治める月の神ツクヨミが関与しているからだと思います。そして、アマテラスが天石屋戸にこもったこともツクヨミが強く関係しているものと思われます。

ツクヨミは生まれたと同時に、今後一切出てこない神様として有名ですが、私はこの考察を通して「ツクヨミいたー!全然いたー!」となって嬉しくなりました。そして、ツクヨミが関与しているという頭でこの先の物語も読み解いてみたら、天石屋戸シーンが持つ壮大で美しい物語を読み取ることができました。その内容が次回のお話から少しずつ明らかになっていきます。

というわけで、今日は馬の皮の意味と機織り娘との関係性についてのお話でした。次回は天石屋戸にこもってしまったアマテラスを引っ張り出すために活躍する、アメウズメたちについてお話したいと思います。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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