私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は「わいせつ」という言葉が、どのように「性」と結びついていったのかについてお話していきます。
▼ 参考文献 ▼
◎前回までのお話はこちら↓
政略結婚と性の管理
本来、「わいせつ」という言葉は、中上層階級の「望ましい規範」に沿った生活から逸脱する、下層階級の人々に対して、「庶民の日常生活の中でのだらしない様子」という意味で使われていました。
この言葉がどうやって「性」と結びついていったのでしょうか?
時は12世紀、宮廷恋愛が成立した時代にまでさかのぼります。
貴族たちにとって、「家」の血を守ること、そして財産を確実に子孫に相続させることが何よりも大事なことだったため、彼らにとって性行為は重要な仕事だったようです。
そういった背景があるため、貴族どうしの結婚は「政略結婚」という形をとります。
しかし、以前の記事で中世宮廷恋愛のことを「精神的な愛」ということで、美しいものとして語りましたが、これには裏があり…。
実際の現場では、財産の継承者がきちんと決まった後であれば、性行為を制約する理由がなくなります。
なので、女性は財産を相続させる男児を産むまでは純潔を保つ必要があるのですが、財産の継承者が決まってしまえば、結婚の目的は果たされたことになります。
貴族の夫と妻の間に恋愛感情があることはむしろめずらしく、通常の場合、それぞれが別々の恋人を持っていたようです。
ただし、健康と衛生と子孫繁栄という、上層階級の美徳を実践する目的として、性の管理は行われていたということはあったようです。
「わいせつ」は差別用語?
さらに「わいせつ」の意味が「庶民の日常生活の中でのだらしない様子」、さらには「薄暗くてじめじめして不潔な」という意味を持ったことからわかるように、上層階級の性行為は「わいせつ」ではなかったのです。
貴族たちが同輩身分の間で婚外の性行為を行っていたとしても、それは美しく上品な様式を伴った「遊戯」や「宮廷愛」として取り扱われました。
そもそも「わいせつ」とは、下層階級の人たちに向かって使う言葉ですからね。
ハッキリとした差別的な言葉なんだと思います。
精神的な愛はどこいった?
あれれれ…?
でもこの時代、「精神的な愛」ということで成立した宮廷恋愛があり、さらにはキリスト教の厳しい性規制もあったはずなのに、なぜかみんなやっちゃってますね。
じつは、宮廷恋愛も十分に性的要素を含んでいたのですが、上層階級を下層階級から区別するために、貴族の恋愛は「精神的に高尚なもの」として宮廷愛を位置づけたようです。
しかし、といいますか、だからこそ、この宮廷恋愛は文学として語られる以外、現実にはほとんど成立しなかったようです。
自分たちの性を認めてしまえば、下層階級と同じになってしまう。
だから「わいせつ」という言葉で下層階級を差別した。
けれども、実際フタを開けてみれば、上層階級も同じことをしている。
でも私たちの性行為は様式を伴った優雅なものであり、下層階級は汚らしくて嫌悪するべきものなのよ!
このように、「わいせつ」は上層階級と下層階級を分ける標章として機能し、「望ましい規範」から脱する、反社会的な意味を持つ言葉へと変わっていったのです。
2006年に公開された、映画『マリー・アントワネット』を観るかぎりでは、貴族の方がパーリーピーポーの極みみたいな感じですけどね(笑)
純血の達成は不可能?
キリスト教の厳しい性規制はどこいった!?
女性は純潔を守れ、結婚して性行為しても快楽を得るな、姦通は罪だ!などなど。
魔女狩りなども行われたきた黒い歴史があるにも関わらず、やはりここでもフタを開けてみると、聖職者が、純潔を維持するための教会や修道院の秩序が、しばしば乱脈であったことについては、大方の歴史家が同意しています。
つまり…
もとより「純潔の達成」は、多くの人にとって不可能であった
と言わざるを得ません。
実際、宗教を信仰している方の中には純潔を守っている人もいるのに、聖職者が守らないなんて本末転倒…。
私の個人的感想
でも、私が前回と今回の記事を通して、一番皆さんにお伝えしたいことは…
人間はもともと不完全なんだよ
ということ。
あれだけ戒律が厳しい宗教も、人間を「まとも」にすることはできないのです。
そして…
「まとも」になれなくて当たり前!
人間を「不完全」とした場合、逆に「完全」とは何なのか?
それは、「完全=ロボット」ですよ。
「不完全」という言葉自体に良いイメージがないのですが、でもこの不完全さが私たちを人間たらしめているのです。
私が今回、「性」をテーマに取り扱っている理由の一つもここにあります。
不完全さを認めること
そして…
不完全である理由に「心」が関係していること。
その「心」の方向に、「性」や「感情」「感性」があるんです。
ここにしっかりと向き合うことで、不完全という完全さを人間は手にすることができると考えます。
コスモ・ライフォロジーでは、徹底的に心に向き合っていきますよ!
まとめ
というわけで、宮廷恋愛は文学として楽しむレベルでいいと思います(笑)
実践してもいいですが、そもそもはフィクションですからね。
それでは次回は、なぜこれほどにまで性規制の厳しいキリスト教が支持されたのか、についてお話していきたいと思います。
次回もお楽しみに♪