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【チベット密教】究竟次第の実践~六つの修行プロセス~

虹の煙 宇宙と性愛
natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

今日は密教修行の第二段階である、「究竟次第(くきようしだい)」についてお話したいと思います。

▼ 参考文献 ▼

◎前回までのお話はこちら↓

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究竟次第の実践内容

究竟次第は前回もお話したように、ほとんどの修行者が到達できない、超難関の秘められた修行です。

秘密集会聖者流の究竟次第は、全部で六つの修行プロセスで構成されます。

  1. 定寂身
  2. 定寂口
  3. 定寂心
  4. 幻身
  5. 光明
  6. 双入

以下の解説は、一般人である私たちが行じても意味がありません。お話する行を隠喩・象徴としてとらえてください。

定寂身

この修業は、修行者が自分のリンガ(陰茎)の尿道に滴(ティクレ=精液)を観想(瞑想)し、その観想の力によって、風(ルン)を中央脈管に導き入れ、とどめ、融解して、「空性」を如実に体得しようとするものです。

この段階では、実際には「空性」の智恵は生じておらず、生起次第(しようきしだい)から究竟次第への、いわば橋渡しの役割を果たしています。

修行者は自分のリンガの先端ないし尿道に滴を観想し、そこに全精神を余すことなく集中していくと、風の意識がじつは重なっているということに、おのずと気づきます。

つまり、意識をとどめたところが、風の所在する場所なのです。

このメカニズムに気づけば、修行者は自在に「風=意識」を操作していくことが可能になります。

ここでもリンガ、すなわち男性器が重要な役割を演じています。

ちなみに、8世紀以降の密教では、男性の精液は「菩提心」、すなわち悟りを求めようとする根源的な心の象徴であり、さらには菩提心そのものとみなされていました。

この論理を突き詰めていけば、射精は菩提心の放出と同じ意味をもちます。

その結果、師の僧が女性パートナーと性交し、精液と女性の愛液の混ざったものを菩提心と称し、弟子の口の中に入れる行など以外では、射精は強く戒められました。

したがって、修行者たちは精液の保存に極度の関心を示さざるをえず、夢精を恐れて眠るに眠れないという滑稽な事態さえあったらしいのです。

natan
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…( ´゚д゚`)ポカーン

定寂口

修行者は自分の心臓の上端に、滴ないし真言の文字を観想します。

すると、上からの風と下からの風が心臓のチャクラに通ずる中央脈管に入り、とどまり、溶解して、心臓の脈管の結び目が少しずつほどけはじめます。

心臓の中央脈管に風を流入させるには、前もって心臓の上下の脈管をゆるめておかなければなりません。

それには、自分の鼻の先端に光の滴を観想する微細ヨーガを行じます。

鼻の先端に光の滴を観想することは、リンガの先端に滴を観想することに通じ、自分が実際の女性パートナーと性的ヨーガを行じても、菩提心(精液)が漏れないようにとどめることや、自分が想像上の女性パートナーと性的ヨーガを行じたとき、菩提心をとどめることに習熟できるそうです。

こうすると、生命活動が活性化され、心臓に風が集まりやすくなるそうです。

定寂心(心清浄)

前回の定寂口で修行者自身を活性化し、心臓のチャクラの脈管を完全にほどいて、その奥にある「不壊(ふえ)の滴」に風を送り込み、融解させます。

風が心臓の中の「不壊の滴」に完全に溶解すると、四つのビジョンが現れます。

  1. 顕明(ナンワ=空)…明浄無垢の秋の空に、月光が充満するごとき白いビジョン
  2. 増輝(チューパ=極空)…明浄無垢の秋の空に、太陽が昇ったごとき赤いビジョン
  3. 近得(ニェルトプ=一切空)…明浄無垢の秋の空が暮れなずんだごときどす黒いビジョン
  4. たとえの光明…擬似的な光明のビジョン

①、②、③の各ビジョンは「三空」といい、男女の性行為、就寝中、意識不明などの状態においても、類似のビジョンが出ますが、根本的には人間が死ぬときに現れます。

すなわち、定寂心の修行では、生きながらあらかじめ死の状態を先取りすることになります。

④は以後の修行で体験されるはずの「本当の光明」に似ていますが、あくまで類似の状態に過ぎないので、「たとえの光明」と呼ばれています。

「三空」を体験するときは、たとえようのない快楽がともなうといわれ、「三歓喜」とも称されます。

この状態がいわゆる「オーガズム」だと私は考えています。

幻身

幻身はあらゆる修行の中で、もっとも難しいとされる段階です。

幻身とは、人間が死んで次の生命形態としてこの世に生まれ変わるまでの間、つまり「中有」の状態がまさに幻身であり、「虹の身体」とも呼ばれます。

幻身は幻身同士では相手を見られますが、普通の人間には見えません。

ただし、幻身を成就した修行者は、幻身を見ることができます。

また、幻身を成就した者は、死に際して前世の業に制約されず、自在に来世を得られたともいわれています。

幻身の修行は熾烈な努力を要するにもかかわらず、この段階で出現する幻身は、まだ完全には浄化されておらず、それゆえに「不浄の幻身」と呼ばれます。

完全に消化され幻身を成就するのは、次の段階で「本当の光明」を得てから後のことで、それまでは以前の粗なる身体をまったく捨て去ることはできないのです。

本当の光明

全身全霊をあげて、心臓のチャクラの中にある「不壊の滴」に、すべての風を送り込み、融解させます。

すると、いままでに体得した「顕明」「増輝」「近得」がみな一つに溶け込み、「本当の光明」が体得されます。

その際、風が「本当の光明」の乗り物の役割を果たします。

このとき、最高の快楽である「大楽」が生じ、その大楽の最中、修行者は「空性」を文字通り目の当たりにします。

ついに、「三空」をはるかに超える最高次元の空にほかならない「四空」が成就するのです。

双入

前段階で「本当の光明」を体得したならば、今度はもう一度前に戻って幻身を出現させます。

ここで再び出現する幻身は、「本当の光明」によって過去世の業や今生の煩悩が完全に浄化されているので、出現した幻身は完璧に「清浄な幻身」となります。

こうして「本当の光明」と「清浄な幻身」を同時に成就させることには言うまでもなく、最高の快楽中の快楽がともないます。

それは大楽にもまさる大楽であり、自他の区別など雲散霧消して、自在に生きとし生けるものごとくを、至福の中で救済する境地に入ります。

これが「双入(スンジュク)」、正確には

有学の双入

つまり、まだホトケから学ぶ余地がある双入です。

さらにこの境地を生きて、十分な功徳と智恵を集積したとき、ついにホトケからもこれ以上なんら教えを請う必要のない境地に達します。

それが

無学の双入

であり、ホトケの境地そのものです。

すなわち解脱です。

ヌーソロジー的に読み解いてみると…

さぁさぁさぁ、難しい用語も多く、読みづらかったと思いますが、今日私がお伝えしたかったことを簡潔にまとめると、修行の中で新たな意識段階に突入するとき、

とてつもない快楽がともなう

ということ。

そして、3つ目の修行である定寂口で、さまざまなビジョンが現れるといいますが、「顕明(白いビジョン)」というものが今後お話していく予定である、AV監督の代々木忠さんが見出した境地と類似しているのです。

さらに、⑥双入において達成される「有学の双入」「無学の双入」

これって、ヌーソロジーに置き換えると、

  • 有学の双入=ヒト?
  • 無学の双入=真実の人間?

ぽい話に聞こえませんか?

「双入」という言葉にもあるように、コスモ・ライフォロジーが最重要視しているミックスツイン構造を持った何らかの境地なのかしら…。

変換人はミックスツイン構造を獲得していく存在なので、有学の双入は変換人ではなさそう…。

あとこれは以前からの私の勝手な妄想だったのですが、冥王星のオコツト情報によると、約6,500年後に「力の等換」が行われ、そのときに全宇宙のDNAの一斉組み換えがなされるという話があります。

調整期と覚醒期03

その際に、私は漠然と、

natan
natan

このとき、みんなイッちゃうんじゃない?

なんて思っていたのですが、今日のお話を通して、それはやっぱり当たってるかもなんて思いました(笑)

なぜこういった発想に行き着いたのか、今では覚えていないんですけどね(笑)

はてさて、正解はわかりませんが、ヌーソロジーを勉強しているからこそ、難しい密教修行の境地も何となく理解できるのが面白いですね。

そして、何らかの境地に達したとき、大快楽がともなうという点においては、性エネルギーが絶対欠かせない、というより性エネルギーなくしてその境地はやってこない、ということが超重要ポイントかなと思います。

それでは次回は、なぜ性的ヨーガが必要なのか?についてお話したいと思います。

次回もお楽しみに♪

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