私の宇宙からこんにちは、natanです。
このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第5回放送時のトーク内容全文をご紹介します。
本日のトーク内容
さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
今日お話する内容も前回に引き続き、このチャンネルで今後お話していくすべての土台になる基礎構造や基本情報について解説したいと思います。その基礎になる構造について、四つお話しています。
今日お話する内容は、四つ目の「心理学と哲学、そしてヌーソロジーの立ち位置」についてです。
このチャンネルの初回の放送でもお話しましたが、私はヌーソロジーを学ぶ前に、ヌーソロジーの土台になっている心理学と哲学をまずは学んでいくことが、ヌーソロジーを理解する近道だと考えています。
なぜなら、人類が何千年もかけて行ってきた真理への探究に関する思考や知の集積である哲学と、人間の心理の領域をひとまとめにしたもの、そして哲学と心理学よりも上位の領域に位置するのがヌーソロジーだと思うからです。
さらに、ヌーソロジーは世界と自分を接続させて考えていきます。それは、世界を考えることは自分を考えること、自分を考えることは世界を考えることと同じ意味なので、まずは自分を知っていくことが重要になります。そのことを知っていくためには、哲学と心理学が有効だと思っています。
したがって、これまでの人間の思考活動や心の活動をまずは理解しないことには、ヌーソロジーの世界にはたどり着けないと私は考えています。
もちろん、ヌーソロジーの視点から世界や宇宙を捉えることについて否定しているつもりはまったくありません。しかし、その視点から世界や宇宙を見ても、自分自身の思考や心など、自分の中身が追いついていない状態だと、ヌーソロジーをなんとか頭で理解しようとしてしまい、最終的には頭でっかちになるだけだと思います。すると、誤った宇宙観を持ってしまう可能性があるため、いきなり上位から宇宙を捉えるのではなく、下から徐々に上がっていくことによって間違いが生まれないと私は考えます。
というわけで、心理学や哲学、そしてヌーソロジーの立ち位置について、私なりの考えをお話していきたいと思います。
科学と宗教について
世界認識について
まず、ヌーソロジーの世界に到達するためには、「世界認識」「空間認識」「死生観」という視点で人間の意識の違いを見てみると、階層性があることに気づきます。
はじめに、今現在、人間意識における世界認識は二通りあると考えます。一つは、世界は物質で構成されているとする、現代科学の視点です。そして人間は、物質進化の果てに生じた生命現象だとしています。よって、科学は物質を扱います。
二つ目は、世界は神が創造したとする、宗教の視点です。そのため、人間も神が創造したとされています。そして宗教は精神を扱います。
死生観について
科学と宗教、両者はまったく異なった視点を持っていますが、とある価値観は一緒です。それは「生と死」に対する価値観です。
科学は医療の分野があるように、死を前提に生を考えます。そして宗教は、「死」という概念がないと成立しません。なぜなら、死後の世界において、良い世界に行くために現世を生きるのが宗教の考え方だからです。
空間認識について
また、「生と死」という価値観を持つがゆえに、世界と自分自身の捉え方も科学と宗教は一致しています。それは、「私は広大な三次元空間、または宇宙空間にすっぽり包み込まれている」といったような、世界は自分の外側にある、という認識です。
すべてにおいて「死」から逆算して生を考える。そのような死への考え方が、空間の認識さえも生みだしていると言えます。
科学と宗教は一見相反するもの同士に見えますが、じつは「生と死」や空間の認識において共通しているのです。つまり、科学と宗教は双対構造を持っている、と言えると思います。この領域に今現在、人間の意識は位置していると思われます。
私はYouTubeでNewsPicksというチャンネルをよく見るのですが、そのチャンネルで「Rethink Japan」という番組があります。「日本のあり方をもう一度考えよう」というコンセプトでやられている番組です。
そこに出演されている経営コンサルタントの波頭亮(はとうりょう)さんが、「あと10年もたったら、イスラム教が世界一の宗教に躍りでる、それによって世界は科学と宗教の二つに分かれる」とお話されていました。ですから、科学と宗教の双対構造があと10年たったら、ハッキリ目に見えてわかるようになるのかもしれません。
哲学の立ち位置
世界認識・空間認識について
物質を扱うのが科学、精神を扱うのが宗教、それぞれは分かれていますが、物質と精神は、人間の基本的な成り立ちでもあります。物質は肉体、精神は思考や感情、心です。その物質と精神という人間の基本的な成り立ちについて、両方を捉えるのが哲学です。
哲学は世界認識を「私」という位置からスタートさせます。それは、科学と宗教のように、世界と自分を区別して考えるのではなく、世界と自分を接続させて考え、その思考の起点となるのが「私」だということです。
このような世界認識によって、「その認識は私がそう思っているだけ」というような主観と、「その認識はみんなが共通して持っている」という客観、この両者を哲学は明確に分けます。
科学と宗教には客観という視点しかありません。主観を持ってしまうと科学においては正しく分析ができないですし、宗教においては主観は制するもの、抑えないといけないものになるからです。
その世界認識について、オーストリア出身の哲学者であるルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』という本の中で、彼はこう語っています。
私は、私の世界である
『論理哲学論考』5.63
主体(私)は、世界の一部ではない。そうではなく世界の境界。
『論理哲学論考』5.632
私という存在は、3次元空間の中にポツンと存在しているのではなく、私の中で世界が展開しているということ。つまり、私というのは世界の境界、枠組みであって、その中ですべての出来事が起こっている、だから自分の外側に世界はない、ということです。まさに、世界認識が「私」から始まっています。
死生観について
また、死生観については哲学の重要な命題でもありますが、哲学では他者の死はたしかにあるが、自分の死については誰もそれを体験したことがない、と言います。これは、とても重要な視点です。
いつも目にしたり聞いたりする「死」というのは、かならず、かならず、他者の死なのです。
たしかに、自分自身も病気をしたり大きな怪我をしたりして、身体的に苦しい、限界に近い体験をしますが、「死そのもの」に関しては誰一人として経験したことがないのです。自分の死を経験したことがないということです。
「いやいや、臨死体験した人たちの話があるじゃない」と思われるかと思いますが、その臨死体験をした方でさえも生きています、死んではいないのです。「死人に口なし」と言われますが、本当にそうなのです。死んだ方は語ることができないのです。
だから、私たちが思い描く死後の世界というのは、生きている人の想像の世界であって、哲学では、誰一人として自分の死を体験した人はいない、だからこそ死後の世界というのは「ある」とも「ない」とも言えない、と言います。
そして、「”ある”とも”ない”とも言えないものを考えるのはやめよう」と言ったのが、ドイツの哲学者カントです。
これを地でいったのが、哲学の父でありプラトンの師匠でもあるソクラテスです。
私は、ソクラテスが大好きです!
裁判にかけられて、死刑を宣告されたソクラテスは、「僕は死なんて知らない、だから怖いとも思わない、だって死とは何なのか知らないんだもの」と言って、自ら毒杯を飲んだのです。もちろんプラトンたちの前でソクラテスは亡くなったという形で映っているとは思いますが、はてさて、等のご本人様は本当に死んだのでしょうか?それは本人だけがわかることなのです、だから真相は「???」です。
結論として、「私は死なない」というのが哲学の答えです。
でも、ここで言う「私」とは、この現実世界で生きている私ではなくて、スピリチュアル的に言えば、魂としての私、というイメージです。そのためソクラテスも、「人生の目的とは、魂の世話をすることである」と言います。本当に生きているのは魂だということです。したがって、哲学は死を超越した視点を持っています。
心理学の立ち位置について
心理学には「投影」という用語があるように、「世界をそのように見てしまうのは、自分の内側(感情や価値観など)を外側の世界に投影しているからだ」という視点を持っています。つまり、心理学も哲学同様、世界認識が「私」からスタートしています。
「死」に関して、心理学は明確な答えがあるのかはわかりません。私はヌーソロジーに出会う前までは心理学を勉強していて、さらに実際に自分の心の世界に潜ってあれやこれややっていたので、私の死に対する考え方をお話します。
自分の心に向き合っていると、未来やその先にあるであろう「死」のことについて、さほど考えない、もしくは、「”死”があってもなんのその!」という感じです。怖くないのです。もちろん死に至るような体験を目の前にしたら怖いと思います。肉体が本能的に反応してしまうので。
怖くないというその理由は、心の問題も解決した後、その状態で改めて世界を見ると、「人生はなんて素晴らしいんだ」と感動してしまうからです。「生まれてきて良かった」「この人生で良かった」といったように、苦しいこと、悲しいことも愛おしく感じる、感謝の気持ちでいっぱいになるのです。
これまで未来に不安を持って生きていたのが、未来ではなく、「今、ここ」だけを見るようになりました。今が幸せなので、死をあまり考えないのです。
しかし、最近は災害も多く、これからもますます多くなると言われているので、災害に対する被害をなるべく少なくするために、それについて勉強をしたり、防災グッズを少しずつ集めたりしています。そのような行動も、「死にたくないからやっている」というのではなく、災害で痛い思いをしたくないとか、災害時はどうしても精神的に弱くなるので、自分の弱さを自覚してそれに向けて対策しているということです。怪我をしないため、精神を守るためです。
また、自分の人生の中で起きることは何でも自分にとって重要なイベントだと思っているので、このような時代に生まれたということは、災害の時代としっかり向き合うことが大切なんだろうなという思いで、しっかり災害の時代を生きようと思っています。ですから、「死にたくないから」ではなく、自分の人生を生きるために災害をもしっかり向き合うという姿勢です。
哲学と心理学は双対構造をもつ
ということで、私は、哲学と心理学は世界認識や死生観に関して共通する点があるので、両者は双対構造になっていると考えます。
また実際の体験としては、自分の心の世界に潜っていくと、気づいたら哲学の領域に出てしまうことがいつもあります。
私はこれまでは哲学を勉強してこなかったのですが、心を探究していると、知らぬ間に哲学的な思考になっているということに気づきました。よって、いつも私は心理と哲学の間をスースーっと行き来しているので、実体験を通して「あ~心理と哲学は双対構造持っているんだろうな」と思ったのです。
ヌーソロジーの立ち位置について
上記の領域を行き来している中で、たまにぴょん!と出てしまう世界がヌーソロジーの領域です。ということで、ヌーソロジーは哲学と心理学より上位にあると考えます。
ヌーソロジーの世界は、哲学の主観と客観を一つにまとめた世界で、さらにヌーソロジーでは「空間というのは自分の身体」「本当に生きているのは空間側の方」だと言います。
科学と宗教の階層では、世界は自分の外側にあると思っている領域です。
そして、哲学と心理学の階層では、世界は自分から始まっているという領域です。
そしてヌーソロジーは、空間は自分の身体なんだとする領域です。
死については、「空間が存在している以上、死にようがない」というのが私の感想です。
さらにヌーソロジーでも言われている「空間が自分の本当の身体」というのは、死を超越している、もしくは「死そのものとして生きる」というイメージです。「死」も「生」も同じものになる、そんな領域です。
私たち人間は、科学と宗教の領域で「死」に怯えながら生きていますが、哲学や心理学、そしてヌーソロジーの方向というのは、本当の「生」について知っていくことであり、実際それを体験して「生そのものになる」「命ってこれだったんだ」というような、本当の命を知っていくということだと私は思っています。
ここからは推測ですが、宇宙はかならず双対構造を持つため、きっとヌーソロジーにも相方となる宇宙論があるはずだと私は考えています。ヌーソロジーは男性性的なので、きっと女性性的な宇宙論がこれから出てくるという予測です。
まずは、私たちはヌーソロジーの世界に到達できるように、哲学と心理学をベースに自分を知っていくことから始めていきましょう。
最後に
というわけで、今回でこれからお話していくもののすべての基礎となる構造についての解説は終わりになります。それ以外の構造については、必要になったとき、つどお話していく予定です。
次回は、以前、双対構造を解説した回で、「善と悪」について「ここは語るとなると奥深い、一つのテーマとして語れる」とお話したので、その件についてお話したいと思います。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!