本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回は、おのごろ島の誕生シーンについてお話をしました。今回は、イザナキとイザナミの最初のまぐあいシーンについてお話したいと思います。
まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。
原文/読み下し文/現代語訳
イザナキとイザナミの身体
於其嶋天降坐而 見立天之御柱 見立八尋殿
於是問其妹伊邪那美命曰 汝身者如何成 答白吾身者成々不成合處一處在
尒伊邪那岐命詔 我身者 成々而成餘處一處在
故以此吾身成餘處 刺塞汝身不成合處而 以為生成国土 生[宇牟]奈何
伊耶那美命 答曰然善
その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。
ここにその妹伊邪那美命に問ひたまはく、「汝が身は如何にか成れる」ととひたまへば、「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処あり」と答へたまひき。
尒して伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。故、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処を刺し塞ぎて、國土を生み成さむと以為ふ。生むこと奈何に」とのりたまへば、伊邪那美命、「然善けむ」と答へたまひき。
伊邪那岐命と伊邪那美命は、その島に天下り、天の御柱と八尋殿を見立てた。
そして、伊邪那岐命は妻にこう問うた。「お前の身体はどのようになっているか」。
伊邪那美命は「私の身体はもこもこと成ったが、一箇所だけ成らないところがある」と答えた。
それを受けて伊邪那岐命は「私の身体はもこもこと成ったが、一箇所だけ成りすぎて余ってしまったところがある。それならば、この私の余っているところを、お前の足りない部分に刺し塞いで国の土を生成したいと思う。生むのはどうだろうか」と言った。
伊邪那美命は「それが善いでしょう」と答えた。
イザナキとイザナミのまぐあい
尒伊邪那岐命詔 然者吾与汝行廻逢是天之御柱而 為美斗能麻具波比如此之期
乃詔 汝者自右廻逢 我者自左廻逢
約竟廻時 伊邪那美命先言阿那迩夜志愛上袁登古袁
後伊邪那岐命 言阿那迩夜志愛上袁登賣袁
各言竟之後 告其妹曰 女人先言不良
雖然久美度迩興而生子 水蛭子此子者入葦船而流去
次生淡嶋 是亦不入子之例
尒して伊邪那岐命詔りたまひしく「然らば吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひ為む」とのりたまひき。
かく期りて、すなはち「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ」と詔りたまひき。
約り竟へて廻る時、伊邪那美命先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後に伊邪那岐命「あなにやし、えをとめを」と言ひ、各言ひ竟へし後、その妹に告げたまひしく「女人先に言へるは良からず」とつげたまひき。
然れども、くみどに興して生める子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てき。
次に淡島を生みき。これもまた子の例には入れざりき。
伊邪那岐命は「ならば私とお前とで天の御柱を廻り逢い、みとのまぐあいをしよう」、そう約束を終えて、「お前は右から廻り逢い、私は左から廻り逢おう」と言った。
約束を終えて廻ったとき、伊邪那美命が先に「あら、いい男」と言い、次に伊邪那岐命が「おお、いい女だ」と言った。
それぞれが言い終えた後、伊邪那岐命はその妻に「女が先に言うのは良くない」と告げた。
しかしながら、御合いによって生んだ子は水蛭子だった。この子は葦の船に乗せて流し去った。
次に淡島を生んだが、この子もまた子の数には入れなかった。
解説
天の御柱と八尋殿について
一般的な解釈
天の沼矛を「ここををろろ」とかき鳴らして、その矛の先に付いた塩が滴り落ちて積もってできたのがおのごろ島。そのおのごろ島にイザナキとイザナミが天降ったところからのお話です。
そのおのごろ島に降り立つと、まずは天の御柱と八尋殿を見立てます。天の御柱と八尋殿とは一体何なのかというと、天の御柱は極太の巨大な柱、そして八尋殿は、「八」はたくさんという意味、「尋」は両手を左右に広げた長さという意味で、それらを総合すると、とても広い屋敷のことだと言われています。
興味深いことに、このシーンでもまた、縦と横の構造が出てきます。前回は、天の沼矛と天の浮橋が縦と横の構造になっているとお話しました。このシーンでも、天の御柱は縦、八尋殿は横という構造が見えます。
「見立てる」の意味
さて、イザナキとイザナミは、その天の御柱と八尋殿を「見立てた」と言われています。「見立てる」の意味を調べてみると、複数の意味がありました。
- 見て選び定める。選定する。
- 病気を診断する。または、鑑定する。
- 別のものになぞらえる。仮にそのものと見なす。
といったような意味があるようです。私の考えは、たぶん、『古事記』における「見立てた」は、これら全ての意味を含んでいるだろうなと思っています。
そもそも、天の御柱と八尋殿をどう考えるか、というところが重要だと思うのですが、たぶん多くの方は、大きな太い柱を持った、とても広い屋敷を建てたと考えると思うんですね。
私の解釈
ですが、私はちょっと別の考えを持っていて、「見立てた」と言われているので、屋敷は建てていないと思うんです。私は、天の御柱と八尋殿を、後世の神々が今後展開させていくであろう物語を上演するための舞台のようなものだと考えているからです。
「見立てた」と言われるのは、未来を予測してその舞台を作ったから。いや、未来予測ではないですね。未来をこう展開させるのだと決めている。全ては私たちの手中で起こすことなのだと。だから、手中に収めるだったり、手の届く範囲内でといった意味で、八尋殿には「両手を左右に広げた長さ」という意味を持つ「尋」の字が当てられているのだと私は考えました。
また、このシーンはおのごろ島に降り立ってのことです。前回の解説で私は、おのごろ島の「ご」は囲碁の「碁」という漢字が当てられていることから推測するに、この島は決められた範囲の中で、何らかのルールを持つ島だとお話したのは、これからイザナキとイザナミが何らかのルールをこの舞台上に作り出すと考えたからです。だから「見立てる」と言われているのだと考えました。
何らかのルールを生み出すという点については、後日触れることにしましょう。
二神の身体チェック
さて、このシーンをさらに読み進めていきましょう。
イザナキは、いきなり、イザナミに「お前の身体はどうなっているか」と尋ねます。そう尋ねた理由は、たぶん、おのごろ島に降り立つまで身体は持っていなかったのかもしれません。それ以前はエネルギー体みたいな感じだったのでしょうかね?詳しいことはわかりませんが、どうやら身体ができたみたいです。
イザナミは「身体は出来たけれど、私には一つ足りないところがある」と答えます。「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処あり」を、私は「私の身体はもこもこと成ったが」と「もこもこ」と訳してみました。内側から出来上がっていく感じにしたかったからです。合ってるかどうかわかりませんけどね(笑)
そして、イザナキは「私も身体が出来た。しかし、出来すぎて余った部分がある」と言って、「私の余った部分をお前の足りない部分に刺し塞いで国土を生成しようと思うが、どうだろうか」と言います。
ちょっとここでストップ!
国土の意味について
このシーンにおいて、私は重大な誤読を発見しました。それは、イザナキが「国土を生み成さむと以為ふ」と言ったときの「国土」です。これを人は国家を意味する「こくど」と解釈したわけですが、これは大きな間違いだと私は思うんです。
なぜなら、『古事記』は、宇宙や自然の成り立ちそのものについて語っていて、人間の観念が生み出した国家については語っていないからです。神話を国家創生として語ったのは『日本書紀』の方です。『古事記』は、自然(ネイチャー)の成り立ちを神々に託して語った、自然に関する神話なんです。
だから、「国土」は国家を意味する「こくど」ではなく、シンプルに「国の土」のことを指していると私は思うんです。イザナキはイザナミに「国の土を生成しようと思う」と提案しているんです。これは土作り、土壌生成の話だと思います。
国の土を生成するとは、権力によって統治する、大地の上に観念として形成される国家のことではなく、国の土を生成するとは、土の上の話ではなく、土の中の話だと思います。
農家さんならピンと来るはずです。農家さんが常日頃、どうすれば栄養ある美味しい野菜が作れるだろうと考え、試行錯誤しながら畑の土作りを頑張っているアレのことです!土作りの話だからこそ、これが前回お話した万物創造のための床作りにも繋がるし、さらにツクヨミが統治する食国にも繋がっていくんだと私は思うんです。
「国土」を土壌生成として読むとき、『古事記』はまったく違った顔を見せることになります。この土壌生成に関することは、今後物語が進む中で徐々に明らかになっていくので、今後の展開をぜひ楽しみにしていてくださいね!
というわけで、さらに先のシーンに話を進めましょう。
天の御柱を廻り逢う
まぐあいについて
イザナキはイザナミに、「二人で天の御柱を廻り逢い、そこでみとのまぐあいをしよう」と言います。そのとき、イザナミは右、イザナキは左から廻ろう、そして逢おうという話になります。
まぐあいというのは「目が合う」こと、「目合い」と書きます。それが転じて、男女が性交することという意味になったようです。
でも、たぶん、このシーンでのまぐあいは、人間のような男女の性交ではないかもしれません。天の御柱を廻って逢うというのは、柱を廻っているときには見えなかった相手が、ある地点に来たとき見えるようになるということ。目と目があうこと。それは、相手を心に留めたということ。留めるとは、心に相手が突き刺さることでもあると思うんです。
「私の余った部分をお前の足りない部分に刺し塞いで国土を生成しようと思う」というのは、そういったシンプルな心の動きそのもののことを表現しているのではないかなと私は思いました。
漢字の右と左について
さて、二神が天の御柱を廻ることについて、一つ気づいたことがあります。それは、右と左の漢字の書き順に関することです。
私はこれまで、天の沼矛と天の御柱は縦、天の浮橋と八尋殿は横とお話してきましたが、イザナミが廻る方向の右という漢字は、書き順は縦棒から書き始めるんですよね。そして、イザナキが廻る左は、横棒から書き始めます。
私はそれに気づいたとき、「右回り、左回りと言っているけれど、たぶんそれだけでなく、漢字の書き順が示すように、ここでも縦と横の関係性が出てきてるんだろうな」と思ったんです。だから、もしかすると『古事記』は、漢字の書き順やその成り立ちについても語っているのかもしれないなと思いました。
『古事記』のルール
裏方の神々は物語の脚本である
さて、お話戻りまして…。天の御柱を廻って、二神が出会ったところで、最初にイザナミが「あら、いい男」と声をかけ、その後イザナキが「おお、いい女だ」と声をかけます。そう言い終えると、あら不思議、イザナキが「女から声をかけるのは良くない」と告げます。
「なぜだ?」「なぜ女から声をかけたら駄目なんだ?」とみなさんも思いますよね。「男尊女卑だ!」「女性にも権利を!」という話に発展しそうな感じですが……。じつは、そのようにイザナキが女性を低く見てそう言ったのではないと私は思います。
このシーンで私は、『古事記』のあるルールを発見しました。『古事記』解説第二回において神世七代についてお話したとき、神世七代のうち、六代目まではイザナキとイザナミの性質を分化させた神々だとお話したのを覚えていますでしょうか?その神世六代目までを見てみると、イザナキとイザナミがまぐあいをするシーンとの関連性が見えてくるんです。
左の方から見ていくと、六代目の於母陀流神と阿夜訶志古泥神は共に声を掛け合う男女神ですが、イザナキとイザナミも天の御柱を廻り逢い、そこで同じく声を掛け合います。次に、五代目の意富斗能地神は男性原理の力、大斗乃弁神は女性原理の力の神様で、それがイコール、イザナキとイザナミのまぐあいを意味するもの。
四代目の角杙神と活杙神は、角はイザナキの身体の中で出来すぎて余った部分、それを活かす活杙神は、イザナミの身体の中で足りない部分を刺し塞ぐ、つまり角を活かすということ。最後に、三代目の宇比地迩神と須比智迩神は、泥や土の神様で、私はさっき「国土は土作りの話」だとお話しましたが、ここで土が誕生します。
だから、このまぐあいシーンは、じつは、神世七代を物語の重要なシーンに代えて、逆から展開させているようなんです。すると、女から声をかけるのがよろしくなかった理由が見えてきます。声を掛け合うとき、男神である於母陀流神が先に「美しい顔だ!」と声をかけているからです。だから、それに従ってイザナキが先に声をかけなければいけなかったんです。誘う男神がイザナキで、イザナミは誘われなければならなかったんです。
以上のことから、このシーンで発見した『古事記』のルールというのは、イザナキとイザナミのように物語の表舞台に出てこない、一度出現したきり二度と出てこない神々は、じつは、後世の神々のセリフや動作になっているということ。つまり、裏方の神々は物語の脚本として機能するということです。
すごくビックリな話ではありますが、このルールは、今後何回も物語の中で適用されていくので、その都度触れていきたいと思います。
また、今回、ルールに反する形でイザナミが先に声を掛けてしまったわけですが、これは単にイザナミの失敗ということではなく、『古事記』の聞き手に対して、『古事記』の構造上のルールを伝えるためにわざと失敗をしてみせた、と考えることもできるなと思いました。きっと意味のある失敗なのだと思います。
本質を同じくすることを別の形で二回繰り返す
さてさて、このシーンは全体を通して、さらにおかしな状況を描いています。天の御柱を廻って二神が出会ったところで声掛けをして、そしてまぐあいを通して島を生もうとする。
私が疑問に感じたのは、天の御柱を廻ってうんちゃらかんちゃらという行動だけでなく、天つ神は天の沼矛を二神に渡して、「クラゲのように漂っているこの国を修め理り固め成せ」と命じたのに、イザナキとイザナミはまったくそれとは違うことをして島を生もうとしている。「天の沼矛使ってないじゃないか」と。そのことに私は、「あれ?言われたことと違うことやってないか?」と思ったんです。
ですが、『古事記』を読み進めていくうちに、ここで二つ目の『古事記』ルールを発見するに至りました。それは、『古事記』にはどうやら、本質を同じくすることを別の形で二回繰り返す、というルールがあるようです。
このシーンでいえば、イザナキとイザナミは天の御柱の周囲を廻って、まぐあいをして島を生みます。天の御柱を廻るというのは、天の沼矛をかき回しておのごろ島ができたことと本質が同じなんです。矛をかき回すか、天の御柱の周りを廻るか。縦軸そのものを回転させるのか、それとも横軸を回転させるのかと、かき混ぜて島を生むという本質的に同じことを、それぞれ違うやり方で表現していると気づいたんです。
だから『古事記』では、本質を同じくすることを二つのシーンに分けて描くというルールがあるようです。もしかしたら、この本質を同じくすることを二回行うという背景には、『古事記』の縦横構造が大きく関わっているのかもしれません。
この本質を同じくすることを二回繰り返すことは、今回のシーンではもう一つ描かれています。それは、イザナキとイザナミの声の掛け合いです。
天の御柱を廻った二神は、出会ったところで声を掛け合いますが、天の沼矛を使ってかき混ぜるときも、「ここををろろ」とかき鳴らしました。天の沼矛を動かすときも、天の御柱を廻ったときも、共に音が発せられているんです。『古事記』が「音」と書いて「こえ」と読ませることにも、深い意味があるのかもしれないなと思いました。
水蛭子と淡島について
では、ここから今日最後のお話に移ります。
イザナミが最初に声掛けをしてしまった結果、水蛭子と淡島が生まれました。
水蛭子は、ヒルのように骨のないグニャグニャした子どもだと言われたり、『日本書紀』を参考にすると、足が悪い子、または、後に登場する天照大御神の別名がオホヒルメで、だから水蛭子も日の子どもであるなど、いろんな説があります。
何が正解かはわかりませんが、私は、その水蛭子を葦船に入れて流したとあるので、水蛭子の行き先は葦原中国かもしれないなと思っています。葦原中国は、後に人間が住む世界になります。だから、水蛭子は人間に関する何かなのかなと思うんです。そして、葦原中国はこの時点ではまだ完成されていない世界でもあります。
水蛭子が人間に関する何かかもしれない、という仮説を採用して思考を進めてみると、たぶん、最初に人間に関するものが生まれてしまったら駄目なのだと思います。まずは物語を展開させるための領域となる島を生み出し、そしてそこに神々を登場させ、その後に人間が登場するという順番でないといけないのかもしれません。
神を数えるとき、単位に「柱」を用いる理由は、神は世界を支える支柱のような存在だからなのかもしれません。その柱がない状態で生まれてしまう子どもは、背骨がないのと同じことなので、だから、水蛭子はヒルのようなグニャグニャな姿を象徴する名前になっているのかもしれないなと思いました。
水蛭子はその誕生が早過ぎた、もしくは正しい順番で生まれなかった。だから、未熟児的な表現になっているのかなと……。
世界の柱、身体の背骨となるのが神々。そして、背骨をすでに持って生まれてくるのが人間。人間の背骨は神から享受されたもの。そう考えてみると、水蛭子と人間はやはり関係がありそうだなと思いました。
真逆に生まれてしまった水蛭子。その水蛭子と淡島は、子の数には入れなかったとのこと。でも、私としては、この展開によって葦原中国に関する最初の初期設定がされたとも思っています。初期設定は、必ずどこかのシーンでしておかなければ、その後の物語を進めることができないと思うからです。
そして水蛭子は、幼すぎる、未熟児的な子として生まれてしまったわけですが、後にイザナキは黄泉の国に行った際、雷神を追いはらった桃の実に対して、「お前が私を助けたように、葦原中国にいるあらゆる人たちが苦しんでいるとき、助けてやってほしい」と言います。なので、イザナキは水蛭子のことは見捨ててはいないと思うんですよね。
ちょっと生まれるタイミングが早過ぎた。だから、葦船に乗せて未来の方向に流してあげたのかもしれない。直近で活躍をみせる存在ではないからこそ、子の数には入れなかったのかな、なんて考えています。
というわけで、以上がイザナキとイザナミの最初のまぐあいシーンについてのお話でした。
次回は、みなさんが「うわ!見たくない」と思うような、よくわからない島々がたくさん生まれてきます。でも、大丈夫です!それらを整理して、俯瞰して見てみると、面白いことが見えてきますので、次回も楽しく『古事記』を読み進めていきましょう。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!