ようこそ、コスモ・ライフォロジーへ♪

古事記☆新解釈【31】古事記は漢字の成り立ちを知っている!?「農」と「辱」の関係性から読み解く古事記と漢字の繋がりについて

「農」と「辱」アイキャッチ 新解釈『古事記』
スポンサーリンク

本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

解説

はじめに

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

天地初発からアマテラスたち三貴子誕生までを考察する中で、少しずつ「古事記は漢字の構造と深く関わっているらしい」ということが見えてきました。今はまだ、漢字がどういったルールをもって古事記の構造を支えているのか、その全体像はわからないのですが、ポイントポイントではいろんな漢字を拾えているので、今日は古事記と漢字がどう関係しているかについて、現時点でわかっていることをお話してみたいと思います。

これまでに見つけた漢字たち

これまでの考察で見つけた漢字をあげると、左から、黄泉国は「道」、禊は「犠牲」、そしてイザナキとイザナミの物語全体を通して「翡翠」。これらの漢字が物語と深く関わっていることがわかっています。

古事記と漢字の関係性について①

私は、古事記と漢字が深く関係していることに気づいてから、漢字に関する本をいろいろ読み漁りました。そして、落合淳思さんの字典『漢字字形史字典』を読んでいたときのこと。

漢字の発生は、紀元前1300年頃のチャイナで発見された、殷時代の甲骨文字が起源だと言われています。甲骨文字(象形文字)が時代を追うごとに、西周、東周、秦、隷書と変化していき、最後は楷書の形に行き着きます。この『漢字字形史字典』は、その変遷をたどることができるんですね。

これをパラパラとめくって読んでいたとき、「あ!」と思いました。古事記が漢字と関係している理由、その答えの一片を少し掴めたような気がしたからです。

古事記と漢字の関係性について②

「農」から「辱」が生まれる

一つ例をあげると、「農」という漢字があります。古事記解説第29回でもお話しましたが、イザナキの行動を通して、黄泉国のシーンでは農耕、禊シーンでは農牧の起源が語られていると私は考えています。ということは、イザナキは農の神でもあると言えます。

この「農」という漢字の甲骨文字を見てみると、木の形象を農具を使って切るような形になっているんですね。農耕はそうですよね。作物を切って収穫しますからね。

古事記と漢字の関係性について③

そして、面白いのはその先で、「農」という漢字を元にいくつか関連する漢字も作られているのですが、その中に「辱」があるんです。「辱」の意味は、「はずかしめる」や「はじ」「かたじけない」などです。

「農」から「辱」が生まれただなんて、一見すると奇妙に感じますが、字形史字典の解説によると、「辱」の原義は「草で覆われていたものがあらわになる」だそうです。つまり、農具を使って草を刈ったから「農」から「辱」が生まれたということですね。

古事記と漢字の関係性について④

でも、それが人間の辱めとなぜ結びつくのでしょうか?元の意味が時代を追うごとに変化していった、ということだとは思いますが、私なら「草を刈ってサッパリしたのだから良いことじゃないか」と思ってしまいます。

natan
natan

脱毛してツルツルすべすべになった肌は、逆に自慢したいくらいです(笑)

字典には、なぜ「辱」の意味が人間の辱めへと変化していったのか、その理由は書かれていなかったのですが、古事記にはその理由がちゃんと描かれていると私は思いました。この「辱」という漢字。これを見て、皆さんは何か思い出すことはありませんか?私はこれを見たとき、黄泉国でのワンシーンを思い出しました。

神話それ自体が漢字の成り立ちを語っている

イザナキが亡き妻イザナミに会いに黄泉国へ赴き、「一緒に帰ろう」と誘ったとき、イザナミは「私も一緒に帰りたい。だから、黄泉神に相談してくるから、その間、私の姿を見ないでくださいね」とお願いしたにも関わらず、彼はその約束を破って彼女の姿を覗き見してしまいました。すると、そこには全身にウジと雷神が成っている恐ろしい姿のイザナミがいて、「私に辱を見せましたね」と言って、怒りを爆発させました。ここで「辱」が出てくるんですね。

このシーンを通して、私はこう思いました。「農」から「辱」が生まれた理由は、農の神イザナキがイザナミを辱めたからではないだろうかと。私は、「辱」の原義の「草で覆われていたものがあらわになる」というのは、農具を使って草を刈ることではなく、農の神の「相手を辱めた」という行動の方が漢字の成り立ちに深く関わっていると思うんです。

なぜそう思うかというと、漢文学者の白川静先生は、「漢字は神事における儀式が元になって作られているものが多い」と考えていらっしゃったからです。また、甲骨文字も占いによって神々の意志を知り、それを記録しようとすることから生まれたと言われているからです。要は、神と漢字は切っても切れない関係にあり、それは言い換えれば、漢字は神様でもあるということ。

だから私は、漢字は神話が元になって作られているのではないだろうかと考えました。漢字は象形文字です。それは、神々を写し取ったものです。古事記の背後に、なぜ漢字の存在が見え隠れするのかというと、それは神話それ自体が漢字の成り立ちを語っているからだと私は思いました。

古事記と漢字の関係性について⑤

以前もお話しましたが、聖書の冒頭には、「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」とありますが、古事記の場合は「初めに漢字があった。漢字は神と共にあった。漢字は神であった」になるのではないかなと思います。西洋は漢字というものがないので、神を「ことば」に変えて表現したのではないでしょうか?

社会と恥の関係性について

さて、「辱」に話を戻すと、「辱」には似た意味を持つ漢字があります。それは「恥」です。

イザナミはイザナキに見られたくない姿を見られるという辱めを受けただけでなく、同時に恥の感情も持ったと思います。「農の神はヒドイことするのね。イザナミに恥をかかせるなんて」という感想で終わってしまいそうな話ですが…。

いえいえ、「農」と「辱」の関係性をイザナキとイザナミを通して考えてみると、深いふか~い古事記の教えが読み取れてくるんですね。それは、「社会と恥の感情は密接に関わっている」というもの。

「農」が意味する農耕や農牧は、社会性の原点、つまり「農=社会」と言えます。また、男女神はお互いを補完し合う関係にあり、イザナミはイザナキの鏡的存在でもあること。この二点を踏まえた上で、ここからは社会と恥の感情がどう関わっているかをお話していきたいと思います。

日本の「恥の文化」

まず、私が社会、そして恥というワードを通して最初に思い浮かべたことは、「恥の文化」というものでした。アメリカの文化人類学者 ルース・ベネディクトが『菊と刀』という本の中で、「日本の文化は『恥の文化』である」と語っています。これは、日本人の行動様式は、恥をかく、かかない、かかせるといったように、恥の道徳律が内面化されていて、その行動様式が日本人の文化を特色づけているというもの。

この『菊と刀』の内容は、個人的にはいろいろ突っ込みどころ満載で、「著者は一体どこの国の人の話をしているのだろう?これが日本人?ステレオタイプ過ぎないか?」と思う内容でした。ただ、日本人の恥に対する考察は、古事記の視点から考えてみても、「ああ、それはそうかもしれないな」と思いました。

なぜなら、日本人の恥の道徳律は、イザナキとイザナミが生み出したと思うからです。神話でその起源が記されているのであれば、日本人の振る舞いが恥によって規制されるのは致し方ないことだと思います。ベネディクトは日本を「恥の文化」と表現しましたが、日本の社会もそうだと言えます。「恥の社会」。

でも、ほとんどの場合、恥の感情はネガティブに捉えられがちで、日本人に対する世界からの感想は、「恥ずかしい気持ちは周りの視線ばかりを気にするからだ」とか、「人と違うことをやると、目立ってしまって恥ずかしいからだ」とかとか。しまいには「個性がない」「自分がない」とまで言われてしまう始末。

私も最初は「そうなのかも」と思っていた時期がありました。でも、「農」という漢字から「辱」が生まれていることや、農の神イザナキと辱の神イザナミは補完関係にあり、お互いを支え合っているということを知ったとき、考えが変わりました。

natan
natan

「いやいや!恥の感情があるからこそ、社会の秩序が保てるんじゃないか」と。

古事記と漢字の関係性について⑥

恥の感情によって社会の秩序が維持される

なぜ、ここで秩序の話が出てくるかというと、古事記を通して考えてみると、恥の感情が生まれたのは黄泉国、それは身体宇宙論でいえばお腹の世界。黄泉国で登場した荒れ狂うヨモツシコメや雷神たちの行動を見てわかるように、そこはカオスな世界だったからです。

そのカオスを目の当たりにした農の神イザナキは、「産屋を建てる」という言葉に象徴されるように、禊を通して各臓器を生み出したり、腹わたをお腹の中に収めたりするなどして、体内の秩序形成を図ったと私は考えています。そして、その行動を引き起こした一番の要因が、私は「辱」そして恥の感情だったと考えます。

黄泉国でイザナミが覗き見をされたとき、「あら、見ちゃイヤン」くらいにサラッと流していたら、秩序を生む必要はなかったと思います。でも、「み~た~な~!!!」と激怒し、そこにカオスが生じたからこそ、イザナキは「秩序を生まねば!」と思った。

すべての出来事のキッカケを生むのが女。これが古事記のルール。だから、社会の秩序は恥の感情を元にして生まれ、それによって維持もされていくと私は考えました。

古事記と漢字の関係性について⑦

恥をポジティブに捉えていこう!

日本人の恥じる気質を世界からはネガティブに捉えられてしまいますが、私はこう思います。

natan
natan

「恥の感情のどこが悪いんだ。恥こそが社会の秩序を保つんじゃないか。逆に、恥の感情がないからこそ、平気で嘘をつき、平気で恥をさらしながら、社会の秩序を壊している国々があるじゃないか。そういった国々は、少しは恥の感情を持ったほうがいい」と。

恥をさらすことと、恥る感情はまったく別物だと私は思うからです。

たしかに、恥の感情は感じて心地よいものではありません。しかし、古事記が社会の成立の裏には恥の感情があって、それは秩序維持に大事なものだと語っているとするならば、私たちは恥の良い面を知っていかなければいけないと思うんです。

また、「辱」には「はずかしめる」ということ以外に、「かたじけない」や「もったいない」という意味もあるわけで、日本人の恥の感情は、「他人から辱められたから恥ずかしい」ということではなく、「他人にあれこれやってもらうのはかたじけない、もったいない。他人に甘えてしまう自分が恥ずかしい」という意味で恥じるのではないでしょうか?

古事記で見てみても、黄泉国はイザナキの欲望や心の未熟さ、彼の甘えが露呈した世界でもありました。そこで「辱」と恥の感情が生まれたことを考えると、人は自分の未熟さを痛感したときに恥るのだと思うんです。また日本人は、他者を思いやる温かい心を持っています。だから他者の行動を通して「辱」、つまり「かたじけない」「もったいない」と感じ、それが自分の未熟さを痛感させることとなり、恥ずかしいなと感じる。それが謙虚な態度を生み、結果的に社会の秩序は維持されるのではないかなと私は思います。

まとめ

これは私の個人的な感想ですが、日本人は世界で一番誤解されやすい国民だと思っています。自分たちのあり方をポジティブに言い表す言葉や、論理的に話す術を持っていないからです。と言いますか、自分たちの成り立ちに関して、まったくもって無知だからです。

しかし、古事記は「日本人とは?」ということを教えてくれています。しかも、その内容は誇りや自信を持って、世界に向けて発信していい内容だと思います。

前々回の解説で触れた話もそうです。社会は頭で考えて作るものではなく、お腹で考えて作るものであり、お腹にこそ社会の本質があること。それを古来から日本人は知っていたからこそ、美味しくて健康的な食べ物が全国各地にあるわけで。私たちはそれを毎日食べているからこそ、健康を維持することができ、腸内環境も社会の秩序も保てている。だから、私たちは「本当の社会作りは日本がやってきているんだ!それも古代からだぞ!」と胸を張って世界にアピールしていいと思うんです。

日本人が自分たちのことをしっかりアピールできないと、世界から誤解され続けてしまいます。日本人はとことん自己アピールが苦手です。私はそんな日本人、ひいては自分のために、古事記を日本人の取説として用いて、世界中に日本人の凄さを伝えていきたいです。本当の社会、文化のあり方、育て方、そして維持の仕方を知っているのは日本人だと。恥にも良い面があるんだぞと。

恥の感情は、ときに自分の行動を縛ります。それは社会も同じことで、社会も自分の行動を規制します。社会と恥は表と裏の関係にあり、お互いを支え合っているからです。そして、それを最も象徴した存在が農の神イザナキと辱の神イザナミです。そのことを私たち日本人、ひいては世界の人々も知ったとき、限界がきている今の社会を見直して、良い形に変えていけるのではないかなと思います。

というわけで、以上が「農」と「辱」の漢字の成り立ちと、それらの漢字を通して読み取った、古事記の深い教えについてのお話でした。神話それ自体が漢字の成り立ちを語ったものであり、漢字は神様でもあるというのは、とても神秘的な感じがしますね。次回も引き続き、古事記と漢字の関係性についてお話していきたいと思います。

natan
natan

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

タイトルとURLをコピーしました