私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、新しい自我意識のあり方についてお話したいと思います。
◎前回までのお話はこちら↓
▼ 参考文献 ▼
ホストからみる自我意識の性質
上記参考書籍を読んで、自我意識という私たちが当たり前に認識している意識も、意外と客観視できていないことに気づかされました。
そして書籍の中で、とある職業を参考に男性性について語られているページがあり、この内容が自我意識の性質そのままだなー!と面白く感じました。
その職業とは…
ホスト☆
ホスト経験者の木島由晶さんが書かれた「第六章 男らしさの装置」という内容からのご紹介です。
劇場のパフォーマンス
アメリカの社会学者アーヴィング・ゴッフマンの、「劇場のパフォーマンス」という分析視角があり、
に見立てて分析をしていく方法があります。
ホストを例にすると、人は他者と居合わせるとき、その場にふさわしい役柄を演じています。
このように、ホストやお店を訪れる客は、「見えない上演台本」に従って生活をしています。
その場を統制しやすい側(ホスト)と、しにくい側(客)との関係は、しばしば非対称的です。
ホストをパフォーマー、お客をオーディエンスとした場合、パフォーマーはオーディエンスより有利な立場となります。
なぜなら、お店の中のことはパフォーマーでないと操作できないからです。
三つの「局域」
このような状況にあるとき、パフォーマーの演じる舞台「局域」は、大きく三つに分類されやすいです。
私たちは一般的にホストという職業は、表局域の場だけが活動の場だと思っているところがあります。
しかし、ホストという職業は結構しんどいそうで…。
お店が開店する前にお客さんとデートをしたり、または営業の電話をしたりして、少しでも自分の売上を上げるために努力をしているそうです。
なので、局域外でもホストでいなければならないようです。
しかしこれは、まだそんなに売れていないホストなら、局域外はプライベート空間として、比較的リラックスして本来の自分に戻れる場や時間の確保はできると考えます。
これがカリスマホストにもなると、状況は変わってくるようです。
ホストに見栄を張らせる社会側の規範
著者のホスト経験によると、月収一千万稼ぐホストはお金持ちのように見えますが、じつはそうでもないとのこと。
なぜなら、ホストという業界において月収一千万稼ぐと、そこには誇示的消費として他人に見せびらかすための消費(浪費)が行われるからだそう。
実例として、一千万稼ぐカリスマホストは、月一千万かかるロールスロイスに乗ってわざわざ出勤するそうです。
その名誉に酔いしれつつ、そのメンツに見合うだけの金額を浪費させられているのです。
本人的には見栄や名誉を求めて、上下の差別を明確にして他人に優越したいという欲求が働いているととらえることができますが、アメリカの経済学者であり社会学者であるソースティン・ヴェブレンは、そこにある「見えを張らせてしまう社会的規範側」に注目をしました。
「たとえ浪費が個人的に行われているようでも、背景にあるルールや習慣などは、社会的な過程を経て形成されてきたもの。ゆえに人は、しばしば暗黙のうちに公認された規則の体系に従って浪費している。」
局域化の進行
さらに、カリスマホストまでいかなくても、ホスト自身が客を獲得するために良いマンションに住んだり、身だしなみを整えたり、精を出せば出すほど「局域外」であったはずの時空間が、「舞台」の準備と上演にかかる「局域内」へと変貌していきます。
こうした「局域化」の進行が、生活世界の全域を覆い尽くせば、役柄だったはずのホストの仮面は限りなく当人の素顔に近づきます。
外見と中身、演出と実像の区別がつかなくなるのです。
私の考察
自我意識の特徴を考察しやすいホスト
このホストという職業が、自我意識を客観的にとらえたとき、非常に参考になるな~と私は感じました。
サービスを提供する側は受ける側より優位に立つため、必然的に男性性の性質を持つことになります。
ホスト=男性性、お客=女性性。
きれいに性別も伴ってくるので大変考察しやすい例ですね(笑)
そして、お客を獲得するために、本来局域外の場でも活動することによって、「仮面」がどんどん「素顔」に近づいていく。
まさにこれは、自我意識の姿とまったく一緒ですね。
男性優位社会というベースがあって、そこで活動する自我意識は、どんどん自分のプライベート領域にまでその社会の仮面を持ち込んで、本当の自分を忘れていってしまうという姿とまったく一緒。
それをホストという職業が客観的に見せてくれているようです。
社会と密接に関わっている自我意識
そして、カリスマホストのお金の浪費に関しても、個人の意思だけでなく、そうさせてしまう社会に公認された「規則の体系」があるという点は、自我意識は気づかないうちに社会の規範に沿った行動をしてしまう特徴があるということだと思います。
カリスマホストが自分の凄さをアピールしているようでいて、じつのところ、見栄を張らせてしまう社会側の構造がある。
以前もセックスに関して、「女性は男性とセックスをしているのではない。女性は男社会とセックスしているのだ」と発言したことがありました。
この話にもつながってくるのですが、つまり…
自我意識(男性性)と社会はお互い写し鏡
なんですよね。
なので、男性性の要素を持つ自我意識を考察するときは、一緒に社会も考察しないといけない。
だから私は、ジェンダー研究をするときは必ず社会学も勉強するようにしています。
自我意識のあるべき姿
そして、ホストを演じている人も人間なので、当然自我意識は社会の影響を受けていますが、純粋にホストという職業を見てみると、そこには自我意識のあるべき姿が見えてくると感じます。
以下、著者の言葉を簡単にまとめます↓
ホストにとって「男らしさ」とは、必死で獲得するものです。
脱皮する「よろい」というよりは、なんとなく着脱する「衣」であり、「私らしさ」を衣装のように演じます。
ホストにとって「私」とは、複数の役柄がつまったクローゼットのようなものだそうです。
状況に応じて必要な役柄に「着替える」こともあれば、制服のように同じ役柄を「着つづけ」たりもします。
「薄着」のままで十分な場合もあれば、幾重にも「厚着」しないと落ち着かない局面もあります。
そしていかなる場合も、しょせいんは「衣」に過ぎない認識で動くので、古典的な「男らしさ」であっても、型板(テンプレート)を利用するようにして「羽織って」しまえるのです。
こうした「衣」のイメージには、「男らしさ」を一方的な束縛と見るのではなく、そうある状態を楽しむような、いわば「試着」を許す寛容さが含まれています。
ただしその快楽はむろん、状況に適切な役柄をどう「着こなす」かという不安はつねにあるということはこれまで通り変わりありません。
自我意識は「演じる」意識
心理学でもいわれることですが、
自我とはその場その場にあった自分を使いこなすこと
だと言われています
私たちは複数の活動する場「表局域」を持っていて、そこでいろんな役割を演じています。
家庭では「旦那/妻」「お父さん/お母さん」、友人の前では「友達」、職場では「◯◯会社の人/〇〇部署の人」etc…。
そして、それらを「衣装」とした場合、現状の私たちはそれらをちゃんと無意識のうちに脱ぎ着しているんです。
ですが、その「衣装」は無理やり「着せられている」という認識の方が強いため、意識的に「脱ごう」という感覚がほとんとありません。
しかし、前回と今回のお話を通して私がお伝えしたいことは、
自我意識は「演じる」意識なのであれば、それは「娯楽」ではないのか?
ということ。
映画もドラマも舞台も、すべて「娯楽」ですよね!
「娯楽」として自我意識がまとう衣装も楽しんで「試着」するようなイメージを持てれば、心理学でいわれる自我の本来の姿に近づけると思うのです。
なにかと悪者扱いされる自我意識、そして男性性。
でもそれは、私たちが本来の自我意識のあり方を勘違いしているからです。
自我意識は「演じる」意識。
そこには「娯楽」という要素が隠れています。
そして前回お話した、日本人男性に多かった「超越」という性質は、それは「想像力」ということでもあります。
その想像力を持って、「私を演じる」こと。
最後には、きちんとその衣装をすべて脱いで、素の自分に戻れること。
これが正しい男性性の要素を持った自我意識のあり方かなと私は考えます。
なので、「脱よろい論」はすべてに疲れてしまったときに有効で、そこを乗り越えたらぜひ、そのよろいを衣装に変えて、いろんな自分を楽しみながら演じて欲しいと思います。
多様性を持った自我意識。
これもキレイなミックスツイン構造ですね♪
新しい男性性、新しい自我意識の概念を持って、これからの人生を楽しく演じていけるといいな~と思っています。
次回もお楽しみに♪