本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
今回は、イザナキの禊において、彼が身につけているものを投げ捨てたとき、そこから出現した神々についてのお話をしたいと思います。
まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。
原文/読み下し文/現代語訳
故於投棄御杖所成神名 衝立船戸神
次於投棄御帯所成神名 道之長乳齒神
次於投棄御囊所成神名 時量師神
次於投棄御衣所成神名 和豆良比能宇斯能神
次於投棄御褌所成神名 道俣神
次於投棄御冠所成神名 飽咋之宇斯能神
故、投げ棄つる御杖に成れる神の名は、衝立船戸神。
次に投げ棄つる御帯に成れる神の名は、道の長乳齒神。
次に投げ棄つる御囊に成れる神の名は、時量師神。
次に投げ棄つる御衣に成れる神の名は、わづらひのうしの神。
次に投げ棄つる御褌に成れる神の名は、道俣神。
次に投げ棄つる御冠に成れる神の名は、飽咋のうしの神。
そうして、投げ棄てた杖に出現した神の名は、衝立船戸神。
次に投げ棄てた帯に出現した神の名は、道の長乳歯神。
次に投げ棄てた袋に出現した神の名は、時量師神。
次に投げ棄てた衣に出現した神の名は、和豆良比能宇斯能神。
次に投げ棄てたふんどしに出現した神の名は、道俣神。
次に投げ棄てた冠に出現した神の名は、飽咋の宇斯能神。
次於投棄左御手之手纏所成神名 奥疎神 次奥津那藝佐毘古神 次奥津甲斐辨羅神
次於投棄右御手之手纏所成神名 邊疎神 次邊津那藝佐毘古神 次邊津甲斐辨羅神
右件自船戸神以下 邊津甲斐辨羅神以前 十二神者 因脱著身之物 所生神也
次に投げ棄つる左の御手の手纏に成れる神の名は、奥疎神、次に奥津なぎさびこ神、次に奥津かひべら神。
次に投げ棄つる右の御手の手纏に成れる神の名は、邊疎神、次に邊津なぎさびこ神、次に邊津かひべら神。
右の件、船戸神以下、邊津かひべら神以前の十二神は、身に著ける物を脱ぐによりて生れる神なり。
次に投げ棄てた左手に巻いている飾りに出現した神の名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神。
次に投げ棄てた右手に巻いている飾りに出現した神の名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神。
右の船戸神から辺津甲斐弁羅神までの十二柱の神は、(伊耶那伎大神が)身に着けていた物を脱いだことによって出現した神である。
これが今日取り上げるシーンです。それでは解説に入ります。
解説
一般的な解釈
イザナキは自分の罪を自覚し、自らの行為を反省するために禊をしようと決意します。そして、まずは自分が身につけている物を次々と脱ぎ捨てていきました。その脱ぎ捨てたものからさまざまな神が出現したようですが、この神々は一体何を物語っているのでしょうか?
古事記解説書によると、このシーンでは船に関する神や、渚や波打ち際に関する神々が出現しているので、港に関するものが生まれているだろうと言われています。私としても、その見解に賛成です。それ以外に私は、今回のシーンもこれまでと同様に、一つの物語の中に異なった背景を持つ話が複数同時に語られているだろうとも思ったので、いつものように深く考察していきました。
してみたのはいいんですが、このシーンの抽象度が高すぎて、「なんじゃこりゃ~」という状態に陥ってしまいました。結果的に私は、約三ヶ月くらいここで悩むことになりました(笑)でも、ようやく全体像が見えてきたので、間違っているかもしれませんが、勇気を出してお話してみますね。あくまでも一つの仮説としてお聞きください。
私の仮説:身体器官の形成説
まず、古事記の新しいシーンを考察する際に重要なことは、直前のシーンが何について語っていたかを振り返ることです。今回の場合、直前のシーンは黄泉の国になります。黄泉の国はイザナミの体内世界でした。そこから考えた結果、今回のシーンはその体内世界を明確に構造分けしていく話だろうと私は考えました。
図を見ていただくと一目瞭然なので、こちらを御覧ください。
黄泉の国では、消化液や消化物の逆流があり、また、深層心理学的にはイザナキの心は未だカオスと連続性の中にあるために、心に境界線を引くことができないでいる彼の精神的な幼さを象徴するような出来事が起こりました。
その無秩序ともいえるカオス的世界に対してイザナキは「産屋を建てる」と宣言したわけですが、その言葉の意味は、境界線を引くこと、秩序をもたらすことだと考えます。だから彼は宣言どおり、今回のシーンで大まかな身体器官を形成したのだろうと私は判断しました。
【杖】衝立船戸神
スライドの左側から説明すると、イザナキが投げ捨てた杖から出現したのが、衝立船戸神。この神は、消化管や気管支、または大動脈や大静脈に関する神と考えました。「船戸」とは船が往来し、港で荷下ろしをすることを意味し、それは、身体においては生命維持に欠かせないものたちが臓器という港を行き来するといったことも意味していると思ったからです。
消化管や気管支といったように、異なる器官を併せ持っている理由は、機能の本質が似ているからということで、このようにまとめてみました。
【袋】時量師神
次に、投げ捨てた袋から出現したのが、時量師神。この神は、心臓に関する神と考えました。その理由は、心臓の鼓動が時を計っていると思ったからです。また、エジプト神話では死者の心臓を天秤で量るという話があり、時量師神にも天秤に似た「量る」の要素が入っているので心臓としてみました。
【左手】奥疎神/【右手】辺疎神
続いて、左手の飾りから出現したのが、奥疎神、奥津那芸佐毘古神、奥津甲斐弁羅神の三柱。右手の飾りから出現したのは、辺疎神、辺津那芸佐毘古神、辺津甲斐弁羅神の三柱。
これら神々の「おきざかる」は「遠ざかる」、「へざかる」は「近づく」という意味です。ここから、波の動きのようなものを感じ取ることができるので、那芸佐毘古神は打ち寄せる波、甲斐弁羅神はそこに生息する貝を象徴していると読むことができます。ですから、先ほどお話ししたように、ここから港や海岸、川岸を読み取ることができるんですね。
その他、身体器官においては、この神々は肺や鼻に関する神だろうと考えてみました。息をゆっくり吸って、ゆっくり吐いてみると、呼吸が寄せては去っていく波のように感じるからです。
また、肺を通して那芸佐毘古神や甲斐弁羅神を考えてみると、横隔膜の要素も感じ取れるなと思いました。那芸佐毘古神の「なぎさ」は二つの領域の境目部分を指し、甲斐弁羅神の「かいべら」は茅葺屋根を作るときに用いる用具で、身体内部における屋根とはドーム状の筋肉を持つ横隔膜だと思ったからです。そのときの奥津、辺津の違いは、横隔膜の上下運動の違いかもしれません。
さらに、肺は鼻と直結しているので、ついでに鼻腔内も見てみると、鼻腔内には上鼻甲介、中鼻甲介、下鼻甲介というヒダ状のものがあり、甲斐弁羅神に関連していそうな要素も感じ取れたこともあって、結論としてこの神々を肺や鼻、横隔膜と考えました。科学的にはありえない話ですが、神話の世界においては、肺や鼻、貝誕生の起源は同じなのかもしれないなと思いました。
【褌】道俣神
続いて、脱ぎ捨てた褌に出現した神について。「はかま」と読んでいますが、ふんどしのことです。ふんどしから出現したのが、道俣神。この神は、胃袋または肝臓や胆のうに関する神と考えました。その理由は、道をまたぐ神、道を分ける神というのは、黄泉の国を思い返してみると、胃の領域がこの世とあの世を分ける場所だったからです。胴体の上がこの世、下があの世、つまり黄泉の国。
また、胃より下は排泄に関する領域で、道俣神がふんどしから成っていることも考えると、そこには排泄器官を隠すという意味も含まれているだろうと思ったので、この神を胃袋、または肝臓や胆のうとしてみました。ちなみに、女性用のふんどしは「たふさぎ」と言うそうです。
【冠】飽咋の宇斯能神
次に、脱ぎ捨てた冠から出現したのが、飽咋の宇斯能神。この神の「あき」は満腹や、飽きることなくむさぼり続けるという意味。「ぐひ」は噛む、食らう、大声で騒ぐという意味です。
この神を考察しはじめたとき、「食べる」や「大声で騒ぐ」ということから、最初は口に関する神かなと思ったのですが、この宇斯能神の「うし」から、ちょっと違う形で騒いでる何らかの存在を感じ取ったんですね。
「うし」は声で訓む部分なので、そこからいろんな想像を働かせてみると、一つは動物の牛、二つ目はあるじという意味での主、三つ目は虫、または虫の旧字で蛇やマムシなど。四つ目は、羽毛を構成している細かい毛(羽枝)。これ以外にもあるかもしれませんが、とりあえずこの四つを総合して考えてみたとき、私の中にあるイメージが浮かんできたんです。それは、空腹でお腹が鳴っているというもの。
そこから私は、飽咋の宇斯能神は腹の蟲のことかもしれないと考えました。西洋医学が発展するまで、人々は体内には虫が住んでいて、その虫がいろんな悪さをすると考えていたそうです。空腹のときお腹が鳴るのも、腹の虫が鳴くから。「飽咋」の意味も含めて考えると、腹のあるじがお腹を空かせている、それは腹に住まう蛇、つまり腸という感じに、うまくまとまるなと思ったので、腹の蟲と考えました。
また、四つ目の羽枝も、小腸の絨毛がこれと似た構造を持っているので、そのことも飽咋の宇斯能神を腹の蟲とした理由の一つです。
この神は冠から出現したとのことですが、もしかしたらそれも腹の蟲と関係しているのかもしれないなと思いました。どういうことかというと、腸は第二の脳、いや、最近の研究では第一の脳かもしれないと言われていて、腸がなければ生物は生きられないこと、腸は脳でもあること。その腸の影響力を冠という形で語っているのかもしれないと思ったからです。
腹の蟲は思考を支配することもあるので、それを防ぐための冠でもあるのかもしれません。イメージとしては、西遊記に出てくる孫悟空がつけている輪っかみたいな感じでしょうか。孫悟空が悪いことをすると輪っかが頭を締めつけ、悪事を働くことができなくなるからです。ということで、飽咋の宇斯能神は腹の蟲。
さて、ここまで話を進めてきて、このシーンから何やらお腹を空かせている主がいるということが読み取れたわけですが、これがスライド右側の話に繋がっていくんですね。
【帯】道の長乳齒神
脱ぎ捨てた帯から出現したのが、道の長乳齒神。この神は、乳房またはへその緒に関する神と考えました。長乳からは母乳をたっぷり蓄えたおっぱいが感じ取れ、歯からはそのおっぱいを飲む赤ちゃんの様子が感じ取れたからです。
ここにきていよいよ、今回のシーンはどうやら妊婦の身体について語っているらしい、ということが見えてきました。妊婦という視点でこの神を考えてみたところ、帯に成ったことや「道が長い」という言葉から、今度はへその緒の要素も感じ取れるなと思いました。赤ちゃんの食事はママのおっぱい、そして胎児の場合はへその緒を通して行われる栄養供給なので、本質が共通しているということで、この神を乳房そしてへその緒に関する神と考えました。
【衣】和豆良比能宇斯能神
最後に、脱ぎ捨てた衣から出現したのが、和豆良比能宇斯能神。この神からはわずらっていること、つまり思い悩んだり、何かができなくて困っている様子が感じ取れました。直前に出てきた道の長乳歯神のことも踏まえて考えた結果、この神を子宮の蟲と考えました。
「子宮の蟲ってなんだそりゃ!?」って感じだと思いますが、要は陣痛のことです。わずらっているのは陣痛のようなものが発生しているからだと思います。先ほどお話した飽咋の宇斯能神の腹の蟲同様に、昔は陣痛も何らかの虫が引き起こしていると考えられていたようです。
この神は子宮の中にいる主で、何かをしたくてウズウズしている様子。もしかしたら、外に出したいと騒いでいるのかもしれない。つまり出産が近い、だから陣痛が起こっているという感じ。何かが生まれそうな予感がしますね…。
ちなみに、衣に成ったということなので、それは胎児を包む子宮、または胎盤、もしくは赤ちゃんを包むおくるみと考えてもいいかもしれないですね。
以上が、イザナキが身につけた物から出現した神々に対する私の仮説のご紹介でした。
大地母神の開墾
この仮説を採用してみると、今回のシーンは、乳房や子宮などが出てきているので、女性の身体器官の形成について語っていると読むことができます。イザナキが身につけていた物から神々が出現しているので、男性の身体形成の方がしっくりきそうな感じですが、でもそうではない。それはなぜなのでしょうか?
その理由は、イザナキが大地母神であるイザナミから秩序ある世界を創造しようとしているからだと私は思いました。死んだ大地母神を畝にして進んでいく世界創造は、自動的に進んでいくのではなく、男性原理の力によって進められていくと思うからです。
死んだ大地母神の世界は、そのままの状態ではカオスです。黄泉の国の描写にもあったように、体内のものが逆流を起こしたり反乱したりしたのは、大地がまだ無秩序だからです。
大地母神が新しい命を育む畝になるためには、開墾が必要です。開墾には、イザナキが持つ男性原理の分断する力、構造化させる力が必要になります。その力によって大地が秩序ある姿に変わっていくんですね。だから、今回のシーンは大地母神の開墾を女性の身体器官の形成という形で語っているのだと私は考えました。しかも、大地母神は現在妊娠中で、出産間近という段階でもあるようです。
乳母としてのヨモツシコメ
また、この場面からお腹を空かせている主がいる、ということも読み取れたわけですが、空腹という要素は黄泉の国で出てきたヨモツシコメが持っていたものです。この機会に改めてヨモツシコメについても考察してみたら、出産繋がりであることが読み取れました。それは、養育に関することです。
ヨモツシコメの名前に注目してみると、これは音で訓む名前になっていて、原文では「豫母都志許賣」と書きます。これを一文字ずつ分解して考えていくと、「豫」は「あらかじめ。かねて。前もって」、「母」は母親の他に、母の代わりになる者という意味があり、「都」は集まる、密集すること、「志」は思いやる気持ち、「許」は「許す。聞き入れる」、その他に「処」という意味があり、「賣」は女。
それらを総合して考えてみると、母の代わりとして集まってきた者、つまり乳母的な要素が感じ取れるんですね。ヨモツシコメは醜い女だと言われていますが、でも深読みすると、母と同じように子を愛するという、黄泉の国とはまったく違う、優しい姿が感じ取れます。
大地母神の開墾、そして乳母としてのヨモツシコメ。これらの特徴から、今回のシーンはこれから芽吹く新しい命を育てるための畝、そして子の成長に必須の栄養分も準備しているシーンでもあるのかもしれないなと私は思いました。これから生まれてくるアマテラスたちは、言ってみれば「母なし子」ですもんね。だから、乳母的な要素の登場は、アマテラスたちにとって、とても大事なものだと考えます。
牧神パーンと養育から見えてくるもの
さて、ここからは今日最後のお話です。今日は、神々を整理して、あれこれ思考を働かせて、「妊娠」「出産」「養育」という要素を読み取ったわけですが、その中の養育が、じつは禊シーンで奇妙な存在感を放っているギリシャ神話の農牧の神パーンとも関連していたということがわかりました。最後にそのお話をして、今日のお話を終えたいと思います。
古事記解説第二十回でお話したように、ギリシャ神話の神パーンは「パニック」の語源になった神様で、黄泉の国からパニック状態で帰還し、「いなしこめ~↑」と山羊のように鳴いたイザナキと不思議な接点を持っています。
このパーンはパニックをもたらす神ということ以外に、名前が「パン」というだけあって、ブレッド、食べる方のパンという意味も持っているそうです。そこからこの神は「養育する神」とも言われています。もともと彼は、羊飼いや羊の群れを監視する神なので、その羊を養育するということで、そう言われているのかもしれません。
このパーンを通して今回のシーンを改めて眺めてみると、また違った世界観が読み取れました。今日は妊婦大地母神の開墾や乳母など、人間の女性という観点でお話を進めてきましたが、パーンはヤギ、動物です。今回のシーンを人間ではなく、動物視点で見てみると、あら不思議。このような動物の存在を読み取ることができました。
ここにピックアップしたのは、左から山羊、牛、そしてバクです。みんな、お腹に帯を巻いている動物たちです。実際は帯ではなく、ツートンカラーの毛を持った動物たちです。今日の話の中で、人間の女性はおっぱいと子宮(へその緒)は離れているのに、そこに帯が関係しているという解説には少し苦しいところがあったかもしれませんが、こういった四つ足動物ならおっぱいと子宮も互いに距離が近く、そこに帯状に毛がなっているので、このシーンの考察もスッキリまとまるなと思いました。
養育、そして農牧の神パーンのことも踏まえて考えてみると、古事記は、養うということを、乳母と農牧(たぶん乳牛のことだと思いますが)の両面で語っているのかもしれません。古事記は生物学書的な特徴も持っているので、今回のシーンももしかしたら動物視点で読んだ方が正しいのかもしれません。
帯状の模様を持つ山羊や牛は、パーンと同じく、ヨーロッパ圏内に生息する動物です。アジアに関してはマレーバク。バクは家畜ではないので、山羊や牛と繋がりがなさそうな感じですが、別の視点でこのシーンを捉えたとき、バクがいい味出してくるんですね。それについての解説は後日お話しますね。
まとめ
ということで、最後に今日の話をまとめます。イザナキが身につけていたものを投げ捨てたとき出現した神々が象徴することは、大地母神の開墾、そして、これから誕生してくるアマテラスたちを養育するための乳母の準備。また、養育繋がりで農牧に関することも同時に語られているだろうということです。
世界の神話に目を向けてみても、ギリシャ神話では赤子のゼウスに乳を与えて育てたのはアマルテイアというメスの山羊で、北欧神話でも巨人ユミルはアウズンブラというメスの牛のお乳を飲んで育ったと言われています。古事記においても、神を育てるためのお乳を持った動物がこのシーンで登場しているという考察は、近からずも遠からずかなと個人的には思います。
さて次回は、イザナキが川に飛び込んで禊をするシーンについて解説したいと思います。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!