私の宇宙からこんにちは、natanです。
このページでは、私が運営しているYoutube「ろじろじラジオチャンネル」第15回放送時のトーク内容全文をご紹介します。
本日のトーク内容
さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
前回の放送では、哲学についてお話しました。今回は、私の得意分野でもある心の世界を哲学してみたいと思います。
「心を哲学する」というのは、何も難しいことではありません。
前回お話したように、「当たり前だと思っていたことが、じつは当たり前じゃなかった」というそのことに気づく感覚、そして世界に疑問を持ったときそれ自体を問うている「私」自身を問うこと、これが哲学するための重要な姿勢だとお話しました。
この感覚と姿勢をもって心の世界も捉えてみよう、ということです。
私はヌーソロジーに出会うまで、しかもつい最近まで、哲学の定義や概念などのレベルから、哲学に関することは何も知しませんでした。それまではずっと心の世界を探究していました。
でも、哲学の何たるかを知ったとき、(これは「知を愛すること」「私自身を問うこと」そして「本当の私を知っていくこと」)、私が今まで心の世界に対してやってきた行為それ自体が哲学だったのだと知りました。
ですから、哲学というのは「哲学する」という行為のことだと私は思っています。
それは行為なので、学問の壁というものはないです。だから私は、哲学と心理学の領域を「哲学する」という行為によって、自由に行き来します。
そんな私が、心の世界を探究する中で驚いたことを今日はお話したいと思います。
心を哲学する
「驚く」ということ
第10回の放送で、たくましい私の自我意識や私の男性性についてお話をしました。
その話の中で、私が発するありもしない妄想によって、自分自身を傷つけていたことに気づくことで、私は妄想をぶった切るようになったとお話しました。
その妄想をはじめて切り捨てたときのこと。心の中では「その妄想は真実かもしれないよ」と声があがってきていたのですが、私は思い切ってその妄想をかき消したのです。刀でスパッと切るように。
するとその直後、心の中から「ちぇ、つまんない」という感覚が湧いてきたのです。
えー!妄想できないことを私はつまんないって思ってるんだ!
私は本当に驚きました。、こんな体験ははじめてでした。
というわけで、前回もお話したように、ここで「驚く」という体験がやってきたので、哲学思考の開始です。
心の中を観察する順番について
といっても、思考活動はある程度、思考するための材料が揃わないといけないので、とりあえず私は、自分の心の中を「観察」しようと思いました。
ここで重要なことは、哲学するための思考というのは物事を俯瞰する視点を持つので、心の世界も同様に俯瞰視することが基本だということです。
しかし、この俯瞰はただ俯瞰すればいい、というものではないことをみなさんはご存知ですか?きっと多くの方が誤解していると思うのですが、俯瞰というのは、マクロや高い位置から全体を見ればいい、というものではありません。
正しい俯瞰というのは、まずはミクロの位置、今目の前に見ているもの、そして感じているもの、体験しているものに対して、一つずつ丁寧に向き合うことから始めなければいけないんです。
そして、一対一という形でたくさんの対象と向き合ったその後に、全体をマクロや高い位置から俯瞰して、「なるほど、この世界はこういう仕組みになっていたんだね」と気づくのです。したがって、俯瞰視するためには下記のステップが重要です。
自分の思考や感情に疑問を持つ
そして心の世界の観察を続けた結果、わかったことがあります。それは、私たちは自分の中で起こっているもの、そして自分の中で湧いてくる思考や感情を、すべて「私の○○」といったように、自分のものとして疑わずにいます。「これは私の感情」「これは私の思考」といったように。
でも、自分としっかり向き合うことで心の問題を解決したり、自分軸をしっかり持てるようになったり、さらには自分自身を守るために妄想さえもぶった切るという行為によって、少しずつ「あれ、この思考は私らしくない」「こういう思考は私は好きじゃない」という感覚を覚えるようになってくるのです。
そういった思考を観察し続けていくと、どんどん私から思考がペリペリと剥がれていくのを感じました。
感情は思考とは少しやり方が異なります。とある出来事によって悲しい感情があがってきたとき、「ねぇ、今なんで悲しんでるの?悲しむ必要ある?」とか「これは誰が悲しんでいるの?誰の感情?」と、感情そのものに語りかけるということをやりました。感情を他者として見る、というイメージです。
そして、あがってきた思考や感情とじっくり対峙していくと、思考や感情には何やらそれぞれ個性があるように思えたのです。
先述したように、まずはミクロに向き合うため、上がってきた思考と感情にじっくり向き合いました。そしてある程度向き合い、それを観察し、そろそろ思考する材料が揃ったかなと思ったとき、今度は総括として、マクロから心の世界を眺めてみました。すると、「あら、そういうこと」と気づいたのです。
私ではない思考と感情の発見
それは、私の心の中に上がってくるものは、ほとんど私のものではない、ということ。私のものではないにも関わらず、上がってくるのはどうしても私の「中」なので、するとかならず主語としての「私」が思考や感情にくっついしまうのです。
英語みたいに「I」がつくの。
「私」という主語をまとってしまうんです。
でも、それぞれの思考や感情を観察すると、私らしくないものがいっぱいあるんです。それはまるで他者の思考、他者の感情です。その思考や感情には、ものすごく慈悲深いものもあれば、ものすごい殺人鬼レベルのものまであります。
以前お話したように、妄想をぶった切ったときに「ちぇ、つまんない」と言ってくる存在や、私の中の女性性に甘い言葉ですり寄ろうとする存在など、私じゃないものがたくさんいるのです。
自我同一性の確立について
ここで少し心理学の話題を挟みます。心理学には「自我同一性の確立」という言葉があります。
「自我同一性」とは、これまでもこれからもこの自分であるという、つまり「一貫した自分」や「これこそが自分自身だ」という感覚のことを指します。
人生を歩む中でさまざまな出来事が起こり、ときには失敗したり挫折したり、苦しい思いをしたりしながら、自分で選択して自分の人生を歩む。そうすることで「これこそが自分だ!」と思えるようになること、これが自我同一性の確立です。
したがって、ただ人生を歩めばいいとか、歳を重ねれば一人前の人間になれるとか、そういうことはなく、迷い苦しみながらも、その中で何を選び取っていくか、自分らしいものは何か、と取捨選択しながら私らしさを見つけていくことで、人は本当の意味で大人になります。
そして自我同一性の確立は、外側で起こる出来事が対象になっているため、「Aさんのその考え方は素晴らしい、自分も真似よう」とか「Bさんのその考えは私にとっては違う」とか、自分と対象を分けて考え、得るもの得ないものを分けられます。
しかし心の世界においては、すべて上がってくる思考や感情を「自分のもの」「自分の所有物」として捉えてしまうのです。
でも私は言いたい!
「いや、心の中も外側の世界と同じく、私じゃないものだらけだ」って。
私の「中」にも世界がある
私の好きな哲学者、池田晶子さんも書籍名は忘れてしまったのですが、「私の中に訪れるものと、ときにはたわむれてみるのもいいだろう」といったようなことを述べていました。
さらに、第5回放送「心理学、哲学、そしてヌーソロジーの立ち位置について」において、哲学者ウィトゲンシュタインの言葉を紹介したのを覚えていますでしょうか?
「私は、私の世界である」
「主体(私)は、世界の一部ではない。そうではなく世界の境界」
『論理哲学論考』より
この言葉にもあるように、私の中に世界があります。他者の思考、そして他者の感情があります。そして、私という存在はその世界の枠組みなので、私の中で世界が起こっているのです。
ですから、こういったことを感じとれるようになると、「私」という存在も肉体としての私ではない、何やら別次元、別の領域に存在する、別形態のものだ、ということに気づいてきます。
だから、それに気づけるようになるためには、自分の思考や自分の感情だと思っているものと丁寧に向き合って、俯瞰視することが必要だと考えます。
高次の視点を得るために必要なこと
しかし上記は、簡単な作業ではありません。なぜなら、心の中を俯瞰視しようとしても、その世界に意識がべったり貼りついてしまっているからです。
なぜ貼りついているのでしょうか?それはきっと、この世界に自分が執着しているからだと考えます。また深い部分では、このような哲学的な領域やヌーソロジーのような世界が存在していることを信じきれていない、ということもあるかもしれません。
そのように、無意識にこの世界に執着している自分という存在に気づいていかなければ、心の世界も俯瞰視できないと思います。
スピリチュアルの世界にどっぷりハマってしまう方の特徴は、大抵の場合、外側の世界が嫌だから、生きるのが辛いから、という理由によって別次元の世界を夢見てしまうことがあるように思います。それは裏を返せば、現実に執着している、ということでもあると私は思っています。
自分が未だにこの現実世界に執着しているにも関わらず、高い次元からこの世界を見下ろした気持ちになって、「人生はゲームだ」「本当の私は現実世界には存在していない」といったような考え方を持つことで、自分の気持ちを落ち着かせたり、現実逃避しているように感じます。
しかし、実際私が心を観察してきて発見したように、自分の何たるかを知らない、自分の中さえも自分じゃないものがうごめいているのにそれに気づかない、そして、すべての思考と感情に一体化している状態で、形而上的な視点は得られるはずがありません。
形而上的、そして高次の視点というのは、しっかりと自分の中で何が起こっているのかを把握して、それに対処できた後に得られる視点だと考えます。現実に執着していては、視点は上がっていきません。現実にベッタリと貼りついたままです。
自分の中が混沌としているのに、形而上的な視点を持つというのは、新たな宗教を生みだすだけだと私は思います。新たな宗教ではなく、本当の自分に気づいていくことが重要です。
「私」を成立させている仕組みや構造を知っていくこと。それは裏返し、自分の中に世界があるということは、自分を知っていくことで世界がなぜ存在しているのか、ということが理解できるということでもあります。
このようにして探究していくのが哲学であり、この方法は心の世界でも活用できます。ですから心の問題解決だけでなく、本当の私を知っていきたい、そして本当の宇宙を知っていきたいと思う場合も、まず基本になることは、自分の心の世界をしっかりと見分けられること。自分の中がどのような仕組みになっているのか調べていくことです。
そしていつの日か、自分の中に世界を見いだせたとき、自分の意識のレベルが一段上がります。そこが哲学と心理学の領域、つまり科学と宗教の領域を脱するということです。そしてその先にヌーソロジーの領域があります。
本当の答えは○○が決める
では、これまで自分の思考や感情だと思ってきたものが自分のもでなかったのなら、本当の自分の考えはどれなのか、どうやって答えを出すのか、どうやって決めるのか、気になると思います。さて、どうやって答えを出すのでしょうか?
それは、「心」です。心が決めます。心が答えを出します。「あ、こうしよう」と、スッと心そのものが決めるのです。それが本当の自分の答えです。「腹が決まる」「腹を決める」とも言えますね。
決めたらもう動じない、自分の答えは変えないし、変えようとも思わない。それぐらいスッと決まってしまうもの、それが心が出す自分にとっての本当の答えです。
この心で決めることは、私のイメージでは、自分の中を垂直にやってくるように感じています。
ストンと来る感じ。
最初はその答えに「?」と思うときもありますが、しばらくすると「あーあーあー、そうだね、そうだね」と大きく納得することもあります。
もし、答えを出せずに思考があっち行ったりこっち行ったりしている状態なのであれば、それは自分のものではない思考にもてあそばれている可能性があります。
ですから、心がスッと決められるようになるためには、心の中を整理整頓し、しっかりと自分軸を持てるようにしたり、自我同一性の確立をしっかり達成したりしておくことが重要だと私は思っています。
というわけで、今日は心の世界を哲学してみました。
このお話が、みなさんの気づきの一つになったら嬉しいです。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!