本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
今日は、黄泉の国第四回目、いよいよ最終回です。最終回ということもあって、ボリューミーな内容でお送りします。
まずは、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。
なお、当チャンネルはラジオ形式がメインなので、表示させるスライドはメモ書き程度のものです。それを目で確認しましたら、あとは耳で楽しみつつ、ご自身の中で想像を膨らませながら『古事記』の世界を味わっていただけると嬉しいです。それでは始めます。
原文/読み下し文/現代語訳
故號其伊邪那美神命 謂黄泉津大神 亦云 以其追斯伎斯而 號道敷大神
亦所塞其黄泉坂之石者 號道反之大神 亦謂塞坐黄泉戸大神
故其所謂黄泉比良坂者 今謂出雲國之伊賦夜坂也
故、その伊邪那美命を號けて黄泉津大神と謂ふ。また云はく、その追いしきしをもちて、道敷大神と號く。またその黄泉の坂に塞りし石は、道反の大神と號け、また塞ります黄泉戸大神とも謂ふ。故、その謂はゆる黄泉ひら坂は、今、出雲國の伊賦夜坂と謂ふなり。
そうしてその伊邪那美命を名づけて黄泉津大神と言う。または、(伊邪那岐命に)追いついたことによって道敷大神と名づけられた。また、黄泉の坂を塞いだ岩は道反の大神、または塞いでいらっしゃる黄泉戸大神とも言う。なお、そのいわゆる黄泉比良坂は、今、出雲の国の伊賦夜坂と言うのである。
解説
それでは早速解説に入ります。イザナミたちに新しく付けられた名前を見ていきましょう。
神々の整理
黄泉津大神について
イザナミはその名を改め、黄泉津大神、または道敷大神という名前を与えられました。黄泉津大神というのは分かりやすいですね。黄泉の国の大神様。そして、道敷大神というには、「その追いしきしをもちて道敷大神と名づく」と言われていて、『古事記』解説書によると、「道を追いついた意味で道敷大神と言っているが、本来は道を占居するという意味を持っている」と言われています。
たしかに、これまでもお話してきたように、黄泉の国は欲望の世界であり、そこはすべてをワガモノにしたい、占居したいという思いに満ちた世界でもありますからね。これは個人的に納得です。
もう一つ、私が道敷大神という名前に対して思うことは、イザナミは後世の神々、そして人間に対して、心に正しく境界線を引くこと、心にけじめをつけること、心を守ることを教えてくれた女神でもあると思うんです。「心を強く育てなさい」と。そのための道を敷いた、だから道敷大神という名前がついたのかなとも思いました。
道反の大神と出雲国の伊賦夜坂について
次に、黄泉比良坂を塞いだ岩は、道反の大神、または、塞いでいらっしゃる黄泉戸大神という名前がついたようです。この神は単体で考えるより、物語全体の連関の中で考えた方が見えてくるものがあるので、話を先に進めながらお話していきたいと思います。
黄泉比良坂を岩で塞ぎ、イザナキとイザナミが生と死の誓約を交わしたその場所は、今は出雲の国の伊賦夜坂と呼ばれているとのこと。
まず、出雲の国というのは、私は、イザナミの頭の領域を指していると考えています。そして、伊賦夜坂というのは、声をもって訓む部分ではありませんが、伊賦夜坂の「いふ」からは「恐れおののく」という意味での「畏怖」が感じとれます。ちょうど黄泉の国のシーンにピッタリですね。
また、伊賦夜坂の「賦」という漢字は、貢物、授かること、分けることを意味するようです。黄泉比良坂の坂本でモモの実三つが成っていて、それはアマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三柱の誕生を予言したものだと思われるので、そういった意味も「賦」という字は含んでいるのかなと思います。
そして「夜」。夜は暗い領域を指したもので、それは黄泉の国の側のこと。反対に、イザナキが逃げ帰ろうとした方向が昼、つまり明るい領域を指していると考えられます。ですから、ちょうど昼と夜が反転する場所、それが伊賦夜坂。
だから、そこに置かれた岩を道反の大神と名づけたのではないかなと私は思うんです。昼と夜が反転する、道が反転するからです。
「坂」とは首のこと
そして、最後に「坂」。これは、黄泉の国の出来事がカグツチの首を斬ったことに端を発していること、イザナキの鏡としてのイザナミが「あなたがカグツチにやったように、私も同じく首を絞めて殺しましょう」と言ったことからわかるように、この話は首をテーマにずっと続いているんですね。そう考えると、伊賦夜坂の「坂」というのは、首そのもののことを指しているのではないかなと私は考えます。
誰の首かというと、たぶん、遺体となって横たわっているイザナミ本人だと思います。横たわった状態での首というのは、坂のような傾斜になっていると思うからです。そこから考えるに、たぶん、イザナキがイザナミに会いに行ったその場所は、じつは、イザナミの体内だったと私は思うんです。そして、体内ですったもんだして、最後は首の領域で誓約を交わして別れた。
私は以前、こうお話したことがあります。カグツチを斬り殺した十拳劒は、剣の特性上、まず相手を突いて、その後に叩き斬ることを目的にしていると。だから、イザナキはカグツチの首を斬る前に、まずは十拳劒で首を突いているはずだと。
剣で首を突いたことが、今回のシーンでは岩で黄泉比良坂を塞ぐという形で継承されていると思われます。また、その岩に道反の大神、塞いでいらっしゃる黄泉戸大神という立派な名前がついているのは、その岩は首で言えばのど仏に当たる部分だからなのかなとも思うんです。そもそも喉の骨に仏様の名前をつけるなんて、とても不思議な話ですよね。あくまでも私の仮説ではありますが、のど仏という名前がついた背景には、『古事記』における黄泉の国での出来事が関わっているからではないかなと考えています。
「道」という漢字の成り立ち
また、イザナミや黄泉比良坂に置いた岩の名前にある「道」という漢字そのものにも注目してみたら、面白いことが見えてきたんですね。道という漢字を構成する部首のしんにょう、これを「辵(チャク)」と読むのですが、「辵」の意味は、進んだり止まったりすること、早く走ること、階段を飛ばして降りることです。これはまるで、黄泉の国から逃げるイザナキの行動そのものを指しているように感じられます。
次に、「首」の字は、かしらや先導する者という意味で、道そのものの意味は、目的地まで導くとなります。それがどうやら、イザナミについた道敷大神という名前にも繋がっているようです。さらに、『古事記』は「道」の読み方を「ち」と読ませることで、黄泉の国のシーンがカグツチの首の血とも繋がっているということも、韻を踏んで教えているのではないかなと私は思いました。
『古事記』すごいですね!漢字の成り立ちも語っていたとは!
ということで、以上が新しい神々の名前についてのお話でした。
イザナミの恐ろしい姿について
イザナミにウジが湧いていた理由
ここからは、黄泉の国が始まったところまでお話をグーンと前に戻しまして、イザナミの体にウジが湧いていた、その理由についてお話してみたいと思います。なぜイザナミはそのようなゾッとする姿になっていたのか、そのわけが今日お話した内容を踏まえると、いよいよわかってくるんですね。
先程私は、「イザナキがイザナミに会いに行ったのは、イザナミの体内だった」とお話しましたが、そこから考えるに、たぶん、黄泉の国というのはイザナミの胃腸に関する領域なのだと私は思うんです。なぜなら、ヨモツシコメはイザナキが投げ捨てたブドウとタケノコをむさぼり食っていて、その姿から胃が連想できるからです。そして、イザナミの体にウジが湧いていたのは、彼女がいたその場所が腸内だったから。
ウジは生き物が腐敗していく過程で現れる、汚くて気持ち悪い虫だと思われがちですが、ウジにも良い面があります。それは、ウジは生物の死骸を土に変えてくれる存在でもあるということ。ウジは大地の分解者なんですね。
また、ウジを用いた治療法に「マゴットセラピー」というものがあり、それはウジが腐った人間の組織を食べて、汚染し感染した部分をきれいにし、治癒を促してくれるというものです。この治療法は、数千年前から人々に認識されていました。
だから、ウジが湧いたイザナミは恐ろしい姿だったかもしれませんが、じつは、ウジが死んだイザナミを今まさに再生させようとしている最中だったと私は思うんです。大地の分解者であるウジの働きは、身体でいえば腸がもっている機能でもあるので、だから『古事記』は生きものの腸内で起こっていることを、大地の分解者であるウジに象徴させて語っていたのだと私は考えました。
イザナミは、まさに今、分解され、土に還ろうとしていて、新しい命となって生まれ変わろうとしていた。その過程を経て彼女はイザナキに会いに行こうとしていたのかもしれない。だから「しばらく待っていてください」と言って、御殿の奥に入っていった。それは、彼女が胃から腸へ向かっていったということ。
ですが、大地の循環における死骸の分解、消化吸収、そして再生には長い年月がかかるため、だからイザナキが待っても待っても彼女は戻ってこなかったのだと思います。
黄泉の国の食べ物を食べてしまうと帰れない理由
さらに、イザナミが黄泉の国の食べ物を食べてしまったために帰れないその理由も、一度胃腸の中に入ってしまうと、また入ってきた方向、つまり口からは出ることができないから。食べてしまったものは、分解、消化吸収の過程を経て、最後はお尻の方から出ないといけないからだと私は思うんです。イザナミがカグツチを生んで病んだとき、嘔吐したり下痢をしたりしたのは、黄泉の国の布石だったのだと思います。
『古事記』ってとても面白いんですよ。ちょっとお話それるようですが、イザナキが雷神を追い払おうとしたときの一文が「御佩かせる十拳劒を抜きて、後手にふきつつ逃げ来るを」となっています。剣を後ろ側に振って逃げたということですが、読み下しの音に注目してみると、「しりへでにふきつつを」がまるで「お尻を拭きながら」に聞こえるんですね。
黄泉の国の新しい解釈
新しいストーリー
ということで、以上のことを踏まえて改めて黄泉の国のシーンを読みなおしてみると、このように読むことができます。
イザナキは神生みの際、最愛の妻を死にいたらしめた子カグツチの首を斬って殺してしまいました。その後、彼は喉から手が出るほどイザナミを欲し、彼女を取り返すために、彼女の遺体の口から体内に侵入しました。妻に会いたいという一途な夫という姿の裏には、怒りに任せて子を殺してしまう、身勝手で残忍な父というもう一つの姿がありました。それを隠して彼は妻に会いに行きます。
イザナキが胃袋という名の御殿の前に到着したとき、イザナミは胃の中にいました。胃の入り口は「噴門」と言い、接種した食物の逆流を阻止する役目を担っています。古事記においては「殿の縢戸」と記されています。
御殿は戸で塞がれていたので、二人はお互いの姿が見えない状態で言葉を交わします。イザナキは「まだ国づくりが終わっていないから、一緒に帰ろう」と声をかけ、イザナミは「私も帰りたい」と答えます。
しかし、イザナミは黄泉の国の食べ物を食べてしまっていたため、一緒に帰ることはできないと告げます。その理由は、一度胃に入ってしまったものは、口から再び出ることができないからです。帰るための正規ルートは、食べ物が胃から腸へ、分解、消化、吸収、そして排泄されるのと同じく、彼女自身もその過程を歩んで、お尻の方から出るというものです。
また、腸内での姿は、死んだ者がウジによって分解されていくような、ゾッとする姿にどうしてもなってしまうため、彼女はその姿を恥じて「私の姿を絶対に見ないでください」と言って、幽門を通って腸内に入っていきました。幽門、それこそが黄泉の国の入り口です。じつは、黄泉の国というのは腸内世界のことでもあったのです。そして彼女は、裏口であるお尻の方から出ようとしていたというわけです。
さて、そんな事情を知らないイザナキは、なかなか戻ってこない彼女に業を煮やし、こっそり暗い胃腸の中に入ってしまいます。すると、そこにはウジによって分解され、なおかつ、身体のいたるところに雷神が成っている、恐ろしい姿のイザナミがいました。それを見たイザナキは、怖くなって元来た道を走って逃げてしまいます。
この場合の雷神は何を象徴しているかというと、雷神は圧力を加える存在でもあるので、その特徴から考えるに、胃腸のぜん動運動として考えることができるかもしれません。
また、イザナミの恐ろしい姿は、食べ物が消化分解されている状態ということ以外に、イザナキの腹のうちを暴露した姿でもあると考えます。男女神はお互いを補完しあう関係にあり、イザナミはイザナキの心を映す鏡でもあるからです。その鏡である彼女が腹の中で恐ろしい姿になっていたというのは、怒りに任せて子を殺してしまうイザナキの身勝手さと残忍さ、そして腹黒さを露呈した姿でもあると考えます。
その姿を見られたイザナミは、恥と怒りの気持ちを大爆発させて、黄泉の軍勢にイザナキを追いかけさせます。それは、体内で消化物や消化液が大逆流を起こすようなもの。イザナキは必死になって首の方向へ逃げます。そのとき彼は、イザナミが後にうんちとなって出てくる姿を予言するかのように、「しりへでにふきつつを」、つまりお尻を拭くような身振りをしながら逃げていきます。そして、黄泉比良坂という首の中央に到達したとき、彼はそこにモモが成っていることに気づきます。
モモと扁桃腺
ちょっとここでストップ。モモが成っていたこと、これが『古事記』のまたまた面白いところ。私たちは首にモモが成っていることをご存知でしょうか?そのモモとは、扁桃腺のことです。
舌の付け根、喉の両脇についている扁桃腺は、口から体内に入ってくる細菌やウイルスなどの侵入を阻止し、体を守る免疫として大事な役割を担っている器官です。なぜその器官に「桃」の漢字が当てられているのか。たぶん、黄泉の国が首から胃腸までの世界を舞台にしていて、首の領域でモモが成っていたからかなと、私は一人で勝手に思っています。
さて、そのモモで雷神は逃げたわけですが、たぶんこのシーンが後にイザナキの禊で誕生する八十禍津日神と大禍津日神に継承されるのだと思われます。この神々は災いをもたらす存在で、それと同時にその災いを直す神々も誕生します。まるで免疫機能のようなものを持つ神々が生まれてくるのですが、モモはその話の布石にもなっていると私は考えています。
新しいストーリー~つづき~
さて、話を物語に戻しましょう。モモで雷神を追い払ったイザナキは、黄泉比良坂の中央、つまり首の中央にのど仏のような岩を置いて、イザナミたちを封じます。それは、体内の逆流を阻止したということでもあるのかもしれません。身体の機能にはこのように逆流を阻止する機能が備えられているので、『古事記』は身体に関する機能誕生の起源も語っているのかもしれません。
そして最後に、イザナミが「あなたがこのようなことをするのなら、私はあなたの国の人たちを一日千人首を絞めて殺しましょう」と言い、イザナキは「それならば、私は一日に千五百の産屋を建てよう」と言って誓約を交わし、サヨナラをしました。頭を象徴するイザナキと、胴体を象徴するイザナミが首の領域で別れたということは、首を斬ったということ。人は首を斬られると死にます。物語はカグツチが首を斬って殺されたシーンと同じ展開に帰結し、これによって首の領域で生と死が生まれた、というお話です。
さあ、皆さん、いかがでしょうか?こんな解釈聞いたことないと思うので、信じられないですよね。私も信じられません。いつも自分で新しい発想を得ては、「うっそー!!」と言いながら考えているからです(笑)だから、信じるか信じないかはあなた次第ということで、「そういう解釈もあるのね」くらいにオモシロ楽しく捉えていただければ嬉しいです。
大地の縮図が人間の腹わた
でも、黄泉の国が腸内世界だというのは、文学的な表現ということだけでなく、古代日本人の信仰とも合致するんですよね。古事記解説第十五回でも触れましたが、古代日本人は地下他界観念を持っていて、神々の世界やあの世は地下にあると考えていたからです。
『古事記』は大地の分解者であるウジを用いて、生物の死と大地の再生を同時に描いています。土の中で行われる死骸の分解、消化、吸収、排泄は、腸内でも同じく行われています。大地の縮図が人間の腹わた、それこそが死の国。
昔の日本人は、死は穢れだと信じていたようです。その理由は、今日の話から考えるに、たぶん、死は排泄物をイメージさせるものだったからなのかなと思うんです。
「死は呪われているから」というよりは、「うわ、ウンチついた、ばっちぃ」みたいな感覚に近かったのではないかなと(笑)
また、死者を土の中に埋葬するのも、大地の中が死の国だから。古代人の信仰、そして現在でも行われている死者の埋葬方法も合わせて考えてみても、黄泉の国を腸内世界として読むことは、方向性としてはあっていそうだなと個人的には思います。もっと言えば、そもそも『古事記』が描く世界というのは、身体宇宙論的なものなのだろうなと私は思います。
補足二つ
黄泉の国は新宿歌舞伎町的世界
そうそう、ここで二つほど言い忘れていたことがあったので、少し補足をさせてください。
一つは、黄泉の国が黄色い泉となっている理由について。黄色い泉、これも身体の機能で考えてみたら、面白いことが見えてきたんですね。黄色い泉、黄色い液体というのは、胃袋のすぐ近くにある、胆嚢に蓄えられた胆汁の色が黄色だそうです。その胆汁はどんな働きをするのかというと、脂肪の消化。胆汁は、胃の幽門から続く十二指腸に注ぎ込まれるのだそうです。
脂肪は多すぎると肥満の原因になり、また、脂肪は欲望の象徴にもなります。これまで黄泉の国は欲望の世界とお話してきましたが、黄色、消化液というワードで拾ってみても、欲望というのが浮かび上がってきたので、いろいろ繋がることが多くて、これはますます面白いなと思いました。
そう考えると、黄泉の国ってイメージとしては、夜の街、新宿歌舞伎町みたいな世界でもあるなと私は思うんです(笑)
ネオンという偽りの月光で照らされた夜の街。毎夜、男と女が嘘の愛を交わすその場所は、欲望がまるで大蛇のようにとぐろを巻いて地下深くに息づいている。大蛇は欲にまみれた人間が大好物。それは、大地の暗がりの中から目を光らせて人間をジッと狙っている。
大蛇の使いである華やかな色女、色男たちが巧みな話術で、人間が腹に隠し持っている欲望を解き放ち、欲に溺れさせる。その欲をコッテリまとった人間は、自ら足を滑らせて、大きく口を開けて待っている大蛇の腹の中へ落ちていく、そんな世界。ちょっと怖すぎるかな?(笑)でもこんな感じで、新宿歌舞伎町は黄泉の国にピッタリだなと私は一人で勝手にそう思っています。
数について
さて、二つ目の補足は、数について。イザナミが千五百の黄泉の軍勢を追わせると、イザナキは千人の力でやっと動かせるような巨大な岩で道を塞ぎ、反対に、イザナミが千人首を絞めて殺すと宣言すれば、イザナキは千五百の産屋を建てると言って、お互いに数を反転させています。最初はイザナミが大きい数を提示し、ニ回目はイザナキの方が大きい数を提示している。それは一体なぜなのでしょうか?
お互いの行動から考えるに、たぶん、数のバランスを取っているからではないかなと思います。この数の反転は、死よりも生を多く生むという解釈のほかに、行為に伴う数のバランスも取っていると考えられるので、それは因果応報を意味したものではないかなと私は思うんです。
因果応報、人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。自らの行いは必ず結果を伴って返ってくるということ。それはまさに『古事記』が黄泉の国に込めたメッセージにピッタリではないでしょうか。そして、最初に千五百を提示したイザナミから因果応報が始まるので、だから彼女はそのための道を敷いた神、道敷大神と言われているのかもしれないなと私は思いました。
今後のストーリー展開
というわけで、以上が黄泉の国の解説でした。ここからは今日最後のお話として、これまでのお話と今後のストーリー展開を図で整理して、今日のお話を終えたいと思います。
カグツチが生まれる以前、イザナキとイザナミは互いにぴったり寄り添っていました。恋は盲目。そこには理想しか見えません。ですが、カグツチを生んで以降は、二人は最も遠いところに位置することになりました。互いに心の距離ができれば、そこには客観的な視点が生まれます。初めて二人は理想から離れて、現実を見ることになりました。今日の話の流れで言えば、頭とお尻はくっつくことはできませんからね。
このシーンは心理学的に見ると、男と女、自己と他者が現実を前にして、理解しあっていくことの難しさも描かれているように感じます。また、生と死を乗り越えることの難しさも語られているようなので、哲学的な問題も描かれているようです。そして、この離ればなれになった両者をもう一度繋ごうとしていくのが後世の神々だと私は考えています。
伊賦夜坂の「賦」は、貢物、授かること、分けることを意味するとお話しましたが、まさにこの真ん中の領域で、後世の神々は、相手に何かを与えたり、授かったり、逆に別れたりを繰り返しながら活動していきます。イザナミがなかなか戻ってこなかった、その気の遠くなるような膨大な時間の中で、後世の神々は活動していきます。
その活動の根底にある思いは、もう一度イザナキとイザナミが再会することへの願い。それは生と死を乗り越えることでもあり、また、離ればなれになった男と女、自己と他者、心と身体、自我意識と無意識など、いろんな二極が上手に折り合っていくための方法を、『古事記』は愛の物語に代えて語っていると私は思います。その愛の物語を、私たち日本人は神話として持っている、文化として持っている、精神として持っている。なんて素敵なことなんだろうとしみじみ思いました。
というわけで、これにて黄泉の国の解説はすべて終了となります。次回からは、イザナキの禊シーンの解説に入っていきたいと思います。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!