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古事記☆新解釈【21】古事記と旧約聖書の決定的違い!罪と罰?「いいえ、けじめをつけたんです」/黄泉国からの帰還②

黄泉の国からの帰還②アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

解説

今回のテーマ

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

前回から、イザナキの禊シーンの解説に入っています。前回は、黄泉の国から帰還し、彼が禊をするために訪れた「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」はどういう場所なのか、なぜ彼は「いなしこめ~↑」とヤギのように鳴いたのか、についてのお話をしました。

その話の中で、イザナキは黄泉の国での出来事があまりにも恐ろしかったので、ギリシャ神話の牧神パーン(ヤギの神)よろしく、パニック状態にあったこと。また、愛する妻と別れた悲しさもあって彼は涙を流しているだろう、ということもお話させていただきました。

イザナキが涙を流しているとするならば、これから始まる禊は、お風呂に入って汚れを落とすというような心地よいものではなく、我が身を削るような厳しい修行のようなものとして考えることができます。今回は、古事記がイザナキの禊に込めたメッセージについて、私なりの考えをお話したいと思います。

前回すでに読み下し文、現代語訳は読み上げているので、今回はスライド表示のみとさせていただきます。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。

古事記「黄泉の国からの帰還」(原文/読み下し文/現代語訳)

禊とは

イザナキは黄泉の国を抜け出し、「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」に到着して禊をはじめます。その禊でどんなことをするのかというと、次回以降の展開では、身につけているものを脱ぎ捨て、川に飛び込んで体をすすぎ、最後に顔を洗うようです。その様子から、お風呂に入って全身を洗い、身も心もほぐれて「ぷは~」と気持ちよくなる、といったイメージが浮かんでくるのですが、先ほどもお話したように、私は、禊はそのように心地よいものではないと考えています。

なぜなら、最初に禊の定義を確認しておくと、「罪や穢れを落とし自らを清らかにすることを目的とした、神道における水浴行為」となっていて、左記にもあるように、イザナキは罪を犯したと思うからです。

イザナキの罪とは?

過去の話をおさらいしながら見ていくと、イザナキは愛する妻を失った悲しさから我を忘れて、子であるカグツチの首を斬って殺してしまいました。そして、黄泉の国でイザナミとの約束も守りませんでした。これが彼の罪だと私は思うんですね。

また、黄泉の国では、恐ろしい姿のイザナミ、ヨモツシコメ、雷神が出てきましたが、それらはすべてイザナキの心を映したものであり、彼自身でもありました。黄泉の国はイザナキの心を映す鏡的世界だからです。

ですから、黄泉の国での出来事はカグツチの首を斬って殺したことに端を発していて、彼の鏡であるイザナミが「あなたがこのようなことをするのなら、私もあなたの国の人たちを一日千人首を絞めて殺しましょう」と言ったのは、「あなたがやったことを、私もあなたの鏡として同じことをしますよ。それでいいのですか!?自分の行いをよく見なさい。反省しなさい」という厳しい叱責であり、これがあったから彼はようやく自分の罪を自覚できたのですね。

罪を自覚したからこそ、イザナキはけじめをつけるために、黄泉比良坂を巨大な岩で塞いだのです。そして、「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」までやってきた。

禊におけるイザナキの心情とは

今回のシーンの読み下し文を見てみると、「竺紫日向の橘小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき」となっています。私たちはこれをシンプルに「阿波岐原に到着された」と読んでしまうのですが、原文は「至-坐」になっています。これは到着したことを丁寧に言うだけではなく、到着したと同時にひざまづいた、と読むこともできると考えます。「坐(まして、ます)」は尊敬語の他に、ひざまずくという意味もあるからです。「ひざまづいた」と読んでみると、今回のシーンがまったく違ったものに感じられてきます。

古事記「黄泉の国からの帰還②」(原文/読み下し文/現代語訳)

まず、イザナキは泣く泣くイザナミと別れました。黄泉比良坂を岩で塞いで彼女と別れたのは、彼が自分の罪を認めて、心にけじめをつけたからです。それによって二人は離ればなれになってしまいました。彼なりのけじめではあるけれど、離別は彼に与えられた罰でもあると私は思います。

そして、彼が禊をしようとやってきた「竺紫日向の橘小門の阿波岐原」は、前回お話したように、そこは顔の領域であり、そこにおいての「阿波岐原」は口周辺、もしくは頬の領域です。そこに「あわ」とあるので、泡のような涙がボロボロと頬を伝ってこぼれ落ちていく様子がイメージできます。

「阿波岐原」が口周辺も指しているということも含めて考えてみると、「涙を飲んだ」という慣用句が導き出されます。そこから、彼はひざまづき、うなだれながら、辛く苦しい気持ちをグッと我慢しているということが見えてくるんですね。

彼は自分の罪を認め、けじめをつけるために愛おしい妻と別れるという重い決断をして、そして「阿波岐原」までやってきて、ひざまづいてボロボロと涙を流して泣いているんです。良心の呵責に苦しんでいるんです。愛する妻はもう隣にはいない。一人孤独に腹に重く苦しいものを抱えて、声をあげながら泣いて見上げた阿波岐原の空は、彼の目にどのように映ったでしょうか。

彼はそういった胸中において禊をしようと決心しているんですね。だから、彼が行う禊というのはお風呂に入るような心地よいものではなく、正しくは、我が身を削ぐ「み・そ・ぎ」の行為であり、それは言い換えると、「涙を飲んで腹をくくること」だと私は考えています。この「腹をくくる」「腹を切る」ことを指したものが「阿波岐原」の「岐」という字に表されているのではないかなと私は思います。

「腹を切る」ことについて

さて、ここにきて「腹を切る」という展開が読み取れたわけですが、どうやら古事記はこの禊を通して、黄泉の国とのバランスを取っているようです。

どういうことかというと、黄泉の国では首をテーマに物語が展開していて、そこでは生と死の起源が語られていました。そして禊シーンでは、首とは逆の腹を切ることによって、今度は死と再生を語ろうとしているからです。

首や腹を切ることは、古来より日本で行われてきた行為です。戦において、敵の首を斬ることは勝利を意味し、反対に自ら腹を切ることは敵に勝利を渡さないため、一族の精神を守るため、そして切腹には勇気がいるので名誉ある行為だと言われています。イザナキも欲の強さに負けてカグツチの首を斬りました。そして、それを反省して、今度は自分の腹を切ろうとしているのだと思われます。

古事記が禊に込めたメッセージとは

古事記と旧約聖書の類似点

さて、そのような状況を踏まえた上で、ここからは古事記が禊シーンに込めたメッセージとは何なのか、についてお話していきたいと思います。

イザナキは罪を犯したために、愛する妻と会えなくなるという罰、そして死には抗えないという罰(まあ、これは誓約ですけども)を背負いました。また、その後の禊を通して、アマテラスたち三貴子をもうけます。そういった展開を通して、私はふと「そういえば、旧約聖書にも同じように罪と罰が書かれているよね。さらに、キリストも一度死んだけど再生するなあ」と、旧約聖書に似た要素を感じ取ったんです。

旧約聖書では、まずはじめに天使が罪を犯してサタンになり、次に楽園に住む人間アダムとエヴァが、知恵の木の実を食べるという罪を犯して、楽園から追放され、さまざまな罰も背負ったと言われています。

また、前回お話したように、今回の禊シーンは火のヤギハヤヲ構造をベースに物語が展開しているので、火のヤギハヤヲに関しても「燃えるヤギ」と検索してみると、興味深いことに、スウェーデンのクリスマス行事「イェヴレのヤギ」というものがヒットするんですね。

イエス・キリストの降誕を待ち望む待降節に、藁でできたヤギを飾る伝統的な行事があるそうで、年が明けるとそれを燃やして一年の豊作の祈願にするそうです。古事記においても禊の最後に、まるでキリスト再生のようにアマテラスたち三貴子が誕生します。

古事記と旧約聖書の決定的な違い

このように、今回のシーンからなぜか旧約聖書に似た要素が感じ取れるわけですが、でもよくよく考えてみたら、古事記と旧約聖書には決定的な違いがあるということにも気づきました。それは、古事記においては、罪を犯し、罰を受け、反省するのは父であるイザナキ自身だということ。正確にいうと、古事記の場合は罰ではないですね、けじめですね。自らけじめをつけたのが父だったということ。

旧約聖書では、罪を犯したのは神以外の存在となっています。キリスト教の「原罪」とは、人間はアダムとエヴァのように罪を犯してしまう傾向を遺伝的に持っている、というものだそうです。罪を犯すのは人間であり、神はそれを許す存在という感じでしょうか。

人間が罪を犯してしまうというのは「それはそうだな」と思います。しかし、古事記においては、神はそれを許す存在ではないんですよね。日本の神様は、自らの罪を自覚し、けじめをつけて、深く反省するのです。神は絶対ではないのです。ここが一神教との大きな違いだと私は感じました。

しかも、その反省を促しているのが奥さんであるイザナミ。奥さんに「あんた、しっかりしなさいよ!」とお尻を叩かれているんです。一神教では絶対にありえない光景ですよね。

古事記と旧約聖書の違い

古事記の教えとは

そういった気づきを得た私は、改めて島生みから禊シーンまでを読み直したら、どういうことが読み取れるだろうと思い、物語を構造で整理してみることにしました。すると、古事記はこのようになっていたということがわかりました。

禊の経緯

島生みの際、最初にイザナミが声をかけてしまったため、ヒルコが生まれました。それを天つ神に報告したら、天つ神は「女から声をかけたのが良くなかった。もう一度やり直しなさい」と助言をくれました。今思うと、これは失敗した原因を明確にして、「やり直せばいいよ」と優しく背中を押してくれていたのだということに気づきました。やり直した結果、島生みと神生みは成功します。

ですが、カグツチを生んだことが原因でイザナミが死んでしまうと、天つ神のパターンとは違う動きが出てきます。イザナキはカグツチを殺し、イザナミに会うために黄泉の国へ追っていきました。黄泉の国ではイザナミが「私も帰りたいから、黄泉神に私の考えを伝えてくるわね。その間、私を絶対に見ないでくださいね」と言ったのに、彼はその約束を破ってしまいました。

結果的に、カグツチを殺したこと、イザナミとの約束を破ったことでイザナキに罪が生まれ、黄泉の国ですったもんだした後、彼は自分の罪を自覚して、妻と離別するという大きなけじめをつけることになりました。そしてイザナキは、自らの行為を反省するべく禊を行い、それによってアマテラスたち三貴子が誕生するという流れになります。

ここまでの展開は天つ神のパターンと異なりますが、でも、失敗した原因を明確にしてやり直すことと、自分の罪を認めて反省することというのは、本質を同じくしているなと私は思いました。それは、「失敗から学ぶ」ということ。イザナキは失敗から何かを学ぼうとしたんですね。その学びを得たことが新しい成功を導き、貴い神々をもうけるという展開に発展するんですね。

失敗から学ぶ大切さ

このように考えてみると、「そういえば日本式の教育って古来からこうだよね」と私は思ったんです。「失敗してもやり直せばいいよ」って。失敗したこと、犯してしまった罪は、しっかり反省してやり直せばいい、神様だって失敗しているのだからと。神にすがるのではなく、自分の力で立て直しなさいと。

神様も失敗しているし、そこで反省をして貴い神を得ている。これが私たち日本人にも精神性として受け継がれているのであれば、こんなに心強いことってないと思うんです。私は一神教に疎いのでアレですが、神を絶対とし、神の前で人間は平等だから正しい行いをしていかなければいけない、という教えはとても美しいと思います。ですが、道を外してしまった人たちに対しては厳しくなりやすい思想だなとも思うんです。

反対に古事記のように、失敗した、でも反省し、そこから学んでやり直せばいい、という教えがあると、自分にも、そして他者にも優しくなれると私は思うんです。「自分だけが神に認められる存在になるのだ」ということではなく、「認め合うのは人間同士であって、神ではない」と思えるからです。

日本の神様は、良い面もあれば悪い面も持っています。神がそうなのだから、私たち人間だってそうなんです。そのことを知っていると知らないとでは、人生の生き方に大きな違いが出てくると思います。生きるのが少し楽になると思います。神も失敗した、だから私も失敗するのは当たり前。でも、神自身はしっかり反省をしてやり直したのだから、私もそうすれば、きっと道は拓けるはずと思えるからです。

ということで、以上をまとめると、古事記が禊シーンに込めたメッセージというのは、過ちを犯しても、しっかり反省してやり直すことが大事だよ、自分の力で立て直すことが大事だよということだと私は考えています。日本の神話、そして日本の神様っていいですよね。厳しくも優しさに溢れているなと思います。

そうそう、古事記と旧約聖書が似ている点をあえて挙げるとするならば、物事の始まりはいつも女からという点ですかね。だから一神教では「女は悪」という考えが生まれたのかもしれませんが、古事記はそういった狭い範囲で物事を捉えてはいないようです。誰が良い、悪いではなく、誰でも失敗はするものです。反省して、学んで、やり直せばいいんです。物事を広い視野をもって見ること。これも古事記の大切な教えの一つだと私は思います。

火のヤギハヤヲとイェヴレのヤギの関連性について

ということで、以上が古事記が禊に込めたメッセージについてのお話でした。ここからは今日最後のお話として、先ほど触れたスウェーデンのイェヴレのヤギが、じつは古事記における火のヤギハヤヲと関連性を持っていたということについて触れて、今日のお話を終えたいと思います。

旧約聖書の流れでスウェーデンのイェヴレのヤギを取り上げましたが、もともとこのヤギは北欧神話由来のものだそうです。名前はユールヤギと言います。北欧神話の神トールが乗る戦車を引いているのがこのヤギだそうです。古事記にも火の夜藝速男神と「ヤギ」という音をもった神様がいるわけですが、ユールヤギとの関連性を考えてみたら、面白いことを発見したんです。

火のヤギハヤヲは燃えるヤギ。ユールヤギは戦車を引いているので、燃える戦車などなど。そのように自由に思考をしてみたとき、「あ、古事記はもしかしたら”火の車”ということを言いたいのかもしれない」と私は思ったんです。

火の車は、貧乏に苦しむ、または、経済状態が非常に苦しいさまを表した言葉です。元は仏教用語で、鬼に責められながら燃える車に乗って地獄へ向かうという、苦しい状況を例えた慣用句だそうです。イザナキの貧しい心や、彼に降りかかる黄泉の国での恐ろしい出来事を見事に言い表した言葉ではないでしょうか?

ヤギハヤヲと火の車

それにしても、不思議ですよね。古事記は、ギリシャ神話、旧約聖書、北欧神話といったように、世界各国の神話に通じるものを持っているみたいです。しかも、皆さん、お気づきですか?トールが持っているハンマー、これは彼の愛用の武器らしいのですが、十拳劒そのものではないでしょうか?十拳劒もハンマー、大槌だからです。いや~、繋がることが多くて、ますます不思議ですね!

natan
natan

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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