本日の講座内容
はじめに
皆さんこんにちは、natanです。この講座では古事記の読解力を上げるため、古代日本の信仰についてお話しています。今回は、蛇信仰について解説したいと思います。
これからお話する内容は、前回同様、民俗学者、吉野裕子先生の知恵を拝借しながらお話していきます。

蛇信仰について
世界の蛇信仰
さて、人類は原始の時代から何かを崇め、信仰し、その神秘の力に頼って生きてきました。世界にはたくさんの宗教があり、多種多様な神々がいますが、原始信仰は世界のどこを見渡しても共通しています。それは蛇信仰です。

有名なものの一つに「ウロボロスの蛇」というものがあります。自分の尾を飲み込む姿から、永遠、不滅、完全性の象徴とされ、宇宙そのものを象徴していると言われています。古代エジプトもコブラは神でしたし、古代隣国の原神も蛇の体をもった伏犠と女媧です。台湾は毒蛇の百歩蛇、メキシコは蛇神ケツァルコアトル。日本でも縄文土器は蛇を模したような形をしていますし、各地には蛇を祀っている神社が数多く残っています。

蛇と性
このように、古代人は蛇そのものに宇宙を感じ取っていたから蛇を信仰していた…と言いたいところなのですが、実はそうではなく。吉野先生いわく、蛇が信仰対象になったのは、蛇が性そのものを象徴しているからだと言います。
どういうことかと言うと、性は物事や生命の初発を司るもので、すべての根源は性にあるからです。また、蛇はその形状から男根の象徴とされ、オスとメスが交尾をするときは何時間も情熱的に絡み合います。さらに、蛇は定期的に脱皮をしてその生命を更新するため、これが人間の性、つまり生きる力の源とされたから信仰の対象になったとのこと。
世界と日本における蛇の扱い方の違い
吉野先生はこう話します。「蛇の扱いを見ることは、性の扱いを見ることであり、結局はその民族の世界観、人間観を見ること」。その言葉通り、信仰の対象だった蛇は時代が下るとその扱いに変化が出てきます。
旧約聖書において蛇は、アダムとイブを誘惑した存在として描かれ、多くの絵画や像で蛇は踏みつけられる存在へと変わりました。なぜ蛇がこのような扱いを受けているのかというと、性に対して罪悪感や嫌悪感があるからです。

しかし、古代日本人は蛇を悪者扱いしませんでした。先生はこう話します。「性についての古代日本人の意識は他民族のそれよりも群を抜いて高度なものだったと思う。多くの罪悪面を持つにも関わらず、性が人間存在の根底にあることを直感した彼らは、彼らを取り巻く森羅万象について考えるとき、その思考の根底に常に性を置いた。性は日本の信仰、祭事、風習等の諸現象の中で、常に中央、根底、初発の位置を占めている。」
「他民族では一方的に性を罪悪視する場合が多いが、日本人は性をそのために全面的に否定し去ることは人の存在の否定に繋がるという認識から、性を人間繁栄の源として捉え直そうとした」。これは前回お話した、神と人間は性を介して顕現するという現人神信仰の核心部分であり、古代日本人の信仰は性の哲学、人間性の哲学が凝縮したものだと言えます。
日本に見られる蛇信仰の痕跡
そんな蛇は、古い日本語で「ハハ」や「カカ」と言い、現代でも私たちはお母さんのことを「母」や「母さん」と呼びます。つまり、蛇は性そのものを象徴するだけでなく、親のような存在でもあったということ。だから、古代人は蛇を祖神としても崇拝したんですね。
それ以外にも、日本において蛇は森羅万象の原型とされ、たとえば奈良県にある三輪山は蛇がとぐろを巻いた姿だと言われています。そして、麓にある大神神社では蛇に姿を変えた大物主神が祀られています。
また、しめ縄は蛇が交尾をしている姿を模したものだと先生は言い、そのために神聖な領域(それは神が顕現する性的な領域)にしめ縄が張られるのだと言います。腰にしめ縄を巻くのも、そこが性的で神聖な場所だからです。

さらに、御神木も蛇が象徴する男根だと言われていて、沖縄の御嶽では「イビ」と呼ばれる穴の聖域に御神木が生えています。イビは女陰、御神木が男根ということで陰陽交合になっています。つまり、蛇は樹木でもあると言えるわけで、先生は古事記に出てくる「ハハキ」も「蛇木」だとおっしゃっています。蛇は生き物なのに樹木でもあるというのは、現代人にはなかなか理解し難い話ですね。

以上のように、古代日本人が蛇を信仰し続けた理由は、蛇が象徴する性を人間存在の本質として捉えたからです。「この認識なしに日本を知ろうとすることは不可能である」と吉野先生は断言されています。
古事記においてもイザナキとイザナミは歓喜の声を上げ、まぐあい、森羅万象を創造していきました。だから私も先生の言葉を借りて、「性の認識なしに古事記を知ろうとすることは不可能である」と断言したいと思います。
以上、ここまでが蛇信仰についてのお話でした。
古事記と蛇信仰について
ここからは今日最後のお話として、古事記と蛇信仰の関係について少し深堀ってみたいと思います。
私は古事記を解読する中で、あることがずっと気になっていました。それは、古事記には蛇信仰が明確に書かれていないということ。蛇より蛇の木(ハハキ)、つまり樹木の描写の方が目立つんですね。性を肯定しているはずの日本が蛇信仰の歴史を消している…ようにも見える。さて、これはどういうことなのでしょうか。
それに対して私はこう考えました。原始信仰は蛇信仰だとお話しましたが、実はもう一つ大事な信仰対象があるんです。それは樹木信仰です。たとえば、ネイティブ・アメリカンも樹木から森羅万象が生まれたと言い、北欧神話でも世界樹と呼ばれるものが世界を育んでいると言います。

で、この世界樹をよーく見てみると、あらあら、蛇もちゃんといるんですよね。ということは、吉野先生は蛇から派生したものの中に樹木を見ていましたが、世界を生み出したのは蛇と樹木その両方だと言えるのではないでしょうか?
ちょっと小難しい話になりますが、たとえば蛇と樹木の違いを人間に置き換えてみると、蛇が性を象徴しているということは、蛇=肉体(感情)となり、樹木は精神(思考)を象徴していると言えます。樹木という背骨に蛇という肉がついている。つまり、精神と肉体(物質)の関係、それが樹木と蛇。
このように考えてみると、なぜ古事記に蛇信仰が感じられないのかというと、古事記が編纂された時代背景を鑑みると、その時代は肉体に重きを置くより、思考や知性を育てないといけない時代だったから、蛇より樹木の方を目立たせたのではないかなと私は思いました。決して時の政権が蛇信仰を消し去ったのではなく、思考や知性を育てることを重要課題としたために、蛇信仰をオブラートに包んだのではないでしょうか?
沖縄御嶽の御神木は、ヤシ科の常緑樹ビロウです。ビロウの幹は蛇に似ていて、男根を思わせるような艶めかしさを持っています。実は吉野先生の古代信仰の研究は、このビロウとの出会いがきっかけなんです。
そんなビロウはそのほとんどが加工され、いろんな呪物や日用品に変身していきます。そのように木を加工して新しいものを作り出すには、考える力、思考力が必要です。そういったことからも、樹木は思考の象徴と言えるのではないかなと私は思いました。

最後に
今日は、蛇信仰についてお話させていただきました。古代日本人の原始信仰である蛇信仰は性を敬うものでしたが、時代が下るごとにそれはオブラートに包まれました。その背景にあるのは、思考や知性を重視した時代が関係しているからだろうというのが私の考えです。
古事記において蛇信仰は見えづらくなりましたが、蛇が象徴する肉体、それが発する感情は隠されることなく色鮮やかに描かれています。ですから、感情の描写の奥に古代日本人の蛇信仰に対する変わらない思いを読み取ることが、古事記を読む上で大切な姿勢になるのではないかなと思います。

それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

