私の宇宙からこんにちは、natanです。
前回、快楽と創造性について、そこには委ねや信頼感が必要だというお話をしました。
今日は、より具体的な性と創造性についてのお話です。
◎前回までのお話はこちら↓
書籍『ヴァギナ』に掲載されている創造性
書籍『ヴァギナ』では、女性が性的に満足すると、創造性がアップするという内容が記されています。
▼ 参考文献 ▼
それは女流作家であったり、写真家、女優、かの有名なハンナ・アーレントの話も。(短文ですけどね)
こういった内容は主観的な部分が多いので、私個人としても「あ~、そうかもなぁ」と感じつつ、イマイチ話が面白くないと正直思ったのです。
なんかスピリチュアルっぽいから(笑)
いえいえ、私はけっしてスピ反対派ではありませんよ!
書籍『盆踊り 乱交の民俗学』のご紹介
そんな中、性による創造性はあの国抜きでは語れない!ということに気づき、性から生まれた独特な文化こそ、性が創造性と密接に関わっている何よりの証拠だ!と思ったのです。
その国とは…
JAPAN!!
ジャポンですよ、じゃぽん。
いや、ジャパンね、日本だぃ\(^o^)/
書籍『盆踊り~乱交の民俗学』(下川耿史著)より、性がどのように日本特有の文化を創造していったのかについてお話したいと思います!!
▼ 参考文献 ▼
以前もお話したように、日本は独特の性文化を持っていて、それが明治時代、西洋列強対抗措置として、政府によって次第にその文化が弾圧されていきました。
かつての日本はお祭りの後に性行為を行っていたと聞くと、お祭りでハイテンションになってそういうことを行っているとか、下品だとか思われるかもしれません。
しかしじつは、日本の性文化を最初から見ていくと、いやいや…、
性こそが日本の文化を創ってきたんだ!
ということがわかるのです。
では早速、歴史をふり返ってみましょう。
歌垣からはじまる性文化
日本の性の文化は
歌垣(うたがき)
というイベントから始まります。
もともと古代日本では、若い男女が近所の山に登り、気があったらその場で性的関係を結ぶ風習がありました。
そんな中、西暦700年代に、あの有名な『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』などが次々と成立していきます。
それと同時に、各地の風土記や万葉集なども生まれ、それによって「歌垣」というイベントがあったことも伝えられました。
歌垣のはじまりは、記録上もっとも古い例は、日本書紀の武烈天皇の項に見られ、それは西暦498年頃とされています。
歌垣というイベントは、出会った男女が即興の歌による掛け合いをして、女性が男性に負けたら、女性は男性の意に従うというものです。
「意に従う」とは「性的関係を結ぶ」ということです。
大勢の見物人の前で歌垣は行われ、見物人がはやし立てたりするので、
歌による一種の性的格闘技
というイメージです。(基本は一対一の個人戦)
著者は別名「乱交パーティー」と呼んでいます。
このイベントは大人気で、イベントが開催されることを知った人たちが、遠路はるばる300kmの道のりを歩いて参加するほど、「野外フェスか?」と思わせるような熱狂ぶりだったようです。
下記動画の歌垣はかわいいものですね(笑)
歌垣から踏歌へ
奈良時代に入ると、歌垣が男女それぞれが打ちそろって足を踏みならす動作が加わった「踏歌(とうか)」へと変わっていきます。
歌垣 → 踏歌へ
この足を踏みならす動作は、ストリップの元祖とされるアメノウズメノミコトを連想させて、とてもエロチックに感じられたそうです。
踏歌は、最初から群衆参加の行事として設定され、男女200人以上が参加する、一大マスゲームの様相さえ呈していたとのこと。
のちに踏歌は、朝廷の儀式として定着していきました。
この男女の歌の掛け合いが積み重ねられた結果、歌は次第に洗練され「和歌」となっていきます。
歌垣は次第に村落単位で行われるようになり、場所によっては昭和初期まで行われていたそうです。
二つに分化した踏歌
この歌垣が踏歌となることで、二つの方向に分化していきます。
- 歌垣の歌の部分が省略された形
- 歌の部分が強調された形
歌垣の歌の部分が省略された形
①に関して、歌垣は歌による掛け合いをきっかけに性的関係を結ぶ行事なので、そこから歌がカットされたとなれば、残るものは性的関係のみです。
つまり、いきなり性的関係へ進む、いわゆるこれが「雑魚寝(ざこね)」と呼ばれ、夜這いとも繋がっていきます。
農作業後の宴会、そして雑魚寝というのが典型的かなと。
歌の部分が強調された形
そして②が、14世紀頃から念仏踊り、小町踊り、伊勢踊りなどの民俗芸能と結びついていきます。
念仏踊りは、ようやく盛んになった庶民仏教が各種の恋歌などを歌い踊ることによって、宗教的エクスタシーを得ようとしたものです。
この形式がのちに大衆化して
盆踊り
へと発展していきます。
雑魚寝と盆踊りとを比較してみると、雑魚寝の方が200~400年くらい早く現れたようです。
歌垣という同じ根から分かれたものなのに、どうしてそれほどのズレが生じたのか?
当時の日本では、文化革新の嵐が吹き荒れていました。
日本史の用語では、その嵐は「風流」と呼ばれていますが、雑魚寝というこれまでになかった性関係の形が「風流」という嵐の表れの一つであり、逆に雑魚寝自体が「風流」という文化の起爆剤となっている面もありました。
そして盆踊りは、念仏踊りなどの風流踊りが発展・定着していったものであり、それまでに200~400年の時間が必要だったのです。
「風流」が生みだした日本のお祭り
風流の古い記録として、しばしば引き合いに出されるのが大江匡房の『洛陽田楽記』にある、永長大田楽です。
これは1096年(永長元年)夏、京の町で田楽という芸能が行われたときの様子を描いたものです。
もともと田植えの際に豊作を祈ったり、田植え女を激励するための、ささやかなお囃子だった田楽が、突如大がかりなデモンストレーションとして挙行されたと報告されています。
永長元年の夏、洛陽、大いに田楽の事あり。その起こる所知らず。初め閭里(りょり)よりして、公卿に及ぶ。高足一足・腰鼓・振鼓・銅鈸子(どばつし)・編木(びんざさら)・殖女(しょくじょ)、舂女(しょうじょ)の類、日夜絶ゆること無し。
「永長元年の夏に、京で大いに田楽が流行した。発端は不明だが、初め田舎の人々によって行われ、公家にまで及んだ。高足一足(一本足の竹馬のようなもの)、腰鼓(腰に鼓を巻きつけ、両手で打ち鳴らすもの)、振鼓(でんでん太鼓のようなもの)、銅鈸子(打楽器の一つで、銅鈸の小型のもの)、編木(短冊形の薄い板を数十枚重ね、両端を振りながら音を出すもの) などを持ってくり出し、一斉に打ち鳴らし、殖女(野良仕事をする女)や舂女(米をつく女)が踊りながら続いて、昼も夜も絶えることがない。」
このような状況が5月から三ヶ月に渡って演じられ、しかも押しかける先にはお公家さんまでが含まれていたため、庶民は拍手喝采したそうです。
そのことが、風流の基本の精神とされました。
この風流の嵐は、平安時代半ばから江戸時代初期まで、全国で吹き荒れました。
しかもそれは庶民の文化ゆえに、規模の大きさにしろ、アイデアの奇抜さにしろ、他人をびっくりさせることが素晴らしいことだという、きわめて素朴な感動をベースにして成立しているのです。
それは、ややもすればハチャメチャであり、下品と見られる側面もありましたが、何よりも解放された庶民の精神の表現だったのです。
これに対して、わび・さびと言われる世界は、風流の下品さを嫌悪するエリートによって生み出された、閉ざされた美意識ということができます。
風流が特筆すべきなのは、ギョッとさせるようなアイデアだけではなく、それが公家ではなく田舎の人々、それも野良仕事の女性や米をつく女なども参加した、まさに庶民文化だったということです。
こういった庶民文化が、のちにお祭りとなったわけですね。
一風変わった盆踊りのご紹介
ちょっと変わった盆踊りで、秋田県の「西馬音内の盆踊り」と呼ばれるものがあります。
「ひこさ頭巾」という黒い覆面をかぶり、目穴だけを開けて、列をなして踊ることから「亡者踊り」と呼ばれています。
この盆踊りに関して、秋田農業短大教授の日浅和枝子さんはこう述べています。
この頭巾は神社や寺の境内など、木立ちの多い場所で踊られていた時代に、好きあっていた男女が誰に顔を見られることなく、お互いは浴衣の柄などで確認しあって、逢い引きを楽しんだ証し。
夜更けて踊りも一段落ついた頃合いに、覆面同士がサインを交わして、境内の林の陰に消えたことだろう。
いいな~こういうの(笑)
自分たちの力で文化を創出する一般庶民たち
14世紀後半、当時の日本には無数の村落共同体が存在していて、戦も多く、村々は戦場と化すことが多々ありました。
歴史はつねに「殺し合いの記録」を中心に書かれ、庶民は戦の犠牲になるというイメージが強くありますが、実際は戦闘で勝利しそうになった方に自分たちの村落を売り込み、税金などで少しでも有利な条件を得ようとしていたという記録もあります。
また、強い共同体意識によって、村人が一揆を起こし、税金引き下げの戦いを起こしていたという記録もあります。
そういった時代だからこそ、一つひとつの共同体は小さいまでも、それらをまとめ上げるリーダーがいたり、各共同体が利害を超えて共通の目標を掲げることで一致団結していたと考えられます。
メンバーはすべて平等であり、組織は民主的な原理にもとづいて運営されていたとされ、その点で日本の民主主義の原点という見方もあるくらいです。
また、一揆に参加しない庶民もいて、そういった存在は風流という文化の形で自分たちの意思を表現しようとしました。
それは、一揆を起こす庶民よりもはるかに多数を占めていました。
政治的な覇権を目指すより、自分たちの手で文化を創出すること。
祭りや踊りを創り出すことなら小さな共同体でも可能ですし、何よりも権力者との武力衝突を恐れる必要がなかったのです。
つまり、殺し合いを避け、老若男女が参加できるという点で、共同体の絆を深める効果も十分にあったのです。
こうして中世の村落は、経済的な面もさることながら、精神的な意味でも強い絆で結ばれていたのです。
風流は、その気概の表れといえます。
日本の性文化は女性主導で行われてきた
ちょっとお話が飛躍したのでまとめます。
古代には歌垣という形で媒介されていた男女の仲が、平安時代後期から中世にかけて起こった「風流」という文化の嵐の中で「雑魚寝」や「夜這い」という形に変化します。
それが、江戸時代には念仏踊りなどの影響により、さらに新しい民俗行事になります。
その行事が「盆踊り」という呼び名で定着していきました。
しかも、盆踊りに至るまでのそれぞれの行事が、男女の性関係と深く密着した形で伝承されてきたのです。
もともと日本では、
性関係は女性主導で行われることが多かった
とのこと。
歌垣や雑魚寝、盆踊りなども、女性の積極的な意志なしに成立しません。
民俗学者である宮本常一はこう述べています。
日本では女によってなされる踊りがきわめて多い。それはもともと男を選ぶためのものであったといっていいほど、踊りにともなって情事が見られている。
さぁさぁ、ようやく女性の性と創造性がつながってきた!
超簡単にまとめると、女性の同意があるなかで、性をともないながら日本の文化は発展してきたということがいえるかもしれません。
家父長制、男性優位社会において、そこに束縛される女性は階級が上の人が多く、一般庶民の女性はそういった束縛からある程度解放されていたと推測されます。
そういった中で生まれた日本の雑魚寝、夜這い文化と盆踊り。
これがのちに、明治政府によって弾圧されていくのです。
まとめ
私たちがイメージする祭りと、昔の日本の祭りはまったく違いますね。
本来は、
祭りと性がワンセットになっていた。
現代の祭りは、「性」という半身を失った状態なんですね。
現代人が祭りにウキウキしてしまうのは、そこに潜在化した性の領域があるからなのか。
それをかつて経験した日本人の遺伝子が、私たちの肉体の遺伝情報としてあり、お祭りを前にするとウキウキするのかしら…。
日本人に限らず、世界中でもそうなのかも。
歌垣も世界中にありますからね。
今日のお話を通して、性と創造性の関係がより身近に感じられたかと思います。
性から文化を創造してきたのは、この日本、さらには一般庶民だったのです。
性がもたらす創造力は、国の文化までも創り出してしまうのですね。
これが個人レベルで行われた場合、それはそれは素晴らしいものが創造されそうですね!
まぁ、でも今日のお話は昔の日本のお話であって、現代だとそのまま適応できませんので(笑)
性がもたらす創造力のすごさだけでも、ご理解いただけたらいいなと思います。
あ…あと、性は絆を創り出すことも忘れてはいけませんね!
それでは次回もお楽しみに♪