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自然信仰における性のとらえ方~古代ギリシャ、ローマの性の考え方~

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natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

これまでキリスト教における性規制をメインにお話してきましたが、今日は自然信仰における性のとらえ方についてお話したいと思います。

▼ 参考文献 ▼

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古代の性観念

古代の共同体の社会規範において、性は次世代を産みだし、世界を存続させ共同体を強化するものであるがゆえ、共同体秩序における「特殊なもの」として尊重されていました。

多くの共同体では、陶酔をもたらす向精神薬物の使用や、舞踏や儀式が「超越的な存在との交流」をもたらすものとして、特別な日の特別な条件のもとに、共同体の指導者層によって管理されています。

それらは、神秘的で超自然的な事柄ではありますが、「聖/俗」や「善/悪」の二分法的な意味での聖であり善である事柄とはかぎりません。

しかし、それら向精神薬物の使用や、舞踏や儀式と同様に、性行為や性的な事項は、私たちの精神に作用し、陶酔をもたらすものであり、その結果として子供を出産する神秘と結びついています。

当然これは、共同体の秩序の中に位置づけられ、特定の儀式、制度、時間や場所の制限を受けることになります。

自然信仰

こうした性的関係に関しては、説明を必要としない慣習上の「禁忌(タブー)」として、規範が尊重されました。

しかし、この段階においてそれが禁じられる理由は、現代のように性的な興奮を招くとか、青少年が堕落するとか、そうした理由ではありません。

それは、共同体における自然信仰を基礎とした秩序を侵すゆえに禁じられ、違反者には処罰が下されたのです。

日本ではむしろ、人々の信仰生活を指導し、支配してきた神社や寺において、儀式または祭りの一貫として性行為が行われていた、という事実があります。

この件については、次回以降詳しくお話します。

古代ギリシャ、ローマの哲学

古代のギリシャやローマの哲学は、自然神的・多神教的世界観を基礎に持っていました。

哲学者

自然に成立している世界は調和しており、そこで起きる事柄には、本質的に善悪の区別が存在しないのだとしています。

そこでは、善悪や快苦は、人間の不完全な認識による主観にすぎないものと説明されます。

またその哲学は、神が人間に神的な属性の一部である理性を与えて、その他の動物と区別したことから、動物に近い本能や肉体に対して、神に近い理性的精神の優位を主張し、人間の本質を理性的精神にあるとします。

ここでいう理性的精神とは、

本質的に集団を形成し、支え合う存在である私たちの公共善を実現しようとする意思のこと

です。

こうした考え方を前提にして、現世における人間のもっとも重要な課題は、

動物的な肉体の誘惑から遠ざかり、自己の理性的精神を、神の秩序と調和的にかつ純粋に保つ

ということになります。

また、自然に存在するものが神の被造物として調和するのに対して、人間が作りだす有形・無形のあらゆるものは、不完全であり一段階低いものとして把握されることになります。

まして、自然の信仰を妨げ、自然に反し、自然を改造することは、神への冒涜として把握されます。

生殖活動に本質的に害はない

「世界が調和している」という信念から、次のことが導かれます。

人間を含む生物が生殖することは、そのように神が生物を創った以上そうであるべきです。

したがって、一定の成熟期間を過ぎ、肉体的に生殖活動が可能になったのであれば、生殖活動を行うことに本質的な害悪があるはずがないことになります。

たとえば、古代ローマにおいては、男女ともに生殖可能になると、成人として扱われました。

その年齢は男女ともに、およそ14~16歳でした。

ただし、経済的・政治的理由を背景とする結婚については、きわめて幼い年齢の頃から婚約し、女子については結婚も12歳頃から行われていたといいます。

ちなみに、この頃のローマ人の平均寿命は、男性で41歳、女性で29歳だったそうです。

結婚指輪

雑学:婚約指輪を贈る慣習が古代ローマ時代にはあったそうな。

こうした自然がもたらすものにそって生きる在り方は、その他の生老病死などの現象についても同様であり、古代の自然哲学は、私たちの感覚器官に生じる刺激に対して、それらを揺るぎなく自然であるがままに受け入れて、内心の理性を不動とすることを要求しています。

性は理性を失う前に解消すべきもの

一方、「理性的精神を保ち、動物的欲望を抑制すべし」という観点からすると、性は適度に抑制されるべきことになります。

人間は理性的に生きることを、なによりも重要な目的とすべきことろなのに、動物的情欲や感覚器官の快楽は、そうした理性の行使を妨げてしまいます。

よって、欲望や快楽に関する事柄は、それ自体が害悪なのではなく、多くの人々にとってそれらが没頭し夢中になって、理性を失わせる原因となる場合に害があるものと考えられることになります。

あるいは、理性を失わせてしまう欲望は、なるべく早く解消されるべきという考え方を導きます。

たとえば、アルベルト・アンジェラは『古代ローマ人の愛と性』という書籍の中で、

古代ローマでは、自慰行為は禁じられていなかっただけでなく、自然な行為として受容されており、不健全だと避難されることもなかった

と述べています。

「人が作ったものは不完全である」という信念から判断するに、自然に反する法律や制度は古代のギリシャやローマの哲学を前提とするなら、それは正しいものではなく、情欲や快楽のために、身体を損なったり、精神を損なったりするような行為こそ、理性的な行為や自然な行為ではないとして、厳しく禁じられるでしょう。

たとえば古代ギリシャでは、性行為は道徳や倫理の問題ではなく、健康や家庭管理に関する問題として把握されていました。

精力を費やしてしまう性行為については、快楽との均衡を保ち、節制することが賞賛されるべき価値として認識されていました。

一方、情欲や快楽のために犠牲となった奴隷たちは、奴隷制のもとにおいては「人」ではなかったため、彼らの置かれた劣悪な状況については考慮が払われなかったようです。

まとめ

人間の三大欲求は「食事・睡眠・性欲」と言いますよね。

たしかにすべては生きるために必要なことなのに、性欲だけは別扱いされるのってよくよく考えると不思議です。

性欲は快楽に夢中になることで、生活に支障をきたす場合があるので、そこを理性的精神で上手くバランスを取るというのは正しい考えだと思います。

また個人的に、性への欲求は適度に解消させないと、巡りめぐってまた快楽の海に溺れたり、今後お話していくことになりますが、心にも悪影響を及ぼすと考えています。

性を抑圧するのではなく、しっかり向き合って対処していくことが大切だと思います。

それでは次回は、いよいよ日本の恋愛と結婚、そして性の歴史をふり返っていきたいと思います。

次回もお楽しみに♪

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