私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、男性性と女性性の支え合い、そして自己否定に関するお話です。
▼ 参考文献 ▼
前回までのお話
前回お話した内容は…
「他者」を求めるようにできているヴァギナと子宮頸部によって、女性はみずからの自立を危うくしても、かならず内からの強い衝動に動かされて、他者と複雑な絆を結ぶ。
そして、ヘレン・フィッシャー博士は、男性と女性の体の仕組みと衝動は、進化的な目的から互いに依存するように生じたと述べます。
二つの性が力を合わせることで、それぞれが成功を最大にするためです。
より自立した男性と、より相互依存する女性。
女性が性的に依存してしまう性質がある、というお話をしました。
一つ目のライフォロジー(人生論)
男性性と女性性の二つの関係
この関係性を人生論として見てみた場合、とてもわかりやすい男性性と女性性の形が見えてきました。
書籍『ヴァギナ』では、お互いの関係性の内容が混同しているように思えたので、私なりに整理してみました。
まず、男性性と女性性の関係性には、二つのパターンがあると考えます。
- 男性性:自立←女性性:協力
- 男性性:抑圧→女性性:従属、依存、(逃避)
これは肉体的性別役割分業としてではなく、シンプルに男性性と女性性の関係性です。
自我意識(男性性)と無意識(女性性)としてとらえてみてください。
これをさらに、円心関係で表現してみると、下記のとおりです。
つまり、自我意識(男性性)と無意識(女性性)はお互いが離れることなく、つねにセックスをしている状態ということです。
同意があるか or ないか
さらに、男性性と女性性の関係には二つのパターンがあることに関して、それぞれの違いには「同意があるか否か」という点があげられると考えます。
- 男性性:自立←(同意あり)女性性:協力
- 男性性:抑圧→(同意なし)女性性:従属、依存、(逃避)
「男性性:自立←女性性:協力」の場合
「①男性性:自立←女性性:協力」という関係性を見てみると、自我同一性の確立がなされた状態のとき、自我意識と無意識は良好な関係性を得られているので、自我が目指すことに対して、無意識は内的な部分で素晴らしい協力をしてくれます。
それによって、自分らしい人生が展開していくようになります。
これは、お互いが絆を構築できているからです。
言い換えると、意識上のセックスにおいて、同意が得られている至福の関係性です。
「男性性:抑圧→女性性:従属、依存、(逃避)」の場合
前回のお話で触れましたが、女性性はみずからの自立を危うくしても、かならず内からの強い衝動に動かされて、他者と複雑な絆を結ぶという点。
男性性の「抑圧」という、すごくネガティブな行為に関しても、女性性は「従属、依存」という形で男性性と関係を持つことになります。
客観的にみると、「そんな関係、やめてしまえばいいじゃない」と思うかもしれませんが、アダルトチルドレンの親がいる家庭環境に育った子どもに顕著に見られるように、その関係を脱することは本当に難しいのです。
なぜなら、女性性側に位置する子どもも、親に依存しているからです。
子どもにとって従属すること、依存することが生きのびる方法だからです。
そして自己の意識においても、常識に自分を合わせようと必死の自我意識は、非常識に聞こえる本音の声を発する内なる私(無意識)に対して、強力な抑圧をかけます。
すると、創造を担う無意識側は自我意識に従属する形で、今度はもっと自分を抑圧しなければならないような現象を目の前に引き起こしてきます。
内なる私もそんな世界は嫌なはずなのに…。
①も②も構造の本質は「支え合っている」という点で一緒なんですが、現象が自分にとってどう展開するか、「協力的」なのか「従属的」なのかは、男性性と女性性の関係性によって変わってくると考えます。
二つ目のライフォロジー(人生論)
自己否定の快楽
ここから、二つ目の人生論です。
今日、私がもっともお話したかったのがココなんです。
自我意識による無意識への抑圧は、自己内における性的暴行になるのではないだろうか?
という見解。
通常は、男女関係において、性的暴行は犯罪として認識されています。
女性側の同意がないからです。
快楽を得るのは男性だけであり、被害を受けた女性は心と体にとてつもない傷とトラウマを負います。
そして、よく考えてみていただきたいのです。
自我意識の抑圧行為は、言い換えると「自己否定」ということです。
自己否定をしているとき、密かに快感を感じていませんか?
自我意識が…です。
多くの人が
自己否定しているときは、ただただつらいよ!
と声をあげるかと思いますが、なぜ自己否定ってやめられないのでしょうか?
「自己否定は良くない」とわかっていても、やめられない。
自己否定にはメリットがあって、その環境に甘んじることができるからということは、過去の記事でお話した通りです。
それだけではない、「快感」というものがあることを、私は自己内観によって気づいたのです。
私の気づき
私も未だに自己否定することがあります。
しかし、コスモ・ライフォロジーを考え、セックスを宇宙論として探究していくなかで、自己否定をしている自分のことも静かに静かに内観してみたのです。
すると、反転した快楽とでもいいますか、自己否定によって自分を痛めつけることに不純な快楽を感じていると気づいたのです。
私、自分のことをレ○プしてる!!!
そう結論づけたとき、私の中でどれだけ自己否定が悪いことか、強烈に理解できたのです。
女性だからなおさらそう感じました。
いやだ!いやだ!いやだ!いやだ!
あんなに内なる私は嫌がっているのに、そこに不純な快楽を感じて自己否定しつづける私。
その行為に対して無意識は同意していないのです。
これは完全な自己内における性的暴行だと私は思ったのです。
自己の身体は「最初の他者」
このネガティブな自己否定に対して、「これは快楽だ」と感じるには、自分のことをしっかり客観視できるようにならないと難しいと思います。
だから、こんな過激な話を読んで、これに賛同する方は少ないと思っています。
社会学者である上野千鶴子さんはセックスに関して、「性行為とは欲望が行動化したもの」であり、そこには「他者(身体)を必要とするもの、しないものがある」とおっしゃいます。
マスターベーションとは、自己身体とのセックスであり、身体は「最初の他者」なのです。
それが一段階層を上げると、身体を介した相手が他者存在として出現してきます。
▼ 参考文献 ▼
つまり、この話を参考にすると、男女間において性的暴行が行われるということは、自己内においても、自己の意識を相手に同じような行為が起こっていると考えても不思議ではない、と私は思うのです。
まるでフロイトのように何でも性的に語って~と、嫌がられちゃいそうですが…。
でも、自己否定をしている自分をよくよ~く内観してみていただきたいのです。
そこに快楽はありませんか?
オタキングの岡田斗司夫さんも私と似たようなこと、おっしゃってました。
「自分のことを嫌っている自分が好き」「自虐オナニー大好きなドMの変態さん」という、私の表現より直球なのか、「性的暴行」と言っちゃってる私の方が強烈なのかはわかりませんが…。
ご興味ある方は、見てみてください。(10:25~はじまってます)
まとめ
最後に、男女間のセックスにおいて、同意があるなしに関わらず、妊娠する可能性があります。
意識においてもそれは同じで、上記であげた①と②のどちらの関係性においても、目の前で現象が展開(創造)していくと考えます。
自我意識と無意識の同意がある関係性における、両性ともに得られる純粋な至福の快楽。
同意のない関係性における、一方的で不純な快楽。
その快楽によって創造される現実が、自分にとって良いものなのか、悪いものなのか。
セックスを宇宙論として考えてみると、その違いの落差は身体ベースで理解できるような気がするのです。
自己否定は誰にでもあります。
しかし、それを永遠とくり返すことに、どんなメリットがあるのでしょうか?
なぜ、内なる私はいつも泣いているのか。
自我意識が何をしてしまっているのか。
よくよく考えてみてくださいね。