私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、愛着障害の克服方法③をご紹介したいと思います。
▼ 参考文献 ▼
言葉を介した認知的なプロセスが重要
愛着の傷を修復するためには、安全基地を確保し、子どものころの不足を取り戻したり、周囲に受けいれられるといった共感的、体験的なプロセスとは別に、もう一つのプロセスが必要です。
それは…
言葉を介した認知的なプロセス
です。
これらが並行して進むことによって、修復までのプロセスはより盤石なものになります。
子どものころに傷ついた体験は、たいてい心の隅に押しやられ、はっきり言語化されないまま、もやもやとした記憶として心に巣食っています。
そうした言語化の不十分な情動的記憶というものが、その人の心や行動を無意識のうちに支配し、ネガティブな反応や感情の暴走、解離といったことを引き起こす原因になります。
そのため、まずはそうした記憶をふたたび活性化することが必要になります。
ネガティブな感情とともに吐きだす
最初は断片的にしか思い出せませんが、それを少しずつ語るのを支える側は、共感しながら受け止めることが大切になります。
嫌な出来事の記憶をたどりながら、そのときどんな思いであったかを、その人の言葉で語ってもらうことが重要です。
たずねられても、すぐには言葉にならないことも多いです。
なぜなら、まだ一度も言語化されることなく、ただ傷ついた思いだけが悲しみや怒りといった強い情動とともに渾然一体となって、心の中に膿の詰まった袋のような病巣を作っているからです。
必要なのは、その膿を外へ出すことであり、そのためには、そのとき味わった思いをネガティブな情動とともに吐き出す必要があります。
言語化する過程において、最初のうちは「なんとも思っていない」「気にしていない」といった、問題の存在自体を否認する場合もあります。
その段階を越えると、次は否定的な感情ばかりが語られる段階に移行します。
この段階では傷つけられた怒りや悲しみを、恨みつらみを込めて叩きつけるように語りつづけます。
それは傷が深ければ深いほど、傷を与えられた期間が長ければ長いほど、長期間続くことになります。
その間、執拗なまでに否定的な感情が語られますが、そうすることが修復には必要なのです。
愛着障害の修復過程で、安全基地となる存在が重要なのは以前お話しましたが、それは自分の生い立ちや傷ついた体験と向き合い、封印してきた過去を整理し、統合し直す作業にそうした存在の立ち会いと媒介が不可欠だからでもあります。
その作業は、友人や恋人を相手に行われることもあれば、パートナーの力を借りて行われることもあります。
否定的なことを一切言わず、丸ごと受け止めてくれる存在に、自分の身に起きたことを、味わってきた思いとともに語りつくすことが重要なのです。
安全基地を持つことは重要
こうした作業が、治療の一環として行われる場合には、主に専門家がその役割を担います。
その人の中でくすぶり続けていた一つ一つの事実を再発見し、それを大きな「物語」として統合する作業をともに行うのです。
ただ専門家だからといって、必ずしもその役割をうまくこなせるとは限りません。
見当違いな治療を行った結果、逆にどんどん悪化してしまうこともあります。
そもそも愛着障害やそこに由来するパーソナリティー障害から目をそむけず、きちんと治療しようという意欲と経験を持つ治療者や専門家はごく少数なのです。
その意味で、一生付き合う覚悟で腹を据えてその人に関わろうとしている非専門家や家族の方が、愛着障害の修復という点では大きな力になるでしょう。
実際パートナーや恋人が安全基地となって受け止めた結果、安定していくケースも多いのです。
逆に、安全基地とならない人がパートナーや恋人であった場合は、うつや心身症によって、心も体も次第に蝕まれていくということになりかねません。
また、そうなったとき、スムーズに回復できるかどうかも、その人が安全基地を持っているかどうかに大きく左右されます。
自己治癒としてのアウトプットの重要性
た、上記以外でも「書く」という行為は、愛着障害の自己治癒の一つの試みにもなります。
作家に愛着障害を抱えた人が非常に多いという事実は、創作という行為が愛着の傷を癒そうとする、無意識の衝動に駆りたてられたものだからなのでしょう。
孤独にものを書くという試みは、すべてを受け止めてもらえる相手に語るという行為に比べればもっと不自由で、愛着の傷を解消することに必ずしも成功するわけではありません。
しかし、作家という存在はその無意識の衝動のままに書きつづけるのでしょう。
何を書いても許される、原稿用紙という安全基地に安定を求めたのかもしれません。
私自身もずっとブログを書きつづけ、頭の中にある思いをつねにアウトプットしてきていますが、この「書く」という行為によって、自分の経験とそれに紐づく感情が整理され、心が落ち着きます。
書くことによって今後どう行動していけばいいのか、どんな意識を持てばいいのかなど、自分なりの答えを見いだせるからです。
たしかに著者の岡田先生がおっしゃるように、書くことで100%自分が救われるわけではありません。
しかし、数%でも心が癒えるのなら、何かしらの答えを見いだせるのなら、やらないよりはマシだと思っています。
だから、私にとってブログは大切な安全基地となっています。
次回は、愛着障害の克服編として、最後のお話をしたいと思います。
▼ 参考文献 ▼